鳥肌音楽 Chicken Skin Music

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

WRITING ABOUT MUSIC IS LIKE DANCING ABOUT ARCHITECTURE.


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9月にサンフランシスコで開かれた民主党議会選挙運動委員会の究極の女性パワー昼食会で、候補者のに資金を調達するため、ヒラリー・クリントン氏と一緒にキャロル・キングが登場したそうです。
キングは昼食会で彼女のロック・クラシックである「君の友達」と77年のアルバム『シンプル・シングス』に収録の「ワン」の歌詞を書き直したバージョンを含む短いセットを披露したそうです。そしてこの時歌ったバージョンを「ワン(2018)」として2013年の「I Believe in Loving You」以来5年ぶりのシングルとして発表するようです。

彼女がどのような思いで「ワン(2018)」をシングルとして発表したのかローリングストーンにインタビューが載っていたので抄訳してみました。来週には中間選挙が行われるアメリカですが、キャロルは現在のトランプ政権に対する危機感を強く持っているようです。しかし隣人でもあるトランプ支持者に対して対立するのではなくお互いの共通項を見つけ話し合いふれあい、新しく良い方向に向かいたい、そんなキャロルの想いを感じさせるニュー・ソングだと思います。

 



>昼食会の前、この曲について考えていました。何かを歌わなきゃと思っていたし、政治的な風潮もあったし、この歌が心に浮かんできました。(77年に)書いた時に世界でどんな政治的なことが起こっていたかは覚えていませんけど。不正を目の当たりにして、それを何とかできないと不満がたまっていきます。かっての私はどんな人だったのか、今も同じ人なのか、いつだって同じでありたいと望んでいます。私はそれが政治的な歌とは思っていません。私はアメリカ市民権を持っていてヴェトナム戦争に反対していました、でも政治家と一緒に行動してないし、ゲイリー・ハート(民主党の元大統領候補)と知り合ったのも1984年でした。

わたしは(オリジナルのレコード)を聴いてみました。オリジナルの2番の歌詞はあまり意味がないし、ブリッジは長過ぎると思いました。ブリッジを治すだけでいいかなと思ったんだけど、今について語るとしたら最後の歌詞はどうなるだろう?選挙について語るとしたら?選挙を抜きにしても?って思いました。私たちに何ができるのか?


私には音楽を作る理由が必要でしたがそれがありませんでした。私は小説を書いています。物語は、私ではないけれど私の経験がベースの世界観が投影された女性の旅ですが、それは音楽業界ではなかったものです。楽観主義と環境問題に対する彼女の物語は私の人生の半面でもあります。わたしは米国議会でいくつかの素晴らしい体験をしました、良いことも恐ろしいことも両方です、この本はそれらについて話す機会を私にもたらすことでしょう。小説は私の創造的エネルギーの大部分を占めているのです。でも(「音楽を作れ」と)啓示を受ければ私は躊躇しません、そして私は啓示を受けそれを行いました。

新しい歌詞で私はこう歌います。

♪私たちは走る 太陽に向かって We’re gonna run/Reach for the sun ♪

そう走るのです。私は候補者に向かい歌います、でもそれは人々にも向けられています、何かに投票するために立ち上がる人々に向けて。それが歌詞を変えた理由です。昼食会の時、みんなこの曲を愛してくれていると分かりました、だからもう一度歌い、メッセージを伝えたい、そこで考えました「レコードにしよう」と。

そうして私たちはジム・ヘンソン・カンパニーのスタジオBにいました、かってはA&Mスタジオと呼ばれていたところです。そこで『つづれおり』を録音しました。ピアノはその時と同じものです 、座って数分弾いていると、魔法のような気分でした。二人の娘、ルイーズ(ゴフィン)とシェリー(コンドール)を呼んで歌ってもらいました。「私たちはひとつWe are one」という歌詞をより多くの歌声で強調したくて何度も何度も歌いました。





