鳥肌音楽 Chicken Skin Music

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

WRITING ABOUT MUSIC IS LIKE DANCING ABOUT ARCHITECTURE.

TRAVIS TRITT FEAT. THE EAGLES/TAKE IT EASY



1993年、イーグルスのマネジャーだったアーヴィン・エイゾフがカントリー歌手によるイーグルスのトリビュート・アルバム『コモン・スレッド』を自身のジャイアント・レコードよりリリースします。そしてアルバム1曲目に収められたトラヴィス・トリットがカバーするイーグルスのデビュー・ヒット「テイク・イット・イージー」がリード・シングルに決まります。

そしてプロモーション用にミュージック・ヴィデオが撮影されることになりますが、トリットはエイゾフにひとつの条件を出します。

>俺がビデオを撮る唯一の条件はイーグルスが元に戻ることだった。みんな笑ったよ、そして誰もそんなことが起こり得るとは思ってなかったから、みんなすごく興奮していたよ。(トラヴィス・トリット)



イーグルの2枚看板であるグレン・フライとドン・ヘンリーはお互いに敬遠し合っていて2度とイーグルスの再結成はないと言われていたのですが、トリットの無茶ぶりのおかげで奇跡的にイーグルスのメンバーが撮影のために顔を揃え、一緒の時間をすごすことになりました。そこで、どのような化学反応が起きたのかは神のみぞ知るですが、翌94年イーグルスは再結成しツアーが行われニュー・アルバム『ヘル・フリーゼス・オーヴァー』もリリースされることになります。



ちなみにアルバムのタイトルは、しつこく再結成を訊いて来る記者たちに「地獄の業火が凍りつく(Hell freezes over)ことがあれば、再結成するかもよ」と答えていたことから付けられた、「あり得ないことが起こった」という意味合いのきつい皮肉がこめられたタイトルです。

それにしても、サマー・オブ・ラヴに乗り遅れた世代であるイーグルスのメンバーたちが、60年代末の共同幻想の崩壊を目の当たりにしながらも、自分たちのタイヤのノイズは気にせず気楽に車を走らせようぜと歌う「テイク・イット・イージー」が再結成のきっかけというのも面白いですね。今度のノイズはグレンとドンの確執が起こしていたのかも知れませんが・・・気楽に行こうぜって。





60年代から70年代にかけてビートルズとそのメンバーはNO.1ヒットを量産しました。そんな彼らにとっての最後のNO.1ヒットは何だったかお分かりになるでしょうか?

答えは(2020年現在)ジョージ・ハリスンが87年に発表した「セット・オン・ユーGot my mind set on you」です。さすがのビートルズも21世紀に入ってからのNO.1ヒットは生まれていません。

George Harrison - Got My Mind Set On You (Version I)



最後のNO.1ヒットの「セット・オン・ユー」はジョージの作品と思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、実は62年にルディ・クラークが作曲しアメリカのR&Bシンガー、ジェームス・レイJames Rayが歌ったノン・チャート・シングル「I got My Mind Set On You」をカバーしたものでした。

JAMES RAY - I got My Mind Set On You (Version I)



そんなほとんど知られていないシングルをなぜジョージがカバーしたのか、Songfacts.comには以下のように書かれています。

>この曲はルディ・クラークによって書かれ、1962年にジェームズ・レイによってレコードになりました。ハリソンは1963年の夏に、イリノイ州に住む姉ルイーズを訪ねた時にシングルを買っています。何年も後にアルバム『クラウド・ナインCloud Nine』を製作していた時に、その歌を思い出し、カバーすることにしました。

63年ビートルズはイギリスにおいては大人気グループとなっていてほぼ休みなくライヴかTV出演、レコーディングの毎日を過ごしていましたが8月後半からしばしの休みをとることになりジョンとシンシアはパリでポールとリンゴはギリシャで夏休みを楽しんでいました。

ジョージは兄のピーターとともに、鉱山技師と結婚しイリノイ州のベントンという人口8000人ほどの炭鉱の街に移り住んでいた姉のルイーズ・ハリソン・コールドウェルを訪ねることにしました。

ルイーズはベントンの街で弟のバンドをなんとか有名にしようと頑張っていました。イギリスの母親から送られてきた「フロム・ミー・トゥ・ユー」のシングルを6月にイリノイ州ウェストフランクフォートにあるAMラジオ局WFRXに持込みDJマルシア・ラウバッハに頼み込んでオンエアさせました。このオン・エアがビートルズの音楽が米国のラジオで初めて流れた瞬間だったようです。

