鳥肌音楽 Chicken Skin Music

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

WRITING ABOUT MUSIC IS LIKE DANCING ABOUT ARCHITECTURE.


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米ローリングストーン誌にのったCD愛好家としてはちょっとショックな記事。とは言えSpotifyを少し前から使い始めたこともあって、確かにCDを所有する必要はあんのか?と思いだしたのも事実。屋外だったり何かをしながら聴くのであればストリーミング、時間の余裕とくつろげる室内のスペースがあるのならばヴィニールのLP、確かにそういう時代が来ているのかも。ただし僕の場合は残りの人生も考えるといまさらLPに戻るのはなぁと断捨離に励んでいる最中。

本当に音楽フォーマットとしてのCDは死んでしまうのか?それって日本のマーケット次第だったりするのも事実、はたしてどこまで粘れるのか・・・。
 

 

 

By Steve Knopper

オースティンのウォータールーレコードに最近訪れたとしたら、ちょっと前には考えられなかったプロジェクトが行われているのに気づくでしょう。創立36年となるオースティンの音楽の中心地では24フィートのCDラックをヴィニールのためのスペースに置き換えています。  「CD発売から30年、多くの人々がそのフォーマットから移行しています。」と、ウォータールーのオーナー、ジョン・クンツは言います。「彼らはヴィニールに戻ったり、ストリーミングしたりして、それらのCDを売りに来ている。」



ストリーミングが音楽業界に、この10年で最大の利益をもたらした半面CD事業は急速に落ち込んでいます。CDの売上高は過去10年間で約4億5,000万ドルから8千9百万ドルへと80%も減少しました。テスラがCDプレーヤーを搭載しない車を発売して以来、最近ではフォードやトヨタなども続いています。 かつてCDの代わりとなっていたダウンロードは、2012年をピークに58%も急落し、利益はフィジカルの販売よりもさらに小さくなっています。

アーティストも注目されます。 ブルース・スプリングスティーンは最新アルバム「The Album Collection Vol. 2 1987-1996」では14年のVol.1と異なりビニールのみの発売で、CDのオプションはなしでした。  マムフォード&サンズやフェニックスの発売元のインディーレーベルのグラスノート・レコードの社長ダニエル・グラスは、次のように述べています。「ストリーミングの世界であり、急速に減少しているCDに代わるヴィニールの世界なんだ。

アーティストの中でも特にヴィニール支持者として際立っているジャック・ホワイトも同意見です。「次の10年は、ストリーミングそしてヴィニールの時代になると確信してるよ。車とキッチンではストリーミング、居間と書斎ではヴィニール。そんな二つの棲み分けになるだろうな。いいことだと思うよ。」

 

ではいまだにCDを買っているのは誰なんだろう?「ウォルマートの顧客だ。」グラス氏は語ります。「カントリー・ミュージック、ベスト・アルバム、サウンドトラック、ファミリー商品」の売り上げは依然として強いと付け加えてます。カントリーの世界でもクリス・ステープルトンの2ndLPは、昨年、37万3,000枚の売上を記録しました。また、ストリーミングが遅れている日本では、昨年の音楽販売の72%がフィジカルによるものでり、一部の国際市場ではCDはまだ機能しています。

 

80年代初頭に発売されたCDは、20年以上に渡り世界的にレコード・ビジネスの拡大を促しました。それはナップスターとオンライン著作権侵害、そしてiTunes Storeにより打撃を受けながらも、驚くほど弾力的に切り抜けました。グラス氏の指摘によれば、現在CDの愛好家とは、カーステレオやホームシアターシステムでSpotifyやPandoraをストリームするのではなく、CDトレイからの読み込みを好む古い聴取者を指しています。 「CDを所持するのは絶対必要ですか?」 ディスクメーカー(註:自主制作CDの会社)のマーケティングディレクター、ダン・ベイカーに尋ねました。「あなたが独立したアーティストなら、考えてもいいかな。」ベイカー氏は、過去10年間でCDの平均注文数が1,000枚から300枚に減少したことに注目している。 1,000枚のCDという大量注文でも1,000ドル、200枚のヴィニールLPは約1,800ドルです。  「ヴィニールは高価なんです」と、CD Baby(音楽販社)の副社長ケビン・ブレナーは語ります。