先週私たちは民主党に送られた爆発物という形の暴力を経験しました。 共和党には人々に暴力を先導している国の指導者に共謀する風潮が感じられます。これは事実です。たくさんのテープが私にはあります。この歌はそんな風潮にきく解毒剤だということを知っています。この曲のやさしさは私に「イマジン」を思い出させます。”想像してごらん”という言葉はありませんが、似ています。一人では何もできないとあきらめている人々に勇気を与える歌です。

私はレッド・ステート(共和党支持者の多い州)で暮らしていました。 (民主党知事候補の)パウレット・ジョーダン氏は信じられないリーダーシップがあります。厳しい戦いですが、人々は生き生きとしていて、彼女は思いもよらないtころから援助されています。私は36年間暮らしてきたので(オクラホマ州)カスター郡のたくさんの人たちと知合いです。彼らの多くがトランプ支持者ではありますが、私たちは教育や医療といった共通の問題点を持っています。彼らは子供たちに可能な限りの機会を与えたいと思っています。彼らは現政権の側にいるし私は私なりの立場がある、でも隣人を気遣うような常識を持ち合わせている。トレイラーハウスが火事になってしまった男がいたときに人々が集まってきました。私は歌を歌い、人々はポケットに2ドルがあれば1ドルを与えました。私は今民主党寄りの地域で暮らしています、2017年の記録的な大雪が私の生活を破壊しそこで暮らすことができなくなったからです。でもカスター郡の人々のことはいつだって私の心にあります。
 
私がこの曲で伝えたいことの一つは人々がお互いのあいだに礼節を持つことです。お互いの共通の部分を見つけ尊敬しあって話し合いお互いに耳を傾ける。
中期的に何が起こるのか分かりませんが、ベストを望む人々が増え、より積極的な政治情勢に投票する人が増えていると私は信じています。他国からの干渉や露骨な有権者への抑圧など、多くのことが私たちにあらがってきます。だけど、すべての恐れや憎しみを軽くする効果がもたらされることを私は祈っています。そしてこの歌が人々に力を与えることを望みます。

私たちの多くは無力感を感じていますが私はあなたには力があると言いたい、そしてあなたの力を他の誰かの力と合わせればあなたは本当の「力」を手にいれられるのです。





詩のような言葉が浮かんでくる
不正を見るといつも
どうしてなんだろう
一人でいることをのぞけば
一人ができることは
2人と話し合い 3人と触れ合う
いつか400万人になる
私たちはお互い一人
私たちはみんな一人

心を開き あなたの愛を輝かすのだ
行う必要のあることを行いなさい
どこからやって来たかを知りなさい
彼は一人 彼女は一人
樹木も一人 地球も一人 宇宙も一人
私は一人 みんな一人

私のできることに 不思議を感じる
活力の一部はお互いを救い
私のすべきことに 驚きを感じる
一人ができることに

私たちのできること
私たちは走る
太陽に向かい
一人同士が一緒になれば
どうすべきかが見えてくる
一日の終わりに
私たちは言うだろう
愛が勝った


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 73年の忘れがたいロード・ムービー「スケアクロウ」の監督であるジェリー・シャッツバーグは元々は著名な写真家であり、一般的に最も有名な作品はボブ・ディランの代表作『ブロンド・オン・ブロンド』のジャケット写真です。現在91歳のシャッツバーグは「Dylan by Schatzberg」という本を発表しました。


その中で、『ブロンド・オン・ブロンド』のジャケット写真がブレているのは、ディランによるドラッグ・カルチャーへの共感の 表明であるという通説を完全に否定しています。




「(ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』の)カバー写真を撮る気はあるか訊かれたんだ。・・・ディランのことだから、タイトルには何か意味があると思った。だけど私には見つけることができなかった。やれるだけやってみたんだ。スタジオで彼を撮ったけど満足できなかった。なんにも沸いてこなかった・・・。それから一緒に通りに出てみる気はあるかと彼に尋ねた。

私が子供のころ両親が最高のステーキとポテトのためにミートパッキング・デストリクト に連れて行ってくれたことを覚えている。いつ訪れても素晴らしい場所だ。 私たちは車に乗り込みロケに最適の場所を探し撮影を始めた。ディランは有名人だったけど通りを歩く人々が気づくことは無かったよ。」