9月に弟ハリスンがベントンに到着すると、お土産にジョージが持参したイギリスで発売されたばかりの「シー・ラヴズ・ユー」のシングルを片手に2人でWFRXまでヒッチハイクして、ふたたびオン・エアしてもらっています。なかなかに行動力のある弟思いのお姉さんです。

ベントンでの滞在中、ジョージは自分たちの音楽のルーツであるアメリカの最新の音楽をもとめレコード店足しげく通ったようです。

>ビートルズがアメリカに上陸する以前に僕はアメリカを経験したビートルだった。1963年にニューヨークとセントルイスを観光した後、姉が住んでいたイリノイ州の田舎に行った。レコード店にも行ったよ。ブッカーT&MGズのファーストアルバム『グリーン・オニオン』やボビー・ブランドといったいろんなものを買った。

このときに、店頭に並んでいたジェームス・レイの「セット・オン・ユー」のシングルを見つけて買ったということのようです。チャートにも入っていないシングルを何故買ったのか?ビートルズはジェームス・レイの61年の全米22位のヒット「イフ・ユー・ゴッタ・メイク・ア・フール・オブ・サムバディIf You Gotta Make a Fool of Somebody」を62年のライヴでたびたびカバーしています。



ポールによれば「イフ・ユー・ゴッタ・メイク・ア・フール・オブ・サムバディ」をカバーしたのはジョージがレイのシングルを持っていからだと言います。

>僕たちはその曲のビートルズ・バージョンを作りました、ワクワクするようなワルツだと思ったからだ。誰も3/4拍子のナンバーなんてやってなかったしね。リズム&ブルースのワルツ、そいつは新しかった!

ということで、「イフ・ユー・ゴッタ・メイク・ア・フール・オブ・サムバディ」はジョージだけでなくポールも、そしておそらくはジョンもお気に入りだったようですね。そんなことがあったからジョージは「セット・オン・ユー」のシングルも買ったのではないかと思われます。

そんな経緯を考えると休暇を終えたジョージがバンドに合流した時に、思い出話とともに「セット・オン・ユー」をジョンやポールに聴かせたなんてことがあったんじゃないかと思います。ほら、前にカバーしたジョニー・レイの新曲だよってな感じで。ひょっとしたら、ビートルズでカバーしてアルバムに入れないかいみたいなことがあったのかも知れません。ただ『ウィズ・ザ・ビートルズ』はほぼ出来上がっている時期だし、次のアルバムは自分たちが主人公の映画のサントラになるから、カバーじゃなくて全編オリジナルでみたいなことで、ジョージの提案は却下されてしまった・・・妄想ですけどね。

でも、もし妄想じゃなくて本当にそんなことがあったとすれば、ビートルズを解散して一人のミュージシャンとしても成功を収めたのちに、ビートルズ時代に却下された「セット・オン・ユー」で見事にNO.1を獲ったんだとしたら、さぞかし留飲を下げたことでしょうね。

9月末にヘレン・レデイが亡くなりました。5年前にヘレンの全米NO.1ヒット「デルタの夜明け Delta Dawn」について書いたものを再掲載させていただき、素晴らしい歌手ヘレン・レディへの追悼とさせていただきます。


Delta Dawn/ Helen Reddy


デルタ・ドーン
その花は何?
あの日まとっていたバラが
色褪せてしまったのね

あなたは言ったわね
ここで逢う約束なの
お空の上のお屋敷に連れてかれるのよ

彼女は41
彼女のパパは今もベイビーって呼ぶ
ブランズヴィルの人はみな
彼女は狂ってるっていう
スーツケースを抱えて
ダウンタウンを歩き回り
漆黒の髪の男を探し続けているから

若い頃は
デルタの夜明けと呼ばれていた
最高に可愛い女の人だったわ
やがてくだらない男が近寄ってきて
花嫁にする約束をしたの

デルタ・ドーン
その花は何?
あの日まとっていたバラが
色褪せてしまったのね

あなたは言ったわね
ここで逢う約束なの
お空の上のお屋敷に連れてかれるの





FBのお友達がヘレン・レデイの「デルタの夜明け」をタイムラインにアップしていて懐かしく聴いたのですが、寄せられたコメントに

>邦題は「デルタの夜明け」で、ニューオーリーンズかどこかの歌かと思ったら、女性の名前なんですよね。

というのがあるのを読んで、”えぇーそうだったの”ということで早速拙訳してみました。

「デルタの夜明けDelta Dawn」の本国での発売は1973年の6月ですから夏ごろには日本でも良くかかっていました。前年の「私は女 I Am Woman」もヒットしていたし、この頃ヘレン・レデイは日本でもけっこう人気があったように思います。「デルタの夜明け」はコリンズ・キッズというロカビリーのアイドル・グループの一員だったラリー・コリンズとソング・ライターのアレックス・ハーヴェイ(同名の人いましたね)の共作で、作者でもあるハーヴェイが71年の11月に発表したものがオリジナルです。