それでも、アーティスト、レーベル、レコード店は、CDの来るべき「死」のために何年も前から準備を進めてきました。ソニーは2011年に主要なCD工場を閉鎖し、今年初めにはインディアナ州テレホートにある別の工場において380人の労働者を解雇した。 一方、ヴィニールの販売枚数が2007年の百万枚未満から昨年の1,400万枚以上と増加したため、新しいLPの工場を立ち上げました。


「これは最近になってテクノロジーが進歩したからだ」サン・ヴォルトのマネージャー、シャロン・アニーネ氏は語ります(サン・ヴォルトは2005年のアルバム「Okemah and the Melody of Riot」のヴィニールをレコード・ストア・デイで初めて販売しました)。「CDを聴く人々にとっては簡単に聴けるわけじゃなくなってきている」。

 


2006年にヴィニールの売上高が上昇したときに専門家はたんなる流行だと考えた。もはや売上高はこの25年間で最高となり、レーベルはこれまで以上に洗練されたパッケージングに金をかけるようになりました。コンコードによる『コンサート・フォー・ジョージ』は最初ヴィニールでリリースされ、ジェフ・リンが承認したラッカーを使用していました。ライノは5枚組のLPセット『1969 グレイトフル・デッド・フィルモア・ウェスト』を発売。すぐに完売しました。ジャック・ホワイトのレーベル「サード・マン」は最近、デトロイトで独自の製造ラインを開設し35年ぶりのヴィニルーによる新譜を製造しました。「歴史的な音楽が保存されるだけでなく、新しい音楽が製造されることが今は本当に重要です」とホワイトは語りました。「ヴィニールは不変なんだ。120年前に作られたものでも今、永遠にここにある。それって美しいことだと思わないかい。」

 


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我等がビーチ・ボーイズの新譜『ビーチ・ボーイズ・ウィズ・ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

』が発売されています。エルヴィスから始まりロイ・オービソン、アレサ・フランクリンと来て今回のビーチ・ボーイズと、マスター・テープのヴォーカル・トラックと必要最低限のバック・トラックを抜きだし世界屈指のロイヤル・フィルのオーケストラ演奏を加えるこのシリーズ、聴き慣れているはずの歌声が時にはまるっきり表情を変えて聞こえたりするのがなんとも新鮮です。
 

 

 


アルバム『ペット・サウンズ』のことを「神に捧げるティーン・エイジ・シンフォニー」とブライアン・ウィルソン自身が言っているようにビーチ・ボーイズの歌とオーケストラの親和性は高いんだろうなぁと聴く前から期待はしていましたが、もちろん曲によっての違いはありますけどおおむね楽しんで聴くことができました。

最初、通して聴いた時にこれはぴったりくるなと思ったのはブルース・ジョンストン作の「ディズニー・ガール(1957)」でした(だいたい予想できましたけど)。もともとゆったりとした演奏と歌でしたが、テープ操作でさらにピッチを落としてるのでは思えるような、春の海の波のようなのどかさ、いいですコレ。ということで『サーフス・アップ』を引っ張り出してきてオリジナルの「ディズニー・ガールズ(1957)」も聴くことに。

 

 

空は晴れ 涙は乾き
君の笑顔がみえる
暗闇は去り 柔らかい日差しがさし
僕の生活も変わっていく

言葉は今 韻を踏み
君の魂を祝福する
そして君の手にキスし
キャンディでいっぱいにしよう

現実的な話なんて 僕には似合わない
苦笑いだよ
おとぎ話とディズニー・ガール
そんな時代に戻るんだ

パティ・ペイジと夏の一日
懐かしきコッド岬
ガレージでワインを作った 幸福な日々
田舎の日陰 レモネード

そうさ ゆっくり生きるとしよう
自分の世界を変えるんだ
ちっちゃな町の
隣近所の女の子と

オープンカーと澄み切った星空
ずっと忘れていたことだ
だけど おとぎ話とディズニー・ガール
そんな時代に戻るんだ

ラヴ...
さぁリック ディヴ
さぁ父さん おはよう母さん
ラヴ...
目を覚ましなよ
大好きなあの娘をみつけたよ
ほんと素敵なんだ
だって彼女の好きなものと来たら
教会 ビンゴ・ゲームそして昔風のダンス