撮影が行われたのは真冬の2月、ディランとシャッツバーグはかろうじてジャケットを着ているだけの震えながらの撮影で、ジャケットに使われた写真も寒さにシャッツバーグの手が震えディランの姿がボヤけた失敗作。

「私がそれらの写真をディランに見せなければ、ボツになっていただろう。レコード会社もけっして使わなかっただろうね。ブレてたからね。だけど、彼はその写真を見ると一枚を取り上げた。で、ディランが欲しいものはディランが手にするってわけ。ほんとスゴイよ。
私がこの話をするのは、それ(ブレたジャケ写真)はドラッグとはなんの関係もないからだ。二人とも寒くて、震えていただけだ。だけどありがたいことに、最高のイメージだったんだ。」


ディランとシャッツバーグが撮影に臨んだ時点では確かにドラッグ・カルチャー云々という意図は無かったということからすれば当事者であるシャッツバーグの発言は正しいのでしょう。ただ、最終的に焼きあがった全ての写真からあえてブレた写真を選んだのはディランなわけで、その時のディランの心中は神のみぞ知るなので、ドラッグ・カルチャー云々という意図が無かったというのも絶対ではないなという気がします。僕の勝手な妄想では前年の暮れに発売されたビートルズの『ラバー・ソウル』における歪んだメンバーの写真のイメージがディランの頭にはあって、普通の写真ではなくちょっと変わった、顔がブレた、写真を選んだんじゃないかな、なんて思います。完璧だったり予定調和を嫌い、ミスというかハプニングをアートとして取り込んでしまう、そんな時代の始まりだったのかな。



ちなみに、この時ディランが着ているスウェードのジャケットは『ジョン・ウェズリー・ハーディング』、『ナッシュビル・スカイライン』でも着ているディランお気に入りのジャケットみたいです。


  


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前回の記事の中でピアノが印象的なシングルとして挙げられていた中の1曲、エマーソン、レイク&パーマー(EL&P)の「ナットロッカー」について少し。この曲を初めて聴いたのは中学1年の1972年、友人の家で『展覧会の絵』を聴かせてもらった時でした。調べると『展覧会の絵』の国内盤は72年の初めに出ているみたいなので、リアルタイムとは言わないまでも発売年のうちには聴いたという感じです。当時ロックを聴きだしたばかりだったのですが英国産のハード・ロックやプログレが日本でも一世を風靡している頃で、特にプログレについてはProgressive Rock=進歩的なロックというだけでロックの中でも一段上みたいに勝手に思い込んでいました。とはいえピンク・フロイドやキング・クリムゾン、ジェネシスなんかは敷居が高く、いちばん分かり易かったのが音楽の授業で聴かされ、退屈だったクラシックの名曲を外連味を利かせてロック化していたEL&Pでした。

 

 

友人の家で聴いた『展覧会の絵』の本編は少々、退屈だったのですが、本編後にアンコールとして収録された「ナットロッカー」は原曲がチャイコフスキーの「くるみ割り人形」という誰もが知っている有名曲を素材にしてエマーソンがまさに鍵盤を叩きまくるポップなロック・インストになっていて一発で気に入ってしまいました。「くるみ割り人形」の英題が「Nutcracker」なのをロックにアレンジしているので「Nut Rocker」としているのも洒落てるなぁ、さすがは「進歩的なロック」やなぁなんて、今から思うとウブの極みという気がします。

 

 



それから数年たって70年代の終わりごろでしょうか、安価なのでたまたま買ったオムニバスのヒット曲集の輸入盤LPを聴いていたら聞き覚えのあるメロディが流れてきました。あれっコレってEL&Pの「ナット・ロッカー」やん、でもなんか音が違うよなーと裏ジャケのクレジットを見るとB. Bumble and the Stingersの「Nut Rocker」となっています。なんやねんコレ?