Delta Dawn - Alex Harvey - HQ Sound


オリジナルはいきなり”彼女は41歳”ってとこから始まってたんですね。男歌だったこともちょっと意外でした。

このオリジナル以降、いろんな人にカバーされて最終的にヘレン・レデイの全米1位にたどりつくのですが、その辺ちょっと面白いので米ウィキをもとに書いてみます。


ハーヴェイの「デルタの夜明け」の録音にバック・コーラスで参加していたトレイシー・ネルソンが曲を気に入りライヴのレパートリーに取り入れます。そしてNYのボトムラインでネルソンが歌うのを観たベット・ミドラーがこの曲を気に入りレパートリーに取り入れます。当時注目のシンガーだったミドラーはNBCのバラエティ「トゥナイト・ショウ」で「デルタの夜明け」を歌います。それをたまたま観ていたのがタミー・ワイネットやジョージ・ジョーンズを育てたナッシュビルの大物プロデューサーであるビリー・シェリルで、ミドラーを「デルタの夜明け」でエピック・レコードからデビューさせようと声をかけます。

The Bette Midler Show - Delta Dawn


うまいですね。

しかしミドラーはすでにアトランティックと契約していたため当てが外れてしまいますが、「デルタの夜明け」をあきらめきれないシェリルは「The Happiest Girl In the Whole USA」という曲でデビューさせようとしていた天才少女歌手タニヤ・タッカーに急遽「デルタの夜明け」を歌わせシングル・デビューさせてしまいます。

13歳の天才歌手のデビュー曲で「アメリカで最高に幸せな女の子」という曲を歌わせようというのは、戦略としてそれなりに煉ったものだったと思うのですが、それをキャンセルして41歳のオールドミスの歌を13歳の少女にデビュー曲として歌わせるというのはあまりにも滅茶苦茶な気がしますが、それほどにシェリルが曲にほれ込んじゃったということなんでしょうね。

Tanya Tucker - Delta Dawn



タニヤ・タッカーって小節をまわしてますね(笑)

ともあれタッカーの歌う「デルタの夜明け」はカントリー・チャートで6位と新人歌手のデビューとしては成功だったといえるでしょう。ただしPOPチャートでは72位とほとんど無視されてしまいます。余談ですが、なんでアメリカのチャートってカントリーでヒットしてPOPでもヒットするものや、この曲のようにPOPでは無視されてしまうものがあるんでしょうね。ちなみにヘレン・レデイのものはPOPとアダルト・コンテンポラリーで1位ですがカントリーではノーエントリー、うーん。

閑話休題。ちなみに本来のデビュー曲だった「The Happiest Girl In the Whole USA」は作者であったドナ・ファーゴのデビュー曲に廻されます。ってことでファーゴは自作でデビューという幸運に恵まれ楽曲自体もカントリー・チャートで見事に1位、POPちゃーとでも7位の大ヒットとなり、なんとその年のグラミーではカントリー部門のベスト女性歌手賞を受賞、まさにタイトル通り最高に幸福な女の子になったのでした。世の中面白いですね。


Donna Fargo - The Happiest Girl In the Whole USA




タッカーのヒットを聴いたヘレン・レデイのプロデューサーでもあったトム・カタラーノも曲を気に入りスタジオでバック・トラックを録音し歌手を探します。ここでレデイにとくるかと思いきやカタラーノがまず歌わせたのはバーブラ・ストレイサンドでした。ただストレイサンドは気に入らなかったのかレコードにはなっていないようです。そしてようやくヘレン・レデイにお鉢が廻ってきます。



ではタッカーが歌うきっかけとなったミドラーはどうしたかというと。デビュー・アルバム『アメリカが生んだ最後のシンガー The Divine Miss M』用の曲として録音され、アルバムからの2ndシングルとして発売されます。

