鳥肌音楽 Chicken Skin Music

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

WRITING ABOUT MUSIC IS LIKE DANCING ABOUT ARCHITECTURE.


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The Mosquitoes : "Don't Bug Me" : "He's A Loser"



あなたはモスキートーズThe Mosquitoesというバンドをご存知だろうか?64年にビートルズがアメリカに上陸しビートルマニアという大嵐を巻き起こした後に、ビートルズに対するアメリカからの返答として生まれた有象無象のバンドのひとつで、65年に"悩ませないでDon't Bug Me"や "彼は負け犬He's A Loser"といったスマッシュ・ヒットを放ったフォーク・ロック・バンドである。全盛期の彼らは当時のアメリカの茶の間(!?)で大人気であったCBSのドラマ「Gilligan's Island」にもゲストで登場していて、上にアップしたYOUTUBEの動画はその時のものです。日本でも「もうれつギリガン(orギリガン君SOS)」というタイトルで放映されていたのでご記憶の方もいらっしゃるのでは・・・・・

なんて、冒頭からフェイク記事で申し訳ありません。モスキートーズは実在のバンドではなく1965年12月9日に放映された「もうれつギリガン」の「Don't Bug the Mosquitoes」というエピソードに登場する架空の人気バンドです。



「もうれつギリガン」は本国での放映は1964年9月26日から1967年4月17日までの3シーズン行われ、日本での放映は1966年から1967年にかけての1シーズンのみのようですから、ひょっとしたら第2シーズンに放映されたこの「Don't Bug the Mosquitoes」は日本放映は無かったのかもしれないですね。

*「もうれつギリガン」についてはコチラを→米ウィキ 、日本語ウィキ

ビートルズの影響を受けたバンドが登場するドラマといえば勿論NBCの「モンキーズ」を思いだすのですが、放映が1966年9月12日から1968年3月25日の2シーズンということで、モスキートーズのエピソードが65年12月9日ですから約9か月モスキートーズが早かったことになりますね。ただ65年9月8日にはモンキーズのオーディションの広告が新聞、雑誌に載っていたみたいなのでアイデアとしてはNBCが先だったのかもしれません。



いずれにせよ65年にはビートルズ人気のおこぼれに預かろうと3大ネットワークもいろいろやっていたっちゅうことなのかなと。

閑話休題。「Don't Bug the Mosquitoes」がどんなエピソードであったのかあらすじを書いておきます。

スキッパー船長はある朝、ギリガンのラジオから大音量で流れるロックンロールで目を覚まします。スキッパーは小屋からギリガンを追い出しますが、それにより今度は大金持ちのハウエルが音に悩まされてしまいます。ハウエルとスキッパーはギリガンを見つけ出しラジオのスウィッチを切らせます。しかし、それでもロンクンロールは鳴り止みません。音はジャングルから聞こえてきていて、3人は音の在りかを探すとジャングルの中で4人組のバンド、モスキートーズが演奏をしていました。モスキートーズは熱狂的な追っかけファンから逃れしばしの充電期間を獲るために無人島にヘリコプターでやって来ていたのでした。

漂流者であるギリガンとその仲間たちは、モスキートーズが島から帰る時が自分たちも島から抜け出るチャンスだと考えます。ところが、モスキートーズたちは一か月以上も島で休養する予定ということを知り、ギリガンたちはモスキートーズをイライラさせて島からすぐに逃げ帰りたくなるように仕向けます。

そして自分たちもバンドを組んでモスキートーズの仲間になれば一緒に島から帰れるだろうと考えギリガン、スキッパー、ハウエル、ヒンクリー教授の4人はGnatsというバンドを組み演奏しますが、演奏を観たモスキートーズのバンドも思わず両手で耳をふさいでしまうひどいもの。

Gilligan's Island | The Gnats



ジンジャー、メアリーアン、ハウエル夫人はハニー・ビーというガールズ・グループとしてキュートな歌と踊りを披露(ハウエル夫人役のナタリー・シェイファーの実年齢は64歳!)してモスキートーズもノリノリになります。

The Honeybees/You Need Us



しかし、計画は裏目に出て、モスキートーズは彼らを置き去りにしたままヘリコプターで去ってしまいます。7人を連れて帰れば、ハニー・ビーが彼らの人気の強力なライバルになると思ったようです。感謝の気持ちとしてモスキートーズ自身のアルバム「カーネギー・ホールのモスキートーズ」を残していきます。自分たちの脱出計画が上手くいかなかったことにイラだつスキッパーとハウエルの横でギリガンだけはアルバムにモスキートーズがサインを書いていないことに怒るのでした。

熱狂的なファンのおっかけにヘキエキとしていうのは映画「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」を思い出させますし、ガール・グループのハニー・ビーの歌に大ノリするあたり、いかにもビートルズを意識したネタで面白く思います。そういえばハニー・ビーを紹介するハウエルはエド・サリバンを真似ているし、メアリーアン(白のセーター)の歌の吹替えはジャッキー・デシャノンというのもビートルズとの関連性を感じさせてくれます。

ところで、ドラマの中でモスキートーズのメンバーを演じた4人のうちの3人はウェリントンWellingtonsというフォーク・トリオでした。彼らはディズニーの「デイビー・クロケット」のテーマ曲を歌ったことで知られているようですが、「もうれつギリガン」の第一シーズンのオープニング・テーマも彼らの歌唱によるものでした。



このテーマ曲を聴くと、あぁ懐かしいメロディだなぁと思われる方も多くいらっしゃるのではと思います。日本版の「もうれつギリガンではメロディは同じで日本語の歌詞が付けられたオープニング・テーマになっていました。



当時、僕は小学校低学年でただただギリガン君のおとぼけやすっこけに大笑いをしていただけですが、今になって振り返ってみると、やはりその時代ならではのいろいろのな物事が反映されているものなのですね・・・・#調べてみたから分かったよ


今回のブログはローリングストーン誌の記事「Flashback: The Women of ‘Gilligan’s Island’ Form a Pop Group」を参考にさせていただきました。

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ローリング・ストーン誌にちょっと面白い記事があったので抄訳してみました。Teenagers Are Teaching Their Parents to Stream, and Radio Is Nervousという記事です。近年、定額制のストリーミングで音楽を聴くというスタイルが一般化したおかげで音楽CDの存在は、風前の灯となっています。ところが、ストリーミングはCDだけではなくラジオというメディアで音楽を聴くという行為にも打撃を与えるのではないか?実際に、ストリーミングで音楽を聴いている10代の子供たちが、その親たちにラジオなんかよりストリーミングの方が便利だよということを教え、SpotifyやAppleMusic に加入する親世代が増えてきているといいます。

はたして、ストリーミングによってラジオという存在は消えてしまうのか?記事はそんな心配は杞憂だとしています。むしろ、ストリーミングとの相乗効果でラジオの存在価値をあげるチャンスもあり得るとしています。

ティーンエイジャーは両親にストリーミングを教え、ラジオはナーヴァスに。

コアなFMリスナーは歳をとっています。 そして、その子供たちはSpotifyをママとパパに教えることで、ラジオの牙城を侵食しているかもしれません。



ボイスメールを残したり、野球を見たりするのと同じように、ラジオを聴くことは高齢者に人気があります。エジソン・リサーチ社の分析によると、「FMラジオはあなたの世代のためのものですか」という設問に、親世代の70%が同意しています。そして10代では34%だけが同じように感じています。

ラジオを敬遠する10代の若者たちは、両親がミニバンのラジオのプリセットをいじるだけでは満足できません。代わりに、小馬鹿にしながら、新しい技術を使って音楽を流すように提案します。

これは、カントリー・ラジオのフォーマットについて議論するために毎年開催されるカントリーラジオセミナーでの最近の発表のあらましです。エジソン社によると、10代の子供を持つ親は、持たない親よりも過去24時間以内に何かをストリーミングしたと答える割合が約20パーセント高くなります。

「両親が今もラジオを聴いていると、10代の子供もラジオを聴きます。」メーガン・ラゾヴィックとラリー・ロージンと共にエジソン社の研究論文を執筆したローラ・アイヴィーは語ります。「しかし、10代の若者にとって音楽の聴き方で最も好ましく感じるのはスマートフォンで、70%を占めています。今、私たちは、音楽を聴く方法としてスマートフォンがFMラジオと同じくらい大きな役割を果たすことを、10代の子供の親たちによって気づかされています。」