 



今みたいに分からなければネットで検索なんて時代ではなく、情報といえばレーベルに書かれたPvotr Ilvich,Tchaikovsky,Kim Fowleyという作曲者名と1962年という出版登録クレジットだけ。とにかく「ナット・ロッカー」はEL&Pがチャイコフスキーをアレンジしたものではなくて62年のB.バンブル・アンド・ザ・スティンガースというバンドがオリジナルだったということは推測できました。今だとキム・フォウリーという名前にひっかかるところなんですが、当時は誰それ?でしたしね。

ということで改めてB.バンブル・アンド・ザ・スティンガースについて調べてみることに。

米ウィキに書かれた説明では。

>B.バンブルとスティンガースは、1960年代初めのアメリカのインストゥルメンタル・バンドであり、クラシックのメロディーのロックンロール化するスペシャリストでした。彼らの最大のヒットは、米国では21位に達した「Bumble Boogie」、そして1962年に英国シングル・チャートで1位になった「Nut Rocker」でした。 レコーディングは、ロサンゼルスのランデヴー・レコード(Rendezvous Records)のセッションミュージシャンが行い、彼らが成功すると、R. C. Gamble(1941年11月3日 - 2008年8月2日)を「Billy Bumble」とするツアーグループが結成されました。

B.バンブルとスティンガースはスタジオ・ミューシシャンによる覆面バンドだったんですね。DiscogsによればメンバーはAl Hazan, Earl Palmer, Ernie Freeman, Jan Davis, Lou Josie, Plas Johnson, Rene Hallといった面々のようです。ドラムはアール・パーマーだったんですね。彼らが覆面バンドを始めたきっかけは、いつもみんなで”スタジオから一歩も外に出ずにお金儲けをする方法はないか?”なんてことを話し合っていて、ある日アール・パーマーが「イン・ザ・ムード」をロック・バージョンでやったら受けるんじゃないかと提案し、みんなも賛同し当時バックを務めていたトロンボーン奏者のアーニー・フィールズ・オーケストラ(Ernie Fields Orchestra)名義で59年にシングルを発表。これが全米4位の大ヒットとなり、メンバーの狙い通り”スタジオで金儲け”に成功し味をしめたということみたいです。
 



次に彼らが考えたのはクラシックをロック化することでした。ここで登場するのが架空のバンド=ハリウッド・アーガイルズの「アーリー・ウープ」で1位を獲得したり、ポール・リヴィアとレイダースのインスト・ヒット「ライク・ロング・ヘア」をスマッシュ・ヒットさせていたキム・フォーリーでした。フォーリーは48年のディズニー映画「メロディ・タイム」の中で使用されていた、元々はリムスキー=コルサコフの「熊ん蜂の飛行(Flight of the Bumblebee)」を フレディ・マーティンと彼のオーケストラ(Freddy Martin and His Orchestra)のピアニスト、ジャック・フィナがジャズ・アレンジした「バンブル・ブギーバンブル・ブギー(Bumble Boogie)」をロック化して録音することを企てます。

 



アーニー・フリーマンのグランド・ピアノとホンキー・トンク・ピアノをフィーチャーしパーマーのドラム、レッド・カレンダーのベース、そしてギターはトミー・テデスコというゴールド・スター・スタジオ御用達のメンバーで録音された「バンブル・ブギー」は曲名をもじったBバンブル&ザ・スティンガース(B. Bumble and the Stingers)名義で61年春に発売され、これまた全米21位のスマッシュ・ヒットとなります。
 



次はいよいよBバンブル&ザ・スティンガースの「ナットロッカー」となるかと思いきや、ここでもうワン・クッションあるのが海千山千の山師が跋扈していた米音楽業界の面白いところ。「バンブル・ブギー」がヒットはしたものの作者クレジットはブギー・アレンジをしたジャック・フィナとなっていたため一切印税の恩恵を受けることのなかったフォーリーは自分が大儲けできるレコードを作ろうとします。そしてチャイコフスキーの「くるみ割り人形」の行進曲の権利を得たフォーリーは「バンブル・ブギー」のアレンジをしっかりと真似て H.B.バーム(H. B. Barnum)というピアニストを使いデル・リオ(Del Rio)というインディーズからジャックB.ニンブル&ザ・クィックス(Jack B. Nimble and the Quicks)名義のシングル「ナットロッカー」を62年の初めに発売します。作者クレジットはもちろんキム・フォーリーです。