振り返ったら 僕はずっと君を夢見て
夜を過ごしてきた
ずっと忘れていた温もりや
ずっと望んできたことが
すべて現実になる

君に捧ぐ愛を手に入れ
一緒に生きる場所をみつけた
ここにいれば
幸福な生活になるだろう
永遠のつれあいと
いつか生まれる子供たちとともに

夜は始まったばかり
枕投げの時間
君のやさしい笑顔
おとぎ話とディズニー・ガール
そんな時代に戻るんだ


ブライアンがツアーをリタイアしスタジオでの作業に専念することになり、ツアーでのブライアンの代役を当初はグレン・キャンベルが務めることになります。しかし自身の活動のためにグレンはツアーから抜け、その後釜として参加したのがブルース・ジョンストンでした。つまりはツアーにおけるブライアンのスーパー・サブ。その後、準メンバーとなりレコーディングにも参加。ブライアンがツアーだけでなくスタジオからもリタイアし始めた『ワイルド・ハニー』からは正式メンバーとして完全にブライアンの代役を果たすこととなります。
 

キャピトル時代こそ自身の提供曲のなかったブルースですがリプリーズに移籍した『サンフラワー』以降は楽曲の提供もスタート。従来のビーチ・ボーイズとは違った新鮮な曲想がビーチ・ボーイズにとって新たな魅力となっていました。そして1971年に発売されたアルバム『サーフス・アップ』に提供されたのが「ディズニー・ガールズ」でした。

 

前作の『サンフラワー』はビーチ・ボーイズの柱であるブライアンが半ばリタイア状態の中でメンバー全員が力を出し合い作り上げたアルバムで、収録曲の「アド・サム・ミュージック・トゥ・ユア・デイ」の歌詞にもあるように、生活の中に「音楽」をちょこっとプラスしたら素敵だよっていう(今の視点で聴くと)純粋に音楽的なアルバムでした。しかし、そんな素晴らしいアルバムも売上的には大惨敗で、タイトルの「Your Day」という言葉に関して言えばビーチ・ボーイズの考える「今」と当時の音楽ファンたちの「今」に大きなズレが生じている、そんな危機感が大きくなります。
 

そんな状況を打開するために迎えられたのが、ジャーナリストとして「今」と向き合っていたジャック・ライリーという人でした。ジャックの指導のもとビーチ・ボーイズはヒップなバンドとなろうと様々な試みを行なっていきます。「ビック・サー・フェス」への参加、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーでのライヴ、グレイトフル・デッドとのジョイント・コンサート、メイデイの反戦デモでの演奏などなど、なんとも涙ぐましい努力を行い、「おっビーチ・ボーイズちょっと変わったやんけ」と大衆に思わせた後に発売されたのが『サーフス・アップ』でした。
 


1曲目からエコロジーを歌った「水には近づくな」があり、マイクがリーバー&ストーラー「ライオット・セル・ブロック#5」の歌詞を書き直した(安直な)反戦ソング「スチューデント・デモンストレイト・タイム」なんという問題作まで収録するなど、時事的でコンテンポラリーでヒップな聴き手にも届くような意匠でアルバムは作られていました。ラストのブライアンによるタイトル・ナンバー「サーフス・アップ」(もちろん『スマイル』収録予定曲)という時代や価値観を超えた大傑作は別格として置いておくとして、ブルースの「ディズニー・ガールズ」における懐古趣味ともいえる歌詞とサウンドはジャック・ライリーによる『サーフス・アップ』のテーマとは正反対の作品に思えます。
 