アイヴィーとラゾヴィックのプレゼンでは、10代の子供の親は段階的にストリーミング・テクノロジーを使いだしていくと説明しています。子供たちが「堕落」への代理人を務めるのです。「子供たちは私に(ラジオを聴くのではなく)AUXコードを使って自分の携帯電話を繋ぐ方法を教えてくれます。」と一人の母親が研究者に説明しました。また別の母親は彼女の子供たちについて語ります、「Spotifyが私の人生を変えるだろうって言われました。 それはある種の正解でした。」

奇妙に聞こえるかもしれませんが、現代では、10代の子供たちは両親と一緒に音楽を聴こうとしています。今までは必ずしもそうではありませんでした。「社長のラリーは、彼の母親が、ロックンロールは音楽じゃないと言っていたことをよく話してくれます。」と、ラザヴィックは語り。「ラリーの母のような世代は(若者の)音楽についてまったく無理解でした。今はその頃とはかなり違うようです。両親と彼らの10代の子供たちは音楽を通じてかなり関係があるように思われます。」

エジソン社によると、両親の76%、10代の60%が「音楽を聴くことはあなたとあなたの10代の子供にとって重要な活動である。」という設問に同意しています。「遠回しな賛辞であるかもしれませんが、それが望ましい事であると考える冷静さはあります。」3人の子持ちであるアイヴィーは付け加えます「でも、更に冷静であることが必要であると思うほどには冷静ではありません。」



簡単なことです。エジソン社の調査によると、ラジオはストリーミングの約2倍の人気があります。ラジオはまだまだ、10代の若者の間でも音楽の聴くための主要な方法なのです。しかし、ストリーミングに対するそのリードは急速に縮まっています。二つのグループが互いに恥ずかしい思いや不愉快な気分を持たずに交わることができれば、浸透が起こります。そうすれば両親はもっと頻繁にストリーミングを使うでしょう。調査対象となった1,909人の両親のうち68%が、「あなたの10代の子供たちは新しい技術であなたを手助けしている。」という設問に同意しています。

「子供たちは(Spotifyの使い方を教えて)私が簡単に音楽を聴けるようにしました。」別の母親がエジソンのプレゼンで発言しました。「彼らは私が欲しい曲を聴くのをずっと簡単にしました。」

アイヴィーはエジソン社の新しい研究を強調します。「ラジオに関して悲観的もしくは見下した内容の研究とは見なして欲しくありません。」「まだ多くのリスナーがFMラジオを使っています。」と彼女は付け加えます。「大規模な聴取率を忘れてはいけません。」

ラジオが国を覆い尽くしているのは事実です。「当社の調べでは毎月ラジオを聴く人の数はアメリカ人の91%に達しています。」 iHeartメディア社のCEO、ボブ・ピットマンは、次のように述べています。「10代の若者では、ラジオを毎週聴く人は93%に達しています。 私たちは(ストリーミングで音楽を聴く)未来に興奮しています、でも忘れないで欲しい、全ての人々が未来に興奮してるわけではありません。」SpotifyとApple Musicへの忠誠を誓うリスナーの割合が13%上昇したにもかかわらず、ラジオを聴いていると答えた人が84%いるという割合が2011年から2018年まで変わらなかったことを示す別の調査にも彼は注目します。

最終的な将来像としてピットマンは、ストリーミングとラジオが調和して機能するだろうと考えています。「私たちはストリーミングを競争相手と見なしたことはありません - この2つは一緒になっています。」と彼は言いました。そして、今日のストリーミング・ライブラリを従来のCDのコレクションに例えています。「新しい音楽を発見するための効率的な方法が見つからなければ、音楽コレクションはあまり役に立ちません。」 ピットマンは続けます。「アメリカ人の約70〜80%の人々にとって音楽を発見する主な方法はラジオです。音楽コレクションを持っていてラジオも聴いている人、それが皮肉ではありますが私たちのリスナーです - 私たちは彼らにコレクション追加​​のための有用性を提供しています。」



エジソン社の調査結果はこの相乗的な見通しを支持しているのでしょうか?「車の中の技術が追いつくまでの何年かは、人々はラジオを聴き続けるだろうとと思います、なぜなら車にはボタンが1つしかなくそれ以上の手順が無いからです。」とラゾヴィックは言います。「しかし、10代の若者と話をした後は、自分のスマートフォンを使用するために必要な手順は、どの放送局を聴くかを考えるよりも簡単だと思いました。」。10代の半数近くは、自分の携帯電話を使用するほうがラジオでゴタゴタするよりも簡単だと同意しました。

エジソン社はFMの素晴らしさを若者に紹介するために2つの戦略を考えています。「ラジオ局は、10代の若者をターゲットにしたり、ラジオの使い方を教育したりすることはしていません。」とラゾヴィック氏は言います。そのため、「彼らはそれがもたらす価値を認識してないのです。」とアイヴィーは付け加えます。プレゼンの後、22歳の若者が立ち上がってこう言いました、「私はストリーミング・サービスからの広告に攻撃されています。ラジオについては私に話す人はいません。私の町のラジオについて、それが何を提供しているのか、どうすればわかりますか?」

エジソン社は両親にも提案します。「カントリー・ミュージックを聴く10代の若者の60%は、両親からより多くのカントリーを聴かされたと述べています。両親は音楽の選択に関してある程度の影響力を持っているのです。」  とアイヴィーは言いいます。つまり、子供たちがストリーミングの使い放題を親たちにロビー活動しているのと同じように、両親はラジオの素晴らしさを子供たちに伝道することができるのです。

Spotifyはラジオにとって新しい脅威になる可能性があります。そして、ラジオを愛する両親は昔からの挑戦に直面しているのです。自分の好きな音楽を自分の子供にも好きにさせるという挑戦に。




ストリーミングを使って音楽を聴くようになっても、新しい音楽との出会う機会はやはりラジオからという意見には納得がいきます。あと最後の親が自分の好きな音楽を子供にも好きになって欲しいというのは誰もが思うことなんですね。僕の場合は仕事が音楽ソフトの卸だったこともあって、娘たちが好きそうな楽曲のサンプルを手に入れて車の中でかけたりして甘やかしたせいか、ほとんど親とは違う音楽を聴くようになってしまいました。もっとスパルタ的にやるべきでしたと後悔です。


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ぼくがフェニックスに着く頃 彼女は目を覚ますだろう
彼女は気づくだろう ドアに残したぼくのメモに
彼女は笑うだろう ぼくは出て行くよという一言に
また出て行ったのねくらいに思うから

ぼくがアルバカーキーを走る頃 彼女は仕事中だろう
彼女は昼食をとるだろう そしてぼくに電話する
だけど彼女が聞くのは 鳴り続ける呼び出し音
だれも出ない壁の電話 それだけ

オクラホマを走る頃 彼女は眠りにつくだろう
ゆっくり寝返りをうつだろう そして僕の名を大声で呼ぶ
彼女は泣き出すだろう どうやらぼくが本当に去ってしまったと
ぼくは何度も何度も彼女に伝えていたのに
彼女はぼくの気持ちをこれっぽちも知らなかった



Songfacts.comによると「恋はフェニックス」はウエッブが高校時代からつきあいになるスージー・ホートンと恋愛がもとになっているようです。

>「マッカーサーパーク」がそうであったように、「恋はフェニックス」はジミー・ウェッブがカリフォルニアのコルトンの高校生の頃に付き合いはじめたスージー・ホートンについて書いたものです。 彼女がダンサーになるためにレイクタホへと逃げるように去ったため、ウェッブは激しく心を痛めました。そして彼女が別の誰かと結婚したことを聞き、最悪の気持ちになりました。1969年のブルックリン・ブリッジのヒット「恋のハプニング(Worst That Could Happen)」(初出は67年のフィフス・ディメンション)はその体験が下敷きになっています。彼女の結婚は失敗に終わります。1993年、ホートンはリンダ・ロンスタットのいとこのボビーと結婚し、今はスージー・ロンシュタットとして暮らしています。

歌詞では去っていくのは男の方になっていますが、現実ではダンサーを夢見たスージーの方がウェッブのもとを去っていったということのようですね。

歌詞を読み直すと経由地としてフェニックス、アルバカーキーという具体的な都市名が出てきていますが、出発地は書かれていないし最後に走っているのも都市名ではなくオクラホマという広い州の名前になっています。出発地、目的地はどこだったのでしょうか?