 



このレコードを聴いたランデヴー・レコードのオーナー、ロッド・ピーアス(Rod Pierce)は”パクりやがってこの野郎”と怒るかと思いきや、こっちも海千山千、”これやったらうちで録音したほうがヒットするレコードにできまっせ。”と考え急遽Bバンブル&ザ・スティンガースのメンバーをスタジオに召集します。ところが肝心のピアニスト、アーニー・フリーマンは前日のパーティの二日酔いで現れず、バンマスのレネ・ホールは代わりのピアニストとしてアル・ハザン(Al Hazan)を使いレコードは録音されます。ろくに練習もしていないアル・ハザンなので何テイクか録音するかと思いきやロッド・ピーアスはワン・テイク目でOKを出したのだとか、いかにレコードにするのを急いでいたか分かるエピソードです。

 


62年1月に発売されたBバンブル&ザ・スティンガースの「ナットロッカー」は米国でこそ23位のスマッシュヒットでしたが英国ではなんとNO.1のヒットとなります。このヒットを聴いていたのが当時18歳のキース・エマーソン少年で、ひょっとしたらこの曲のおかげで後のザ・ナイスやEL&Pでのクラシックとロックの融合というアイデアを抱いたのかも知れないと考えれば『展覧会の絵』のアンコールとして「ナットロッカー」をほぼコピーで演奏したのはBバンブルへのトリビュートの意味もあったのでは。

さて、スタジオだけの架空のバンドとはいえ、これだけヒットが出るとツアーやTV出演のオファーが殺到します、しかし実際に演奏したメンバーたちはセッションの予約がいっぱい。そこでウィキにも書かれていたように例によってツアー用のバンドが結成されることとなります。名前が似ているからか、オクラホマのギタリストR.C.ギャンブル率いるバンドがB.バンブル&ザ・スティンガーズとして活躍したとのこと。ホントアメリカの音楽業界は伏魔殿のような処ですね。

 

 

72年のTOTPということはELPのヒットで再注目を受けたということなのでしょうね。

 

 
   

 

 


 

 

 

 


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大学の先輩のFBで、大牟田のViridianというギャラリーで定期的に開催されている音楽についての「お話会」の告知がされていました。9/16(木)のテーマは「ピアノ」ということで告知のチラシには会の中で取り上げられるであろうピアノが印象的なシングルのジャケットが載せられています。

エルトン・ジョン「僕の歌は君の歌」
エマーソン・レイク&パーマー「ナットロッカー」
ザ・ビートルズ「レット・イット・ビー」
ジョン・レノン「イマジン」
レオン・ラッセル「ソング・フォー・ユー」
キャット・スティーヴンス「雨にぬれた朝」
ビリー・ジョエル「ストレンジャー」


確かにタイトルを聞いた瞬間にピアノの旋律が頭に浮かぶ有名曲ばかりです。これらに劣らぬ有名曲で付け加えるとすればラリー・ネクテルのピアノがなければ生まれなかったであろうサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」くらいかな(「明日に架ける橋」については数年前に発表された69年の初演ライヴが感動的なので未聴の方はぜひ→ https://youtu.be/GYKJuDxYr3I )。何故「明日に架ける橋」が選曲されていないのか?と思ったのですが、以前の「お話会」で「明日に架ける橋」についてはすでに特集されていたのであえて外されたのでしょうね。