前述のトピカルな楽曲たちの後に「ディズニー・ガールズ」を聴くと、時代に乗り遅れないように悪戦苦闘するビーチ・ボーイズに「新しい事がいつも素晴らしいこととは限らないんだよ」とブールースが諭しているように思えてきます。これはブルースが遅れてきたビーチ・ボーイズとして第三者的な視点で冷静にバンドのことを見ていたからかもしれません。

そんなブルースによるアルバム・コンセプトからは外れた「ディズニー・ガールズ」を敢えてアルバムに収めるビーチ・ボーイズのバランス感覚も素晴らしいなと一瞬思ったのですが、これはバランス感覚というよりは蔵出しの「サーフス・アップ」に比肩するような楽曲が他のメンバーには作れず、売上を考えればテーマからは外れるものの「名曲」といえる「ディズニー・ガールズ」を入れざるを得なかったというのが本音のような気がします。

溌売時点では懐古趣味と思えた「ディズニー・ガールズ」ですが、73年の映画「アメリカン・グラフィティ」のヒットによるオールデイズ・ブームの中、コンテンポラリーを目指すビーチ・ボーイズではなくエバーグリーンとしてのかってのビーチ・ボーイズが再評価されていくという皮肉な現象が起こっていったことを振り返って見ることのできた僕たちには、ブルースにはビーチ・ボーイズの未来が見えていたのではないかなんてことを思ってしまいます。(とか書きましたが、ブルースはこの2年後にビーチ・ボーイズをいったん首にされちゃうんですけどね・・・)
 

P.S. 歌詞の中に

パティ・ペイジと夏の一日
懐かしきコッド岬

 

という一節がありますが、懐かしきコッド岬=Old Cape Codという歌をパティ・ペイジが歌っており、実際の地名と曲名をかけているのだと思われます。
 

Patti Page -- Old Cape Cod

 


(2012年に書いたエントリーをリライトしています。)


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RIGHTEOUS BROTHERS THE GREATEST HITS
(1981 Phil Specter International 2335 229 )

 



ライチャス・ブラザースの「ふられた気持ち You've Lost That Lovin' Feelin'」についてのちょっと面白い記述をみつけたので紹介しておきます。

 

>ミキシングが完了したが未解決の問題がひとつあった。この件では(ラリー・)レヴィンが熟練したエンジニアがおおいに役に立つことを証明してくれた。4分近い長さの「ふられた気持ち」は当時のラジオで かかるシングルの標準より長いものでした。「3分50秒あったんだ、フィル(・スペクター)はDJたちがかけてくれないんじゃないかと本当に心配していた。」レヴィンは回想します。「そこで私は提案したんだ、レコードには3分05秒って書けばいいって。誰かに指摘されたらタイプミスだって言えばいい。フィルは受け入れたよ。私たちは編成担当が一度聞いたら気づくだろうことは分かっていた。でも少なくとも一度はオンエアされるに違いない、それこそが重要だったんだ」 by Dan Daley

 

 

フィル・スペクターのプロデュースによる「ふられた気持ち」は1964年の11月に発売されています。それ以前のスペクター・プロデュースのヒット曲にあった強力なバック・ビートこそありませんでしたが、スペクターによるサウンドは深く厚く強靭で「音の壁」の完成形といっていいものでした。
 

スペクターにとっては自信作ではあるものの、63年8月のロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」以降トップ10ヒットには恵まれず、ようやく100位内という曲もあり、「ふられた気持ち」までの7枚のシングルのランキングの平均は51位となっています。この平均順位はフィレス・レコードから発売された最初のシングルであるクリスタルズの「ゼアズ・ノー・アザー(ライク・マイ・ベイビー)」が20位とスマッシュ・ヒットしてから「ビー・マイ・ベイビー」までの13作の平均順位が21位であったことと比較するとスペクター作品の人気が落ちてきていたのは明白でした。これにはビートルズのアメリカ上陸なんていうことも関係していると思われますが、それはまたの機会に。