ウェッブは1946年8月15日にオクラホマ州のエルクシティで生まれています。幼い頃から音楽の才能を発揮していたようで、牧師であった父は息子に音楽を学ばせようと64年に一家は南カリフォルニアのサン・バーナディーナ郡のコルトンに引っ越しをします。このコルトンの高校でウェッブとスージー・ホートンは出会っています。その後65年に母が亡くなり父はオクラホマに戻りますが、ウェッブはそのままコルトンに残りサン・バーナディーナ・バレー大学に進学し音楽を学んでいます。



大学に通いながらモータウン・レコードの出版部門Jobete Musicとソングライティング契約を結び、LAでスタッフ・ライターとして音楽業界にかかわっていきます。

という経歴を考えると出発地はカリフォルニアのコルトン、そして目的地は最後に走っているのがオクラホマ州ということで故郷であるエルクシティではないかと推測します。その推測に従って旅の行程をたどってみることにします。なんとも便利なことにGoogle Mapがそのまま使えるんですね、ってもともとあっちのアプリケーションだから当たり前ですが。

カリフォルニア州コルトンからアリゾナ州フェニックス



ハイウェイ10号線を東に向かって一直線という感じですね。距離は319マイル(513km)所要時間がGoogle Mapによれば4時間52分となっています。

歌詞の中では「ぼくがフェニックスに着く頃 彼女は目を覚ますだろう」となっています。彼女が6時に目をさますと仮定するとコルトンを出発するのは午前1時ころということになります。前の日の夜に何らかの、おそらくこれまでもよくあったような諍いがあり男の方はついに堪忍袋の緒が切れてしまいます。彼女がふてくされて寝てしまった後、メモを書き家を出て車に飛び乗ります。そして夜が明ける頃フェニックスの街を通過します。

アリゾナ州フェニックスからニューメキシコ州アルバカーキ



歌詞では「ぼくがアルバカーキーを走る頃 彼女は仕事中だろう 彼女は昼食をとるだろう そしてぼくに電話する」、行程は419マイル(674km)、予定時間は6時間半。フェニックスが朝の6時でしたから12時半頃となり確かにお昼休みの時間帯にはなりますね。

ニューメキシコ州アルバカーキからオクラホマ州エルクシティ



歌詞では「オクラホマを走る頃 彼女は眠りにつくだろう」となっています。行程は432マイル(695km)、予定時間は6時間21分。フェニックスがアルバカーキがお昼でしたから、そのまま行けば19時頃になるので寝るにはちょっと早いですね。長距離の運転ですからアルバカーキあたりでかなりの休憩でもとったのでしょうか・・・。

ってことで全行程を考えると1170マイル(1882km)で時間は17時間43分。平均時速66マイル(106km)で18時間、かなりきついというかほぼ無理な感じがします。実際ウェッブもインタヴューで以下のようなこと言っていたみたいです。

>コンサートが終わった後である男が近づいてきてあなたがLAからフェニックスに車で行くのはどれほど現実的でないかを示した、そのうえアルバカーキまでどんなに遠いかも、要するに彼が言ったのは「この歌はあり得ない」だ。 確かにそのとおり。この歌はぼくがやるべきであったと望む何かについてのある種のファンタジーなんだ、そして逢魔が時だったら起こりえることなんだ。

まぁもちろんフィクションなので「ありえない」こともある程度はOKだとは思います。ただ彼女が眠る頃を真夜中の12時とすれば、彼女が寝入った1時ごろに走り出しフェニックスを6時に通過し12時半頃にアルバカーキに着く。行程は638マイル(1026km)、平均時速55マイル(88km)、長距離トラックの運ちゃんだったら可能なのかな?そこからは彼女が眠りに着く(夜12時)までにエルクシティに着けばいいので11時間半あるのでアルバカーキでで4時間半ほど睡眠をとって走れば7時間で432マイル(695km)ということで平均時速62マイル(100km)で走れば良い事になり、うーん不可能なのか可能なのか?

ところで最初のコルトンからフェニックスなのですが、513Kmという距離が、大阪から東京と同じくらいな気がするなと調べてみると、Google Mapでの距離は503Kmでした。



ただ所要時間はコルトンーフェニックスが4時間52分なのに対して大阪ー東京間は5時間49分と約1時間余計にかかっています。時速で計算すると86.4Km/hと、コルトンーフェニックスの105.3Km/hに比べ平均時速で20Km/h近く遅い速度になっていますね。しかし、大阪ー東京を車で走った経験から考えると、けっこうそれだけでヘトヘトでそこからさらに1200Km余りを走るっていうのは、いやいや不可能でしょ。

話がちょっとそれますが一日で大陸のほぼ半分を横断、で思い出すのが1971年の映画「バニシング・ポイント」です。中学で観たときには1日で大陸横断と思っていてすげぇこと考えるなぁと思ったのですが、確認すると主人公ノコワルスキーはコロラド州デンバーからサンフランシスコまでダッジ・チャーレンジャーを陸送するというお話でした。Google Mapで確認してみます。



行程は1248マイル(2008km)予定時間は19時間31分。「恋はフェニックス」よりちょっと長い行程でした。ただWikiを見ると一日ではなく土曜のお昼に出発してシスコには月曜のお昼に届けるということで歌に比べるとずいぶん楽な行程なのですが、出発前に仲間から無理なことせず休めとか言われているので3日で1248マイルっていうのも大変なことが分かります。

ということで、1日でカリフォルニアのコルトンからオクラホマのエルク・シティまで車を飛ばすのは不可能と思われます。ただ、もし自分の運転ではなくグレイハウンド・バスのような長距離バスを乗り継いだとすれば不可能ではない行程のようには思えます。

そう思い、「恋はフェニックス」が収録された同タイトルのアルバム・ジャケを見直せば、ギター・ケースを抱えたグレン・キャンベルが木製のベンチに疲れた様子で座っている写真。これって夜行バスを待ってる姿に思えてきますし、暗にリスナーに対して「恋はフェニックス」の主人公はバスで街を去ったんだよと示しているようにも思えてきます。



Music
Glen Campbell – vocals, acoustic guitar
James Burton – acoustic guitar, electric guitars
Joe Osborn – bass guitar
Jim Gordon – drums

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「前半」の最後にも書きましたが、書き終わってアップしようとしたら、久々に4万字を越える投稿になってしまったようで、1回で投稿できませんでしたので、「前半」「後半」にわけさせていただきました。ここからが「後半」となります。「前半」をお読みでない方はこちらから。→「アメリカ一番のイカれた人たちが住む街、ローレル・キャニオン 前半」




ベトナム戦争があり、ホワイトハウスにはニクソンがいた、反抗の時代だ。バッファロー・スプリングフィールドの「ソー・ホワット・イット・ワース」やニール・ヤングの「オハイオ」はそんな空気を反映していた。

デヴィッド・ゲフィン:60年代と70年代の音楽は人々の生活に影響を与えた、文化にも、政治にも。今と昔の違いは徴兵制です。志願兵には同じような反抗の気持ちはありませんでした。僕の若いころには、誰もがギターを弾きたいと思ったものです。でも今は誰もがゴールドマン・サックスで働きたいと思っている。

デヴィッド・クロスビー:徴兵制は(ベトナム戦争を)個人の問題にした。そのためアメリカの全てのキャンパスは反戦運動の温床になりました。

エリオット・ロバーツ:エキサイティングな時代だった、何かが変わると思っていたから。ベトナムとブラック・パンサーズと市民権の間で、僕たちは大騒ぎをしていた。徴兵制を逃れるためにカナダに行っていた多くの子供たちが僕たちのショーにやってきた。

J.D.サウザー:もうひとつ覚えておかなければならないのは、当時の人たちが投票権を重要なものと考えていたことです。今の子供たちはホワイトハウスにくそったれがいたとしても気にもとめないんだ。