Bette Midler/Delta Dawn


いろいろ聴きましたがやっぱりミドラーのこのバージョンが最も説得力があるように感じます。

素晴らしいミドラーの歌だったのですが発売がレデイの2日後だったようで、ラジオ局にプロモーションしますがラジオ局はすでにレデイのバージョンをかけ始めており、ミドラーのシングルをかけるのを渋ったため、ではB面のアンドリュー・シスターズのカバー「ブギ・ウギ・ビューグル・ボーイ」をとプッシュしセカンド・プレスではA面B面をテレコにして再発し、前作の「踊ろよベイビー」の19位を越える8位という初のTOP10ヒットとなります。

Bette Midler as Delores De Lago: "Boogie Woogie Bugle Boy"



なんとも楽しい曲ですが、ここで「デルタの夜明け」ではなく「ブギ・ウギ・ビューグル・ボーイ」で成功したことが、初期のミドラーのイメージ、コンテンポラリーではなく懐古的というか、を決めてしまったんじゃないかという気もします。


こうして強力なライバルのなくなった、そしてタッカー版はPOPでは無視されていたことも手伝って6月に発売された「デルタの夜明け」は8月にTOP10入りすると更に上昇を続け9月15日付で見事に全米1位を獲得することになります。めでたしめでたし。


さてお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、ミドラー版も歌詞はオリジナルと同じく”彼女は41歳”から始まっています。ってことはシェリルが聴いた「デルタの夜明け」の歌詞はオリジナルと同じだったはずで、タッカーに歌わせる際に変更したということですね。まぁ確かに13歳の少女がいきなり”彼女は41歳”って歌いだしたら「なんだなんだ」となってしまう気がしますもんね。

ヘレン・レデイにとっては2曲目のNO,1ヒットということで人気歌手としての地位を不動のものにした曲でした。

ということで若くてきれいな頃に男に騙され、41歳になってもその男を待ち続ける哀れな女の姿を歌った「デルタの夜明け」という曲をめぐりタニヤ・タッカー、ドナ・ファーゴ、ベット・ミドラー、ヘレン・レデイという4人の女性の人生に少なからぬ影響が生まれます。単純なヒット曲じゃなかったんですね。

さて、ここからは完全に僕の妄想です。
DELTA DAWNというのが女性の名前だということを知った瞬間に頭にひらめいたのが、ひょっとしてこの曲と関係あるんじゃないかということでした。



真夏の朝のように可愛い
みんなあの娘をドーン(夜明け)と呼ぶ

ドーン
行っておしまい
僕は君にはふさわしくない
あぁドーン
彼の元へ行きな
君たちはお似合いだよ
つかまえるんだ
彼をつかまえるんだよ
考えなよ
彼がどんなに金持ちか
考えなよ
君がいるべき場所を
さぁ考えな
僕のような貧乏人といっしょの
未来がどんなものになるのかを
ドーン行くんだ
頼むから 行っておくれ
だけどほんとは
ここにいてほしい
ドーン行くんだ
頼むから 行っておくれ
ベイビー泣くなよ
これでいいんだよ・・・


自分の元から去っていった貧乏な恋人の事をあきらめいったんは金持ちの男と結ばれようとしたが、結局は恋人のことをあきらめきれず独り、恋人を探し歩いている間にオールド・ミスになってしまったドーンなんてね。いろいろ調べましたがkの2曲を結ぶものは何もなさそうですが。

「悲しき朝焼けDawn(Go Away)」はフォーシーズンズの中でも最も好きな一曲なのですが、バディ・サルツマンのドラムがいいんですよね。身分不相応の恋人ドーンに「金持ちの男のところへ行きなよ」と歌うのをドラムで後押しして前へ前へと押しやるようなドラミングをしているのですが、2回ほどブレーキをかけるようなドラミングをします(アップした動画だと1:07あたり)。このドラムに主人公の男の子のほんとの気持ちが表れている気がして、いいドラムです。

Dawn go awayもDon't go awayにかけてあるんじゃないかとも思います。いい曲です。





ニッティ・グリティ・ダート・バンド(NGDB)が名作『アンクル・チャーリーと彼の愛犬テディ』で取り上げたことで、ケニー・ロギンスの名前が業界で知られるきっかけとなった「プー横丁の家」。