 


そして引用した記述にもあるシングルの尺(収録時間)の問題。当時のAMラジオでDJたちがかけるシングル盤のほとんどの収録時間は3分以内でした。そしてTOP40のヒット曲もほとんどが3分以内のシングルでした。なぜ3分なのということについてはSP盤時代の高音質で収録できる時間の目安が3分15秒だったみたいな、メディアそのものによる規制がEP盤の時代になっても続いていたということのようです。これもまた機会があれば詳しく調べてみたいと思います。

「ふられた気持ち」が発表された64年には23曲の全米NO.1ヒットが生まれていますが、うち22曲が2分台で唯一ローン・グリーンLorne Greeneの「リンゴRingo」のみが3分超えの3分15秒。23曲の平均時間は2分37秒でした。スペクター・プロデュースでフィレス・レコードから発売された「ふられた気持ち」以前の20枚のシングルで最長だったのがロネッツの「ザ・ベスト・パート・オブ・ブレイキン・アップ」の3分2秒で平均時間が2分45秒と革新的なサウンドを追及したスペクターですが、尺については従来の慣習に倣っていたといえます。
 

 

自分が求めてきた「音の壁」の絶対の自信作ができたものの、調子に乗って作り込んだらラジオでかかるヒット曲の標準時間を1分間も越えてしまっていた、出す曲出す曲がTOP20に入るような勢いがあればまだしもここ最近は思ったようにはヒットが生み出せていないとあってはいかに自分の才能に傲慢なまでの自信を持っていた独裁者=フィル・スペクターとはいえ不安になってしまったということなのでしょうね。
 

そんな時に相棒であるエンジニアのラリー・レヴィンからの収録時間の<ねつ造>提案はスペクターにとっては「そんな手があったのか。」と目からウロコだったのかも知れません。フィレス・レコードにとっての初のNO.1シングル「ヒーズ・ア・レベル」の時は21歳年上のレスター・シルから多忙で録音に参加できないクリスタルのゴースト・シンガーとしてダーレン・ラヴを使う事を助言されていたし、今回は11歳年上のレヴィンからの助言ということで当時25歳のスペクターはまだまだスレていない若造だったのかと(笑)

レヴィンの悪知恵は功を奏したようでシングルは無事ラジオでオン・エアされリクエストも殺到したのか翌65年の2月6日、13日に見事全米NO.1に。80年代には大ヒット映画「トップ・ガン」で印象的に使用されリバイバル・ヒットをします。

 

 

この「トップ・ガン」の貢献もあってか、20世紀にラジオ、TVで最もオンエアされた曲という栄誉を得ています。その回数は800万回以上、ちなみにその後には700万回以上でジ・アソシエーションの「かなわぬ恋」、ザ・ビートルズの「イエスタデイ」、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」、オーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ」と続いています。

またRIAA(Recording Industry Association of America)が選ぶ20世紀の楽曲ランキングでも9位と、まさに20世紀を代表するヒット曲となっているといえますが、もしレヴィンの悪知恵がなければそんな名曲も生まれていなかったかもと思うとレヴィンに大感謝です。
 


 

当時のシングルの画像を見ると確かに「3:05」と「タイプ・ミス」されていますね(笑)。

以下は余談となります。
 

 

 


ビリー・ジョエルの74年のシングル「エンターティナー」に以下のような歌詞があります。

僕はエンタティナー
ショーのためにやってきた
僕の新曲を聴いてくれ

ラジオでかかってるやつさ
何年もかかって書いたのさ

それは人生で最高の年月だった
美しい歌なんだ
だけどとても長すぎる
もしヒットさせたけりゃ
合わせなきゃね
だから3:05にしたんだ 



この歌詞は今ではビリー・ジョエルの代名詞とも言える名曲「ピアノ・マン」をシングルで発売しようとしたときにCBSにテープを切り貼りされ元々5分38秒あった曲が4分30秒に編集されて発売されたことを皮肉った歌詞のようです(プロモでは3分16秒)。つまりは「ふられた気持ち」から10年経っても音楽業界の中にはシングルは3分じゃないとダメという慣習が生き続けていたということかなと思われます。「エンタティナー」自体も元々のアルバム・バージョンは3分41秒だったのですがシングルでは30秒短縮されて3分11秒のバージョンになっていますが、タイプ・ミス(!?)でレーベルには「3:05」と書かれています。