デヴィッド・ゲフィンとエリオット・ロバーツがLAで共に働くようになり、町に住む多くの新しい才能たちの代弁するようになった時、音楽ビジネスが大きく変わりました。ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤング、ジュディ・シル、デヴィッド・ブルー、ジャクソン・ブラウン、JDサウザー、ザ・イーグルスそしてCSN、みんなゲフィン/ロバーツがマネージメントしていた。デヴィッドとエリオットは元はフォーク・シンガーだった人たちを億万長者に変えました。彼らはトロントやグリニッチヴィレッジのコーヒハウスからクラブで歌い始めた人たちを連れてきて時流と場所にあわせ、芸術と商業主義の完璧な融合に成功したのです。

エリオット・ロバーツ:デヴィッドと僕はニューヨーク時代から友達でした、彼はブルックリン、僕はブロンクスで二人とも芸能事務所で働いていました。僕がジョニ、ニールとCSNのマネージメントをしている頃に彼はLAにやってきました。ある晩、僕たちは誕生パーティに誘われ、僕はサンセットの家にデヴィッドを迎えに行きました。パーティ会場に着いた時に「ちょっとの間、車から下りないでくれ」と彼は言いました。彼は僕たちがパートナーになりゲフィン/ロバーツとして働くことを考えていると言った。「知らなかったよ」と僕が言うと彼は「エリオット、賢くなれ」と言った。

デヴィッド・ゲフィン:僕たちはとても若かった。でも僕はエリオットと組めばとても良い仕事ができると思っていた。経験と勘だけが頼りに前に進むことを学んだ。自分たちで編み出したんだ。

エリオット・ロバーツ:デヴィッドは物事に到達するための影響力と誘導灯を持っていた。僕は彼のようなボールは持っていなかったけど。



ジャクソン・ブラウン:デヴィッドは本当に歌の分かる人だ。どういう意味かというと、出会ったアーチストを信じられない才能にしてしまう、ローラ・ニーロみたいに完全なものにしてしまうんだ。ミュージシャンにとってなかなか馴染めない音楽業界と本当に才能のある人々とを結びつけた中心人物でした。

デヴィッド・クロスビー:前にも言ったけど、僕たちはサメのいるプールにいることは分かっていたから、自分たちのサメが欲しかったんだ。デヴィッドはハングリーで貪欲だと思っていたのでエリオットがメンシェ(高潔な人)となりデヴィッドがサメになるだろうと考えた。時が過ぎるとエリオットもサメになったけどね。デヴィッドのことで僕が一番好きだったのは彼がローラ・ニーロを本当に愛していて、彼女の成功を本当に望んでいたことだ。彼はニューヨークの小さなペントハウスに僕を連れていき彼女に会わせてくれた、彼女にすっかりまいってしまったよ。彼女はとても親密でとても奇妙で才能を持っていた。

デヴィッド・ゲフィン:ゲフィン/ロバーツでは、所属アーチストの誰とも契約書を交わしていなかった。彼らがもし離れたいと思えば、その日にサヨナラできた。

ジャクソン・ブラウン:僕はデヴィッドがクライアントともめているのを見たことがある、でもその後で他の誰かが彼らを貶めしていたら彼は闘うだろう。彼はクライアントにはとても忠実に接していた。おそらく今も彼らの歌を口ずさんでいるだろうね。



アーヴィン・エイゾフ:1973年僕が、ゲフィン/ロバーツに加わる以前にデヴィッドはすでに事務所を離れレコード会社(アサイラム)を経営していたので僕は基本的にツアーマネジャーになった。デヴィッドとエリオットからの最高の贈り物は当時ゲフィン/ロバーツがマネージメントしていたイーグルスとの未来が見えたことだ。僕は彼らと同年代で彼らは本当に魅力がありました。

ピーター・アッシャー:エリオットは輝いていた。ヒッピーのカオス、でも彼が素晴らしいチェス・プレイヤーなのを忘れないで欲しい。それに比較すればデヴィッドは理不尽なこともできる人だった。電話で話していても最後まで彼に何か悪だくみがあるとは思わない、でも、電話を切った後、あなたは行く事になる、ちょっと待ってくれ、いつそんなことになったんだ?彼には説得力があるんだ。

ジャクソン・ブラウン:デヴィッドは最終的に自分の作りたいと思うレコードが作れる彼自身のレコード・レーベルを作ろうと思っていたんだ。そういう面では、インディーズと共通点があった、インディーズ・ミュージックの父と言っていいかもね。

デヴィッド・ゲフィン:音楽業界は大きなビジネスになり初めていた。1972年にアサイラム・レコードを700万ドルで売った時、支払ったことのある最も高い金額はビバリー・ヒルズの家で15万ドルだった。エリオットとパートナーだった最後の年、1971年から72年、僕たちは300万ドルを稼いだ。大金だった、でももうけっこうだった。僕はレコード会社を売り払った。僕がレコード会社を経営したかった時、エリオットは管理会社を経営したかった。僕は彼に僕が持っていた管理会社の半分の権利をただで与えて、こう言った「エリオットきみにやるよ、でも彼らに何かトラブルがあっても電話はしないでくれ。」って。もちろん彼は同意したよ。

ミッシェル・フィリップス:女たちは実際、一緒になって全てでシーンを盛り上げたわ。

クリス・ヒルマン:西海岸は働く女性にとってよりオープンな場所だったと思います。ジョニ・ミッチェルが成し遂げたことは、僕を含めてソング・ライターやギター奏者として働く多くの男たちよりも、はるかに上をいってました。

デヴィッド・クロスビー:ジョニと一緒にいた時、「グウィニヴァ」のような、おそらくは僕にとっての最高の曲を書いていた。僕は彼女のためにそれを演奏した、すると彼女は言った「最高よ、デヴィッド、じゃぁこれを聴いてみて。」。そして彼女は僕のために4回歌ってくれた、良かったよ。作者にとっては屈辱だったけどね。

ジョニ・ミッチェル:少女だったけど、私は少年っぽくあることを許されていました。男の子たちから私といると裸の自分でいられると言われていました。何故か私は、若いころ、 男たちから信頼されていました。そして私には、面白い男たちを結びつける触媒の役目ができました。

ジャクソン・ブラウン:それは、女性が社会によって注目されるというとても大きな変化の始まりだった。それは宗教的な教義からの独立への大きな一歩であり、そこには何の階層もなかった。いずれにせよ、女性たちはかってない力を持ち始めていた。

ミッシェル・フィッリプス:ママ・キャスはいくばくかのお金を持っていたという点でユニークでした、彼女にはたくさんの友達がいて、彼女はジョン・フィリップスに依存していませんでした。

ボニー・レィット:私には男の子のクラブのようには思えなかった、なぜならその男の子たちとつきあっている本当にいかした女の子がいたから。ジョニはとにかく私が聴いたことある中で絶対的て独創的で深くて輝いていた。彼女は私たち全員に大きな影響を与えていた。エミルー・ハリス、マリア・マルダー、ニコレット・ラーソン、リンダ・ロンスタット、私、みんなグループの一員だった。

リンダ・ロンスタット:人種差別やジェンダーの認識を向上させるという点でミュージシャンが良かったのは、演奏ができる限りは馬鹿にされることはないということでした。演奏ができたら、ハレルヤってこと。

J. D. サウザー:リンダは僕に大きな影響を与えた。僕とウォーレン・ジヴォンのキャリアはリンダがたくさんの楽曲を歌ってくれたという事でできあがったといっていい。僕たちはいつも感謝していた。彼女はいい耳をしていたし、自分に合う曲を知っていたんだ。

ジョニ・ミッチェル:伝統に囚われないということとミステリアスっていうのが私の才能でした。よくできた右手も持っていました。エリック・クラプトンとデヴィッド・クロスビーとママ・キャスの赤ちゃんがママ・キャスの家の芝生にいる写真があるのだけど、エリックはギターを弾く私を見つめていて、デヴィッドはクリームを舐めた猫みたいに自慢げな顔をしてるの。

グレン・フライ:1974年僕はローレルキャニオンのリッドパスとカークウッドの角に引っ越したんだ、そしてサッカー・シーズンの月曜の夜はポーカーをやって過ごした。悪名高きゲームだ。ジョニ・ミッチェルが嗅ぎつけてきた、彼女はいつもいいカモだった、毎週月曜の夜にはやって来てトランプさ。6時から9時までサッカーを見た後、真夜中過ぎまでポーカーだ。カークウッド・カジノってわけさ。