「プー横丁の家」をNGDBが曲を気に入り、ケニー・ロギンスにとってソング・ライターとして初めてのレコードが生まれようとします。しかしNGDBが録音をしようとしたところ、アニメ化をしたことで「くまのプーさん」の著作権に絡んでいたディズニーによって録音は阻止され、「プー横丁の家」のレコード化の話は立ち消えそうになります。しかし、そんな危機はある出来事で回避されめでたくシングルとして発売されます。



以下、ケニー・ロギンスの2014年の The Tennesseanのインタヴューの抄訳を載せときます。最後のオチ(!?)に「嘘やろ」とつぶやくこと間違いなしと思います(笑)

>えぇっと、高校を卒業しようとしてたんだ。何でか分からないけど「プー横丁の家」の最後の章について考えてたんだ。僕が初めて読んだ本なんだけどね。最後の章でクリストファー・ロビンは100エーカーの森を去り、みんなに別れを告げていて、それって僕の高校での経験に似ていると思ったんだ。僕のどこかに、子供の部分が残ってたんだ。そんなことってほとんど考えても無かったんだけど。その時に分かったんだ。

僕はくまのプーさんについて、この曲を書いたんだ、でも17歳だったので知らなかったんだ、くまのプーさんの曲を書くことは許されてないことを、著作権を所有する人々がいるってこともね。当時、僕はソング・ライターとしては、ナッシュビルで行われている、ライターの集まる、さまざまなパーティーに出かけていた…、僕が行ったあるパーティーで、ニッティ・グリティ・ダート・バンドって言う名前のバンドのメンバーの何人かが来ていた。彼らは有望株で、僕のその歌を気に入っていた。彼らは言った、「俺たちはアルバムのための曲を探しているんだ。そいつをレコーディングしたいんだけど。」って。

僕は本当に興奮した。僕の歌が録音されたことは一度もなかったからね。1か月ほど後、ダート・バンドのリーダーであると思われるジョン・マッキューエンから電話があった。「ケニー、本当にすまない。あの曲を録音することはできないんだ。ここ数週というもの、ディズニーの弁護士からの電話が殺到しているんだ。くまのプーさんの曲を録音することは許されないそうだ。」

僕はその日、デートに出かけた。そしてガール・フレンドに話をした、「今夜はちょっと参ってるんだ、僕の曲が初めて録音されると思ってたんだけど、駄目だったんだ。ディズニーの弁護士が邪魔してるんだよ。」彼女は僕を見て言った、「ディズニーの弁護士ですって?パパと話しましょ。」僕は知らなかったんだ、ディズニーのCEOの娘と付き合っていたなんて。






せっかくの4連休も雨続きなので音楽くらいは晴れの一曲を。

1966年の今週、ボビー・ヘブの代表曲「サニー Sunny」 がビルボード・チャートで最高位2位のヒットとなりました。



上の写真は「サニー」が日産のサニーのTVCMに使われ(そのままやんけ)たことで、再リリースされたシングルのジャケットです。この歌はとにかくカバーの多い歌なので、もちろん以前から知っていたし作者であるボビー・ヘブのものが特に好きで、学生時代にレコード店で見つけて買ったものでした。

詳しい日付はいつ頃だったのかと、レコード番号の7PP-25で検索かけてみると、この番号では分からなかったのですが、近い番号の7PP-23トーキング・ヘッズの「ヒート・ゴーズ・オン」と7PP-27ブームタウン・ラッツ「燃えるギルティー」の間なので、順番通りの発売であれば80年末頃、僕が大学2回生の時に買っているようです。

タイトル、そしてこの再発シングルのジャケを見てもお分かりのようにとにかく晴れ晴れとした気分となる一曲です。



>サニー、昨日までの僕の人生は雨でいっぱい
サニー、きみがほほ笑めばそんな傷みもふっとぶ
暗い日々は過ぎ去り 晴れた日がやってきた
僕のサニーが優しく輝いているから
あぁサニーきみこそ真実 愛している


Sunnyというのが「晴れた」という意味だけでなく男女どちらにも使える名前だったりもするので、捉え方に幅が出てくる歌詞でもありますね。基本的にはラヴ・ソングと思われていますが、中には神による愛と慈悲の歌という解釈もあるようです。