個人的にピアノが印象に残った曲と言えば高校時代に窓辺に座り縦笛を吹く繊細な感じのジャケットに魅かれカット・アウトで値段も安かったので買った『ランディ・エデルマンRandy Edelman』に収録されている「ピアノ・ピッカーPiano Picker」です。ランディ・エデルマンの名前も知らないままのジャケ買いでした。「ピアノ・ピッカー」のPickerは辞書で調べると一般的には「選ぶ人」みたいな意味ですが俗語で「(ギターやバンジョーなどの)弾き手」という意味があります。この場合ピアノにはなりますが「ピアノ・ピッカー」=「ピアノ弾き」ということだと思います。ということで歌詞の内容を見ると独学でピアノを覚えたというランディ・エデルマン自身の経験がもとになっている私小説的な歌のように思われます。

 

 

みんなが僕に訊くんだ
どうしてそんなに上手く弾けるのか

友よ 話してあげるよ

ほんと 時間がかかったよ


何年も何年も練習して やっとさ
膝が悪かったからね
みんなは外でサッカーしてる時も
僕は家で鍵盤を叩いてた
で 弾けるようになった

 

そう その通り これが僕
ピアノを弾いている

気に入ってもらえればいいけど
君のための 弾き語りだから

 

幸運だったと思うよ
ピアノが弾けるようになって
曇って空は灰色でも
ピアノのおかげで心は晴れる

 

何年も何年も練習して やっとさ

ひどいアレルギーでくしゃみばかりで
みんながガールフレンドと遊んでる時も
ぼくはずっと鍵盤を叩いてた
で 弾けるようになった

 

そう その通り これが僕
ピアノを弾いている

気に入ってもらえればいいけど
君のための 弾き語りだから


足が悪くて友達と一緒にサッカーもできないし、アレルギーでくしゃみばかりでガールフレンドも作れず、独り部屋でピアノを弾いていた少年は、やがてシンシナティ音楽院でピアノとコンポジションを専攻し卒業後キング・レコードでアレンジャーを務めたのを皮切りにCBSのスタッフライターやブロードウェイでピアノ弾きを経てソロ・アルバムを発表。73年からは映画のスコアを書き始め映画音楽作家として誰もが知る有名人になります。映画音楽作家として成功し、「君のための 弾き語り」でハートを射止めたのかかのジャッキー・デシャノンと結婚。歌詞の中に「幸運だったと思うよ ピアノが弾けて」という一節の通りの人生といえるのかも知れません。

 

ところで、この「ピアノ・ピッカー」という曲はカーペンターズの曲として初めて知ったという方が多いのかもしれません。アルバム『ソング・フォー・ユー』に収録されているのですが、歌っているのはもちろんリチャード兄さんの方。ピアノ弾きとして歌詞に通じるものを感じたのかもしれないですね。かなり曲の印象は違っていますが・・・。

 

 


 



 

 


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グリン・ジョンズの回顧録「サウンド・マン」を例によって図書館で借りて読んでいます。まだ1/3程度なのですが、とにかく「へぇー」というエピソードが次から次へと出てきて楽しい一冊です。グリン・ジョンズというとストーンズのエンジニアとして有名ですが、デビュー前のメンバーだったイアン・スチュワートと仲が良く一緒に部屋をシェアしていたんですね、知りませんでした。ストーンズからみのエピソードで面白かったのが「夜をぶっとばせ」についての秘話。「夜をぶっとばせ」といえば、エド・サリバン・ショーでその歌詞がわいせつだということで本番では歌詞を変えて歌わされたというエピソードが有名ですが、録音時にも危機一髪の出来事があったのでした。


RCAのスタジオで録音されたバック・トラックをロンドンに持ち帰り、オリンピック・スタジオでミック・ジャガーのヴォーカルをオーバー・ダブしていた時に突然スタジオに警官2人が現れます。「サウンド・マン」には約3ページに渡りこの時のエピソードが書かれています。長いので要約すると以下のような経緯になります。



 