J.D.サウザー:グレン・フライとドン・ヘンリーがポーカーとサッカーの夜を楽しんでいた頃、リンダと僕はビーチウッド・キャニオンに引っ越していた、ローレル・キャニオンの男たちのクラブでは暮らしたくなかったのさ。



これらの家とともに、ドヒニーの裏手のサンタモニカにあるトルバドールもシーンの震源地だった。特別なバーでした、特に月曜のフーテナニー・ナイトは。「見渡す限り」デヴィッド・ゲフィンが言います「新しい才能がいた。」。ボニー・レイットはツアーが無い時はみんながたむろしていたと言った「女としては、デート相手を探す必要がないのよ、そこに行けばみんながいたもの」。J. D. サウザーは、彼とグレン・フライが1968から69年のほとんどをトルバドールで過ごしたことを思い出します。思いつく限りのすべてのシンガー・ソング・ライターがそこで歌っていたからです。キャロル・キング、ローラ・ニーロ、クリス・クリストファソン、ニール・ヤングそしてジェームス・テイラー。クラブの主人ダグ・ウェストンにより出演者たちはルー・アドラーが「ドラコニアン契約」と呼んだ契約書にサインをさせられました。それは成功してスターになった後も出演を強要されるというものでした。

アーヴィン・エイゾフ:あそこで演りたいのなら、サインしなきゃならない。デヴィッドとエリオットは不当なことと思い、ルー・アドラーとエルマー・ヴァレンテインとともに「ザ・ロキシー」をオープンさせました。



ルー・アドラー:我々はロキシーをオープンし、よりよい更衣室と、よりよい音響、よりよい契約をアーティストに与えた。



デヴィッド・ゲフィン:ダグ・ワトソンはデヴィッド・ブルーに演奏をさせなかった。デヴィッド・ブルーを好きじゃなかったんだ。僕は彼に言った「あなたがデヴィッド・ブルーを好きかどうかは気にしない。彼はウチのアーティストだ、もしあなたがジョニやニールやジャクソンを出演させたいのなら、あなたはデヴィッド・ブルーを使わなきゃいけないんだ」。すると彼は「演らせる気はない」と答えた。だから僕たちは自分たちのクラブをオープンさせた。ロキシーを開いた一週間後、レイ・スタークからテーブルが気に入らなかったという電話をうけた、それから誰か知らないやつから飲み物がクソだという電話もあった。それで自分の株をエリオットに売ってしまった。

エリオット・ロバーツ:ウチのバンドたちにとって(トルバドールの)代わりとなる演奏場所が必要だった。トルバドールは150か170席(しかなく)、ロキシーは600席だった。簡単な理由だ。僕たちがダグ・ワトソンに喧嘩を売ったというドキュメンタリーを見たけど、まったく馬鹿げている。忙しくてそんな暇あるわけないだろ。

グレン・フライとJ.D.サウザーが最初にLAにやってきた時、ローレル・キャニオンにあるリッチー・フューレイの家のドアを叩きました。リッチーは彼らを知りませんでしたが家に招き入れました、バッファローを解散しPOCOを結成しようという時期でした。POCOは4声のハーモニーを持つ最初の「カントリー・ロック」バンドでした。
グレンはリッチーの家をしばしば訪ね、床に座り込み、POCOのリハーサルを見ていました。そんなある夜トルバドールでリンダ・ロンスタットのマネジャーのジョン・ボイランがグレン・フライとドン・ヘンリーに声をかけます。リンダのバック・バンドをやって金を稼がないかと。そのバック・バンドでのツアー中にグレンとドンはバンドの結成について話し合い、それがイーグルスになりました。



リンダ・ロンスタット:イーグルスは多くのバンドが解散するところを見ていました、一緒になり分裂する、POCOやブリトー・ブラザースのように。カントリー・ロックにはいろんなサウンドがありました。ドン・ヘンリーにグルーヴがあったので、ようやくバンドは結成されました。

グレン・フライ:1971年にゲフィン/ロバーツに加わった時、CSNはビッグな存在であり、僕たちは注目していました。僕は注意深く、彼らの何が正しくて何が間違っているのかを探しました。



キャメロン・クロウ:当時、イーグルスはニール・ヤングを尊敬するちっちゃな兄弟みたいでした。グレンはPOCOの失敗した点を見つけ、自分たちの成功に結びつけました。POCOとCSNを最大限利用し、その二つを可能な限り一緒にしようとしました。CSNはエリオットやデヴィッドと違い商売には無頓着でした。音楽がすべて。でもイーグルスにはどっちもあったんだ。

クリス・ヒルマン:僕はイーグルスを尊敬してるよ、ヘンリーとフライも、オリジナルのバンドもね。彼らがやったのは全てのものを吸収することで、見事にやってのけた。僕たりより利口だったんだ。ブリトー・ブラザースでグラム・パーソンと一緒に僕は良い曲を書いたよ、でも仕事に対する倫理観をもっていなかったんだ。

グレン・フライ:僕はみんなのキャリアに注目していました。まるでそれが「死者の書」であるかのように、アルバムの裏側を読んでいました。CNSは頂点にいた。2年間はまるでビートルズだった。

スティーヴン・スティルス:(イーグルスは)たしかに興行収入の面で僕たちを打ち破りました。そんな風に金を稼ごうと思ったら、ニールを加入させ、引き留めておくことだ。

キャメロン・クロウ:グレンとドンはソングライターとして本来そうあるべきかたちでは認められなかった。誰もがCSNYを愛したようにイーグルスを愛するなんてクソだって思ってた。

J. D.サウザー:アーヴィン・エイゾフが新聞のインタビューを受けさせなかったので、イーグルスは新聞から嫌われていた。

アーヴィン・エイゾフ:僕はクロスビー、スティルス& ナッシュが好きだった、だけどイーグルスはどこか違ってたと言える。イーグルスはポスト・ウッドストックの存在だった。鏡に写ったラインについて書き続けていた。男の中の男。兄弟以上だった。

マリワナとサイケデリックがカリフォルニアのミュージック・シーンの創造性の燃料となっていましたが、コカインとヘロインが入って来た時すべては変わってしまいました。

デヴィッド・ゲフィン:僕はラリってなかったのですべてを覚えているよ。

ボニー・レィット: コカインをやって自己崩壊する人がいてパーティは不愉快なものになっていった。10年か15年たって、30代半ばになると20代の頃の面影は見る影もなくなるの。

ピーター・アッシャー:矛盾してたね、思わない?音楽を「メロウ」だと言っていたが、やっていたのは全然「メロウ」な人たちじゃなかった。大量のコカインが関係していて、そいつはメロウな効果が無いのは誰もが知っていたのにね。

デヴィッド・クロスビー:ドラッグはみんなに悪影響を及ぼした。ハード・ドラッグが誰かの役に立ったなんてことはこれっぽっちも考えたことないよ。

ジョニ・ミッチェル:コカインは壁を築くの。グラハムと私がとても親密だった時も突然に壁ができたりした。当時はみんなドラッグについて話すことは少なかった。私はドラッギーにはならなかったわ。タバコとコーヒー、それが私の麻薬だった。

ジュデイ・コリンズ:多くの人たちがたくさんのドラッグを使っていた。わたしはアルコールにどっぷりつかっていました。それ以外のものは使っていませんでした、アルコールの邪魔をされたくなかったんです。

デヴィッド・ゲフィン:みんな沢山のお金を稼ぎました。沢山の浪費もしました。デヴィッド・クロスビーも素晴らしい財産を手にしました。彼が最終的にどうなったを見てみればいい、刑務所行でした。

シーンと言うものには終わりが来ます。光輝き、繁栄し、燃え尽きます。1960年代後半から70年代初めのカリフォルニア・ミュージック・シーンはドラッグ、お金、成功、オルタモント、お金、ドラッグ、疲弊、そして新しい音楽の流行によって崩壊しました。

ルー・アドラー:60年代のヒッピー版自由は形成されること無く崩れ去りました。でも私たちはベルエアーに家を買いました、私たちは権力層になったんだ。

ボニー・レイット:いったん成功を収めると、誰だって高級な住宅地に引っ越すし、誰もブラブラしなくなります。独身で20代だった頃は、今みたいな責任もほとんどなくて、本当に黄金時代だった。子供ができたりしちゃったら、教育環境の良いところに引っ越しちゃうしね。