しかしながら、ボビー・ヘブが「サニー」を作曲したきっかけは決してジャケットのような晴れ晴れしいものではありませんでした。

ボビー・ヘブの歌う「サニー」がヒットしたのは66年夏ですが、ヘブが曲を書いたのは63年の11月のことでした。全米が震撼した11月22日のジョン・F・ケネディ大統領の暗殺にショックを受けた翌日に今度は歌手としても尊敬していた兄のハロルドがナッシュビルのナイトクラブでライヴを終えた後、店の外で強盗によって刺されて死亡してしまいます。この二つの死の48時間後には出来上がっていたという「サニー」は絶望感により落ち込んでしまった精神のバランスを保つ役目を果たしたといいます。

曲が書かれた時の様子を語った音声がTorpedo Boyzの2006年の「Trust、Integrity&Pure Love」に引用されています。



>NYのセカンドアベニューに近いブランデーズというレストラン・バーでライヴを行っていた。私はテネシー・ウイスキーの影響下にあった、ほんとヘロヘロだった。眠ってしまうんじゃないかと恐れていた。見上げると紫の空が見えた。ギターを手に取り、鉛筆はなしで書き始めた。そうしてこの曲が生まれたってわけだ。ずばりって感じさ。

どんよりと曇った空を見上げながら「晴れた」歌を作ったというわけですね。

ヘブの精神のバランスを保つために作られた曲でしたが、というか、だからこそというか「サニー」はすぐに発表されることはありませんでした。後に多くのカバーが作られスタンダードとなる「サニー」を最初にレコードとして世に送り出したのは、なんと弘田三枝子でした。



1965年7月、18歳の弘田三枝子はニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演するために渡米。出演後1ヶ月間滞在し、ビリー・テイラー・トリオをバックにアルバムを録音し『Miko In New York』として発売されました。ヘブのバージョンの1年前に発表されていてこちらがオリジナル・ヴァージョンということになります。

聴いてもらえば分かるようにジャズ・トリオをバックにしてのアプローチだからかもしれませんが、ヘブ版とはかなり印象が違って聴こえます。ひょっとして出版社にあった元々のデモはこちらに近い感じだったのかも知れませんね。

オリジナルは弘田三枝子ですがアメリカ人による最初の録音はマリンバ奏者のデイブ・パイクによってアルバム『Jazz for the Jet Set』の中の一曲として65年末に録音され翌66年に発表されています。



アルバムの録音にはビリー・テイラー・トリオのドラムスのグラディ・テートも参加しているので、彼からの提案で録音されたのかもしれないですね。ちなみにオルガンはハービー・ハンコックのようです。

ヘブ版は弘田版よりこちらの雰囲気に近い気がしますね。ひょっとしたら、ヘブはこちらのイメージを参考にしたのかも知れないですね。

何れにせよ63年の作曲から3年弱、ようやくヘブにも「サニー」の録音の機会が訪れます。プロデューサーのジェリー・ロスが招集したセッションで目的の録音が終わった後の残り時間を利用して「サニー」が録音されます。

ヘブは「サニー」について以下のように語っています。

>「Sunny」は性質のことです。陽気な性質であるか、嫌な性質であるか。叫び声をあげ誰かに怒っているのか、「いや、まぁ、怒っちゃいない。話し合おうよ。前向きで、楽しい方法をね」なのか。まあ、その楽しい方法っていうのがsunnyな気質なんだ..。カオスに陥らないように少しリラックスするためにその種のニュースを広めるんだ、カオスは時に殺人を引き起こすからね

デイヴ・パイク版を下敷きにした録音で満足のいく「Sunny」を表現できたのか、ようやく発売されたヘブの「サニー」は前述したように全米2位の大ヒットとなりマーヴィンゲイ、ダスティ・スプリングフィールド、スティービー・ワンダー、エラ・フィッツジェラルド、フランク・シナトラ、シェール、ホセ・フェリシアーノ、ウェス・モンゴメリー、ジェームス・ブラウン、ベンチャーズ、フォーシーズンズフランキー・ヴァリ、ナンシー・ウィルソン、ジミー・スミス、フォー・トップス、ブッカーT&MGズなど数多くのカバーを生み出します。BMI調べでは最もオンエアされた楽曲のランキングで18位、発売当初「ラジオでかかって小金が入ればいいや」くらいだったヘブの思惑をはるかに超えて、ラジオをひねればいつもかかっているエヴァーグリーンな一曲になったのでした。

PS.一時期ジョンBチョッパーが抜けて3人(サンニンー)になっていたウルフルズの、ジョンBの復活で元の4人に戻った喜びを歌った「四人」。作者のクレジットはトータス松本となっているのですが、どう聞いてもボビー・ヘブですね。やりやがったなトータス、いや銀次さんか?