 1966年のアルバム『ビトゥイン・ザ・バトンズ』の頃からストーンズのセッションは主に夜8時ころから始まり翌朝の8時頃まで続くようになっていた。ある日曜の午後、オリンピックのスタジオ1で「夜をぶっとばせ」のミック・ジャガーのヴォーカルを録っていた。バック・トラックは録音済みだったので、その日のスタジオにいたのはミック、アンドルー・オールダム、アンドルーの運転手のエディ、わたし(グリン・ジョーンズ)とアシスタントだけだった。スタジオの中にはヴォーカル・ブースがあり、ブースの正面はこちらを向いていて、囲いがなかった。スタートから20分ほど経ちミックも乗って来てジョイントを決めながら録音は続いていた。そんな時にスタジオ正面扉がいきなり開き、制服姿の警官2人が用心深い足取りで入ってきた。スタジオは2階で、警官2名は巡回中、スタジオの入っている建物の正面扉に鍵がかかっていなかったので様子を見ようと中に入ってきたらしい。扉は私が用意したブースのはるか後方にあるので彼らにはミックの姿が見えず、歌声が聞こえるだけで、自分たちが邪魔をした相手が誰なのかは知る由もなかった。かたやミックにも彼らの姿が見えず、その存在に気づくはずもなかった。
 

 制服の男たちが見えた瞬間のアンドルーの対応には目を見張るものがあった。素早く反応し、ミックと自分の身を逮捕必至の危機的状況から脱出すべく警官の注意を逸らす奇想天外な作戦に出た。ミックが全力で歌っているにもかかわらず、アンドルーはわたしにテープを止めるよう命じた。同時に運転手エディに、種々の違法薬物が詰まったいわゆる往診かばんと共にコントロール・ルームの裏口からすぐさま出るように命じ、間髪いれずにトークバック・キーを押して、当惑したままスタジオの隅に立ちつくしている警官に、どういったご用件でしょうか、と問うた。ミックは何事かとついたてから顔を出した。警官は誰の邪魔をしてしまったのかにようやく気づき、ミックも警官の姿に極めて深刻な事態になりかねないことに気づいた。

 アンドルーはさっと立ち上がると、スタジオに入っていった。警官は邪魔したことを謝り、あくまで建物の安全確認のためだったと釈明した。突然現れたスターにすっかり魅せられている様子を見て取ったアンドルーは少しばかり遊んでやろうと思ったのだろう。お愛想言葉を少々交わした後、警棒はお持ちですかと尋ね、ふたりが警棒を取り出すと、少しの間お借りできませんか、と言った。ミック・ジャガーの存在に心を奪われて威圧されていたからかためらうことなく警棒を差し出した。アンドルーは2本ともミックに渡すと、曲のブリッジに少々パーカッションが入り用だと言った。警棒同士を打ち鳴らすとクラベスのような音がした。警官2名が見守る中、わたしはテープを回し、ミックがブリッジに警棒の音を重ねた。警官はその様子に心を奪われ、子供たちへのいい土産話ができたと、上機嫌でスタジオを後にした。彼らが出て行ったのを確認後、アンドルーは正面扉に鍵をかけエディを呼び戻し、わたしたちは作業を続け、その晩の録音を終えた。どうしてなのかわたしにはさっぱり理解できないのだが、アンドルーとミックはその警棒を打ち鳴らしたまったくもって不必要な音を残すことにした。よく耳を澄ませれば、間違いなく聞こえるはずだ。

 



ということで「夜をぶっとばせに」耳をすますとたしかに1分40秒あたりのバックの演奏がなくなりアカペラっぽくなるところでミックの歌声にカツカツカツカツとクラベスのような音が被さっているのがはっきりわかります。ジョンズの言うように間違いなく聞こえるし、まったくもって不必要な音という気もしますが、本当になんでアンドルーやミックはこの音を残したのでしょうか?悪戯心?

警官二人が何歳くらいだったのかは触れられていないのですが、子供たちへのいい土産話ができたと上機嫌だったということから推測すると、子供がティーンエイジで警官たちは30代後半から40代前半といったところかなと。デビューからほぼ丸3年、不良のイメージで大人達から忌み嫌われていたストーンズもすっかり人気バンドになっていて、いい歳をした警官ですらのぼせ上がって警棒を貸してしまう(バレたら絶対に懲罰ものですよね)ほどの存在になっていたという証として残した?なんてね。
 

 

 

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