エリオット・ロバーツ:みんな大人になりシーンは崩壊しました。シーンがあったのはみんなが20代の時でした、20代前半のすべてのキッズたちにはシーンがあるんだ。 彼女ができたり結婚したりといったことによって突然、 30とか35歳になるとシーンは消えてしまう。家族や子供や仕事を持つとね。家を買う。子供にギター・レッスンを受けさせたりユダヤの儀式を受けさせたくなる。 二十歳の時には8人が居間で、6人が床で酔いつぶれていようと「OK」だったのに。 35にもなれば、背中を痛めるのが嫌だから酔いつぶれることもなくなる。

ミッシェル・フィリップス:1969年以前は、楽しみと興奮とチャートのトップを射止めること以外の想い出はなくて、愛すべき日々でした。マンソンの殺人がLAのミュージック・シーンを破壊しました。自由気ままに、ハイになろう、みんな大歓迎、さぁいらっしゃい、座って、そんなことをすべて棺桶に閉じ込める釘のだったのです。誰もが怖がりだしました。ポーチの中には拳銃を入れていました。そして誰であろうと二度と自分の家に招き入れることはありませんでした。

 


テーマ:
数日前に海外のクラシック・ロックのサイトを見ていたら「「ローレルキャニオン」のドキュメンタリーがジョニやイーグルスやCSNYなどにスポットライトを当てる」‘Laurel Canyon’ Doc to Spotlight Joni, Eagles, CSNY +というニュースが目に入りました。

高校時代からウェスト・コーストのロックが好きだったこともあって、60年代後半から70年代初めにかけてLA周辺で活躍したミュージシャンの多くがロス郊外のローレルキャニオンという場所に住んでいたということはぼんやりとは知っていましたが、記事を読んでいくと東海岸においてウッド・ストックがボブ・ディランとザ・バンドが住みだしたことをきっかけに、たくさんのミュージシャンが集まり日本でも人気の高い「ウッドストック・ミュージック」(フェスティバルではありません念のため)が醸成されていったのと同じように、ローレル・キャニオンでも多くのミュージシャンが交流することによって様々な化学変化が引き起こされていき日本で言う「ウェストコースト・ロック」のシーンが出来上がったことを知りました。ということで今年後半に発表されるというドキュメンタリーも楽しみではあるのですが、ローレル・キャニオンについてネットで調べている時に当事者たちの証言を集めた2015年の記事 「An Oral History of Laurel Canyon, the 60s and 70s 」にぶちあたり、つらつらと眺めていたらとても興味深い話が多かったので、ちょっと長くはなるのですが抄訳してみることにしました。

記事の冒頭でジョニ・ミッチェルがカナダからローレル・キャニオンに引っ越したきっかけが語られています。ジョニと言えばクロスビー、ナッシュ、などと浮名を流し「恋多き女」というのが一部では代名詞になっていますが、本文を読めばローレル・キャニオンではジャクソン・ブラウンをはじめ誰もが「恋多き男」「恋多き女」だったことが分かり少しばかり愕然としました。

それにしても、登場するほとんどのミュージシャンがジョニの才能に畏れおののいている感じが分かり、70年代以降の特に女性のロッカーたちにとって如何に「ジョニ・ミッチェル」という存在が大きいものだったのかがあらためて分かります。

また、とにかく才能のかたまりのような連中が集まる中、その才能を裏から支え成功へと導いていったデヴィッド・ゲフィンとエリオット・ロバーツの存在がなくてはならなかったこと、また如何に商業主義と折り合いをつけていったのかなど、きれいごとじゃない部分が垣間見えます、

そして最後の方では今日本でも話題のコカインがシーンの中に忍び込んできて、それがきっかけとなってシーンの輝きが失われていったことなど、70年前後のウェスト・コーストの音楽を好きな人であれば興味深く読んでいただける内容ではないかと思います。

ではお時間がありましたら・・・。

ローレル・キャニオンの口述歴史:60年代と70年代の音楽のメッカ

一緒に音楽を作った、一緒にドラッグをやった、一緒にバンドを組んだ、誰もがベッドを共にした。
それなのに60年代後半から70年代初めにかけてLAで花開いた、ローレル・キャニオン・シーンのジョニ・ミッチェル、デヴィッド・クロスビー、リンダ・ロンスタットなどのレジェンドたちの記憶はバラバラだ。


以下本文の抄訳。



>私が最初にLAに訪れた時(1968)に、友人のジョエル・バースタイン(写真家)がフリー・マーケットで一冊の旧い本を見つけてくれたの。そこにはこんなことが書かれていた。
アメリカ人に最もいかれた人が住んでいる場所を尋ねるとカリフォルニアと言う。
カリフォルニアの人に最もいかれた人が住んでいる場所を尋ねるとロサンジェルスだと言う。
ロサンジェルスの人に最もいかれた人が住んでいる場所を尋ねるとハリウッドだと言う。
ハリウッドの人に最もいかれた人が住んでいる場所を尋ねるとローレル・キャニオンだと言う。
ローレル・キャニオンの人に最もいかれた人が住んでいる場所を尋ねるとルックアウト・マウンテンだと言う。
だからわたしはルックアウト・マウンテンに家を買った。 ジョニ・ミッチェル


1960年代後半フランク・ザッパがローレル・キャニオン大通りのルックアウト・マウンテンに越してきた時、ローレル・キャニオンのミュージック・シーンは始まったと言われています。バーズのベーシストであったクリス・ヒルマンはローレル・キャニオンの、名前も思い出せない急な曲り道の上にあった家で1966年に「ロックン・ロール・スターSo You Want to Be a Rock ‘n’ Roll Star」を書いたことを覚えています。ドアーズのジム・モリスンはローレル・キャニオン・カントリー・ストアの裏手に住んでいた時に「ラヴ・ストリートLove Street」を書きました。ミッシェル・フィリップスはママス・アンド・パパスの全盛期の1965年ジョン・フィリップスとともにルクアウト・マウンテンに住んでいました。本やドキュメンタリーにより、ハリウッド・ヒルズのサンセット大通りの奥に位置する森林のような渓谷は神話化されロマンチックな場所となりました。そのことは実は誤解であり、それは今も続いています。



最初、そのシーンは地理的というより比喩的なものでした。そこにいたほぼ全員が一度ならずそれ以上ハイになっていたため、すべてを同じように記憶してる者はいないのです。1960年代半ばから70年代初頭にかけて、最もメロディックで趣味がよく幾分政治性を帯びた曲がローレル・キャニオンの住民やその仲間たちによって作られたのは間違いありません、 ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤング、デヴィッド・クロスビー、スティーブン・スティルス、グレアム・ナッシュ、クリス・ヒルマン、ロジャー・マッギン、JDサウザー、ジュディ・シル、ママス&パパス、キャロル・キング、イーグルス、リッチー・フューレイ(バッファロー・スプリングフィールド、 POCO)やもっとたくさんの人々によって。彼らは互いの家を訪ね徹夜のジャム・セッションを行い、互いの曲を歌い、アコギをかき鳴らして一緒に音楽を作りました。家々の多くはステンドグラスのはまったコテージや肌寒いLAの夜のための暖炉を備えたリヴィングルームを持っていました。みんなドラッグをやり、バンドを結成しては解散し、また次のバンドを結成していました。彼らの多くは一夜を共にしていました。その音楽には”ソフト・ロック”や”フォーク・ロック”という間違ったラベルが貼られ、評論家たちからはグラノーラでいっぱいのヒッピー音楽で甘く白すぎると酷評されました。しかし、実際はブルース、R&R、ジャズ、ラテン、カントリー&ウェスタン、サイケ、ブルーグラスそしてフォークからの影響を混合したものでした。ある意味で今日の”アメリカーナ”のさきがけでもありました。

それらの曲が録音されてから40年、彼らのハーモニーとギターのインタープレイはマムフォード&サンズ、ザ・アヴェット・ブラザース、ドーズ、ハイム、ウィルコ、ザ・ジェイホークスやシヴィル・ウォーといった現在のバンドに影響を与えている。アダム・レヴィーン(マルーン5)は次のように述べています。「あの音楽の雰囲気は、そう、車を運転している時のような感じにしてくれる、景色だ。」。ローレル・キャニオン大通りの「フーディニ大邸宅」の持ち主であるプロデューサーのリック・ルービンは「ローレル・キャニオンはフォークとサイケデリック・ロックを交配させ史上最高の音楽を作り出した。」と語りました。



エリオット・ロバーツ:それはるつぼのようだった。みんなあらゆるところからやってきのさ。ジョニとニールはカナダから、グレン・フライはデトロイト、スティーヴン・スティルスとJ.D.サウザーはテキサスから、リンダ・ロンシュタットはトゥーソンから・・・ 。



デヴィッド・ゲフィン:僕が最初にジョニを見たのはグリニッジ・ヴィレッジだった、彼女は夫のチャドとデュオで歌っていた。その後、彼女自身でレコードを作った。

エリオット・ロバーツ:僕は1966年にニューヨークのカフェ・オウ・ゴーゴーでジョニに会った・・・。ショーの後で彼女に言った「僕は若いマネジャーだけど、とにかくあなたと一緒に仕事がしたいんだ」って。その時までジョニは全てを自分自身でやっていたんだ。公演のブッキングをやり、切符を手配し、録音用のテープも運んでいた。彼女はツアーがあると言い、自費でも良いのなら同行してよいと言ってくれた。一か月間彼女とツアーをした後で、彼女は僕にマネジャーになるよう頼んできた。

デヴィッド・ゲフィン:僕はバフィー・セント・メリーのエージェントだった。彼女は僕に何のインフォメーションも書かれていない新しいアルバムのテスト・プレスを送ってきた。僕は彼女に電話したんだ、「やぁバフィー、僕はきみのニュー・アルバムにすっかりいかれちまったよ、大好きだよ。」。彼女は「それはステキ、お気に入りの曲は?」と訊いてきたので「「サークル・ゲーム」だ。アルバム一番の名曲だ。」と答えた。「ジョニ・ミッチェルが書いたのよ。」と彼女は言った。



ジョニ・ミッチェル:エリオットとデヴィッドと私はニューヨークからロサンジェルスに引っ越したの。デヴィットは私のエージェントで、エリオットはマネジャーだった。私は小さな家を買ったの、デヴィッド・クロスビーはもっと探すべきだといったけど、私はその家が好きだった。家の後ろの丘は人口の洞窟がいっぱいあった。家自体はチャーミングだった。36000ドル払ったの。暖炉のある家で不思議な力で護られていたの。6フィートの距離でお隣さんがあったんだけど、ジャンキーが住んでいた。私が街に出て戻ってみると彼らの家は火事で焼け落ちていたの。



リッチー・フューレイ:スティーヴン・スティルは僕に言った、カリフォルニアへ来いよ、バンドを作るんだ、もう一人シンガーが必要なんだって。僕は言った、今向かってるよ。僕たち(バッファロー)がウィスキー(ア・ゴー・ゴー)で演奏を始めた頃、みんなローレル・キャニオンに引っ越したよ。最高の場所だった。ニール・ヤングは例のポンティアックの霊柩車に住んでたけど、ルックアウト・マウンテンに引っ越した。ニールが本当にバンドに参加したがっていたなんて思ったことはないよ。確かに彼はロックン・ロールの象徴であることを証明してみせたけど、スティーヴンこそがバッファローの心であり魂だったんだ。



デヴィッド・クロスビー:バーズから追い出された(1967)後、フロリダへ行った。僕にはロマンチストの気があってヨットを手に入れ海へ出たいといつも思ってたんだ。ココナッツグローブにある喫茶店に行ったらジョニが「山から来たマイケルMichael from Mountains」だったか「青春の光と影Both Sides, Now」を歌っていて、ちょっとショックを受けたんだ。壁にのけぞってしまった。歌を始めたばかりなのにとても個性的だったし、すでに誰よりも良い曲を書いていた。僕は彼女をカリフォルニアに連れていきファースト・アルバムをプロデュースした。

リッチー・フューレイ:スティーヴンは確固たるスタイルを持ったミュージシャンでした。沢山の人たちが彼をコピーしようとしたが無理でした。バッファローが音楽的に上手く行ったのは、ニールとスティーヴンが異なったプレイ・スタイルだったからだと思う。僕は二人を結び付ける接着剤のようなちっちゃなリズム見つけていただけなんだよ。

エリオット・ロバーツ:僕たちはジョニのレコードを作るためにカリフォルニアに向かった、そしてルックアウト・マウンテンで家を手に入れた 、4軒の向かい合った家だ。デヴィッド・クロスビーのプロデュースでサンセット・サウンドでジョニのファースト・アルバムをやってた時、隣のスタジオではバッファローがレコーディングをしていた。ジョニは「ニールに逢いましょう」と言った、カナダ時代から知っていたんだ。その夜、僕たちはベン・フランクの店に行った、当時はそこしか真夜中に開いてる店は無かったんだ。それで僕はニールと仕事をすることになった、そのすぐ後にはジョニとニールのマネジャーになっていた。ニールはバッファローを脱退した、以前も2度脱退していたけど今回は戻ることは無かった。ジョニの家でシーンは動き始めた、僕たちが夜通し過ごす時の中心になっていたから。



グレン・フライ: カリフォルニアに行った最初の日、僕はラ・シエネガをサンセット大通りに向かって走っていた、角を右に曲がりローレル・キャニオンに入って最初に出会ったのが、キャニオン・ストアのポーチに立っているデヴィッド・クロスビーだった。彼はバーズのセカンド・アルバムと同じ服で着飾っていた。ケープを羽織り平らでつばの広い帽子をかぶっていた。まるで彫像みたいだったよ。そして2日目にはJ.D.サウザーに逢っていた。


J.D.サウザー:全てはまさに進化の一種だった。実際には「機会」なんて無かった。



スティーヴン・スティルス:20年代のパリほどでないにしても、すごく活気のあるシーンだった。

グレン・フライ:空気中に何かある感じだったよ。僕はデトロイトからやって来たけど、あそこは活気が無かったよ。丘の中腹には家が立ち並び、今までに見たことも無かったヤシの木やユッカ、ユーカリそして埴生があった。魔法のような場所でした。



クリス・ヒルマン:ロックン・ロール以前にローレル・キャニオンには沢山のジャズやボヘミアンのようなビートニク風のものがありました。ロバート・ミッチャムは48年のパーティでマリワナによって逮捕されています。

ジョニ・ミッチェル:私のダイニングからはフランク・ザッパのアヒル池が見えたの。母が訪れた時があって、3人の女の子が池のいかだの上に裸でいたの。母はすっかり怯えちゃってた。バッファローが演奏をしていた丘の上の方では、午後になると耳障りな音を出す若いバンドがリハーサルをしていた。でも夜は静かだった、猫とモッキンバード以外はね。ユーカリの香りがしていて、春になると、雨のシーズンだけど沢山の野生の花が咲き乱れていた。ローレル・キャニオンはとってもいい香りがしていたの。

デヴィッド・クロスビーは1967年のジョニのファースト・アルバムをプロデュースしている間、ジョニの家に一緒に住んでいた。彼はスティーヴン・スティルスを連れてきた、もしくはみんなでママ・キャスの家に行っていた。ソング・ライターのデヴィッド・ブルーとデイヴ・ヴァン・ロンクはしばらくの間エリオット・ロバーツの家に住んでいた。ポップ・グループであるホリーズに嫌気がさしていたグラハム・ナッシュもいた。クロスビーとスティルスとナッシュが最初に一緒に歌った場所はどこなのか?それがはっきり分からないことは誰もが認めています。

ジョニ・ミッチェル:私はオタワでグラハム・ナッシュに会い、その後カリフォルニアで再会しました。デヴィッドは私のファースト・アルバムをプロデュースしていて、役者はみんなそろっていました・・・。 私の家で紹介しあったと思うの、そしてクロスビー・スティルス&ナッシュは生まれたの。

スティーヴン・スティルス:僕の心の中にはつねに路地猫のための場所があるんだ、そしてデヴィッドときたらほんとファニーなんだ。僕たちがバンド結成を考えていたある日のこと、しばらく会ってなかったママ・キャスをトルバドールで見たんだ。彼女は僕に「三番目のハーモニーはいらない?」と訊いてきた。「どうだろう、人と声によるな。」と返事をすると「デヴィッドがあなたにギターを持って私の家に行こうと言った時には、何も訊かずに、家に来てね。」。僕はこの女王蜂が袖の下に何かを隠しているのが分かりました。そして、しばらく後、デヴィッドは私に「ギターを持ってママ・キャスの家に来てくれ。」と言った。リヴィング、ダイニング、プール、キッチン、今もはっきり覚えているよ、そして僕たちがリヴィングに入るとグラハム・ナッシュがいた。ママ・キャスが行った「さぁ歌って」。僕たちは歌った♪朝、目が覚めると・・・♪ “In the morning, when you rise . . . ”(「泣くことは無いさYou Don't Have to Cry」の冒頭)







グラハム・ナッシュ:スティーヴンは完全に忘れちゃってるね。僕ははっきりと覚えているし、デヴィッドもね。ママ・キャスの家でじゃないよ。たしかにママ・キャスの家でも歌ったけど、初めてではなかった。

ジョニ・ミッチェル:まぁ、重複しちゃうことはあるでしょう、だってママ・キャスのとこには入りびたってたもの。だけど、最初の夜に彼らは叫び声をあげたの、あれは私の家で起こったことよ。彼らの声がブレンドされ私のリヴィングで大喜びするのを覚えてるもの。

スティーヴン・スティルス:デヴィッドとグラハム は僕をジョニの家に連れて行ったと主張している、だけどそいつは不可能なんだよ、ジョニは僕のことを彼女の前で歌うには「くそったれすぎる」と怖がってたからね。 どの本をとっても何が正しいのかは分からない、みんな記憶が違ってるんだから。ママ・キャスはもういないしね、彼女はきっと全てを覚えてたよ。

グラハム・ナッシュ:スリリングで解放された気分だったよ、僕はホリーズで成長したからね、かれらを信頼しなくなったのは僕が作った「マラケッシュ急行」のような曲をレコードにしたくないって言ったからだ。デヴィッドとスティーヴンは不意に言ったんだ「いい曲じゃないか」、そして僕たちは歌った。

デヴィッド・クロスビー:ニールがCSNに参加した時に彼は僕たちがグループだとは思っていなかった。彼にとっては足がかりだったんだ。彼はいつだってソロでの成功を目指していて僕たちはそこへ行きつくための手段だった。彼が素晴らしいミュージシャン、ソング・ライターとしてCSNYに貢献したのは認めてるよ。世界最高のバンドだと思った瞬間もあったからね。

グラハム・ナッシュはキャス・エリオットのことを”ローレル・キャニオンのガートルード・スタイン”と表現した、1920年代のパリのフルールス通り27にあったものと同じような「サロン」を持っていたからだ。ママ・キャスは音楽界と映画界からの友人を一緒に家に招きました。彼女は話し上手でストリーテラーで、すべてを手にしていました。スティーヴン・スティルスに言わせれば「いつだってそこに行けるけど、まずは電話だ。」だとか。

デヴィッド・クロスビー:ママ・キャスはとても愉快で快活な人だった、誰もが例外なく一緒にいて話がしたいと思っていた。彼女はみんなの事を知っていたし、みんなは彼女が好きだった。



ミッシェル・フィリップス: ウッドロウ・ウィルソンに越してからはママ・キャスの家はとてもだらけていました。灰皿は溢れかえっていました。お客にサイン・ペンで壁に電話番号と伝言を書かせていました。たくさんのマリワナを吸っていました。当時の私は食べ物への興味はありませんでした、でもそこには大人の男が沢山いたので、食べ物は必要でした。彼らはおそらくはグリーンブラッツ・デリに電話して、20種類の異なったサンドイッチの大皿を配達させていた。

グラハム・ナッシュ:僕にとってはすべてはテーマパークみたいっだった。人々は僕に意見を求めました、どうしてあなたはハーモニー・パートを試してみないのかと。ロサンジェルスはとても自由な感じで、アメリカは信じられないような場所でした。映画の中みたいに電話は鳴りました。食事をテイクアウトするなんて、一体、誰が考えたんだろう。

ミッシェル・フィリップス:ママ・キャスの家は私が見てきた家の中でいちばんしっちゃかめっちゃかな状態でした。掃除はしない、片付けもなし、皿も洗わない、ベッドも整えない。彼女がウッドローウィルソンに引っ越す前のスタンレーヒルズの彼女の家に行ったのを覚えています。彼女の家に着くと彼女は留守だったのでかなてこで窓をこじ開け中に入りました。あなたは巨大な業務用サイズのマヨネーズ瓶を見たことある?こぼれたまま床に放置されていたの。
私はキッチン全部を掃除したの、それから家全部も 、3時間半もっかってよ。きれいになるまでとにかく掃除した。そしてドアから出ていった、彼女には話してないけど。


みんな独身だった。みんな20代だった。一晩中ぶらぶらできた。ジャクソン・ブラウンがこんなこと言ってた「全員が全員と寝ていたよ。性の革命の時代で、エイズのない時代だった。だけど性病が無い時代ではなかった。僕たちは心の中に無料診断所を持っていた、甘い考えだった。」。



リンダ・ロンスタット:そうね、デートするとしたら・・・歯医者かな?もしあなたが賢い人ならバンド・メンバーとはいちゃつかない。そうもしあなたが賢い人ならね。



ピーター・アッシャー:リンダはプロデューサーのジョン・ボイラン、J.D.サウザーそして誰かと録音をしていた、みんな彼のボーイフレンドだった、うまくいくと思うかい。僕は最初プロデューサとして加わり、その後彼女からマネジャーを頼まれた。 リンダと私は男と女にはならなかった、それがおそらく良いことだった、彼女は信じられないほどホットだったからね。



ボニー・レイット:J.D.サウザーは偉大なソング・ライターの一人でイケメンで素晴らしいシンガーだった。そしてもちろん彼とリンダは長い事アツアツだった。まるで家族の一員だった。

スティーヴン・スティルス:ジュディ・コリンズに会うためにニューヨークと行ったり来たりだったので、そういうのは見逃してたな。



ジュディ・コリンズ:スティーヴンは私のバンドにいたの。バッファローを解散しCSNを結成する前。私たちは恋に落ちとてもホットな関係だった。一目ぼれだった。ロバート・ケネディが暗殺される4日前のことよ。

デヴィッド・ゲフィン:信じられないほど才能にあふれ、魅力的な人々がいるシーンでした。彼らの多くは誰かれなくセックスしていた。誰が拒める?バース・コントロールとプレ・エイズの時代だった。今とは違うんだ。

エリオット・ロバーツ:近親相姦(ジョニとデヴィッドとグラハムの関係のこと)は頻繁には起こらなかった。

ジョニ・ミッチェル:デヴィッド・クロスビーと私は恋人関係にはならなかった。フロリダで一緒に過ごしたけど、彼はドラッグもやらず、とても楽しい関係だった。私たちは自転車でココナッツグローブを通ってボートに乗りに行きました。デヴィッドの欲望は彼を求めるハーレムの若い女の子たちに向けられていたの。私はしもべにはならないもの。私は子供のような心を持っていて、それが彼にとっては魅力的だったし、私の才能は私を魅力的にしていた。私たちは恋仲にはならなかった、フロリダで短い夏のロマンスがあったと思うかも知れないけど。

デヴィッド・クロスビー:僕はたくさんの女性と一緒にいたいと思っていた。ジョニと一緒にいた時は彼女にとても惹かれたよ、だけど彼女には自分の考えがあったんだ。グラハムとの出会いは間違いなく彼女の人生で起こった最高の出来事だった。

ジョニ・ミッチェル:グラハムと私は恋に落ちた、彼が病気になった時にはナイチンゲールのように看病し彼は回復した。私たちは良いカップルでした。グラハムのために料理を作ったけど、問題は彼がマンチェスターから来たことだった、缶詰のしわしわで灰色のエンドウ豆が好きだなんて。私は市場で買った新鮮なエンドウ豆が好きだった。料理が好きでした、けっこう大雑把だけど。なのに彼はコカインを吸っていて、食欲は無かった。

グラハム・ナッシュ:ジョニと僕は特別だった。彼女と過ごした1年半か2年をとても光栄に思うよ。

書き終わってアップしようとしたら、久々に4万字を越える投稿になってしまったようで、1回で投稿できませんでしたのでここまでを「前半」とさせていただきます。引き続き「後半」をお読みいただける方はこちらからお願いいたします。→「アメリカ一番のイカれた人たちが住む街、ローレル・キャニオン 後半」

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