「3:05」!ひょっとして「ふられた気持ち」のエピソードがビリーの頭にあったのかな・・・・あくまでも個人の妄想です。

 

 


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1976年の今日、4月29日(米時間)メンフィスでの公演を終えたブルース・スプリングスティーンは当地にあるエルヴィス・プレスリーの邸宅グレースランドに赴き、あろうことか壁を飛び越えて不法侵入しました。

その時の模様を 1985年7月7日の公演でエルヴィスの「夢の渚Follow That Dream」のカバーを歌う前のMCで語っています。

 

(動画は85年7月7日のものではありません、悪しからず)


>俺達は真夜中にグレイスランドへ行きタクシーを降りたのを覚えているよ。ビッグなギタリスト(背の低いスティーヴ・ヴァン・ザントのこと)と一緒に門の前に立ってたんだ。ドライヴウェイのむこうを見ると2階に電気がついているのが見えた。俺はエルヴィスが本を読んでるか何かしてるもんだと思った。で、スティーヴに言ったんだ。「なぁ、スティーヴ、確かめなきゃな」。そして俺は壁を乗り越えてドライヴウェイを走りだしたんだ。今思うと馬鹿なことしたよな、だって誰かが俺の家でやったら嫌だからな。

とにかく、その時は俺は若くてのぼせあがっちまってたからドライヴウェイを走り抜けたんだ。玄関に着きドアをノックしようとしたら警備員が出てきた。「何がしたいんだ?」と質問されたんで「エルヴィスは家にいるのかい?」と尋ねたんだ。「ノー、エルヴィスは家にはいない、彼はレイク・タホだよ」。俺は彼らに自分はギタリストで自分のバンドを持っていて、何枚かレコードも出していて、今夜は街でコンサートだったんだと伝えたよ。俺の写真が「タイム」や「ニューズウィーク」の表紙になったことがあるってことも。怪しくないことを分かってもらうためにとにかくいろいろ説明したんだ。でも彼は信じてはくれなかったみたいだよ、相槌を打ちながらも立ちふさがっていたからね。そして彼は俺の腕をつかんで俺をスティーヴのいる通りまで連れて行ったんだ。

後になって、もしドアをノックしてエルヴィスが出てきていたら俺は何を話したんだろうとよく考えたもんだよ、でも実際にはそれは起こらなかった。でも、その時エルヴィスがすぐ側にいて、俺たちみんなにある夢をささやいてように思ったんだ、それが俺たちみんなの夢だった。今夜、みんながここに居るのはそいつのせいかもな。

エルヴィスが死んだと友達が電話で教えてくれた時、多くの人たちの孤独を取り除き、日々の生活の可能性と理由を与えてくれる音楽を生み出した誰かが、結局は、悲しい死を迎えるという事をなかなか理解できなかったことを今も思いだす。

そしてこんな風にも思った、独りでいてもあなたは独りぼっちじゃないんだと。

 

 


>夢を追いかけろ 夢を追いかけろ

進め 夢に向かって 進み続けろ 
ゴールが何処であろうと夢を追いかけろ
愛を見つけるために夢を追いかけろ

心が安らぎを求める時こそ 追いかける時だ

心が弱気になる時こそ 追いかける時だ
夢がお前を呼ぶ時
できることはたったひとつ

そうさ、ゴールが何処であろうと夢を追いかけろ
愛を見つけるために夢を追いかけろ

進め 夢に向かって 進み続けろ 

自由な心もつ誰かをみつけるんだ
一緒に夢を探してくれる誰かを
見つけ出せた時には
俺の夢は叶ったも同然

ゴールが何処であろうと夢を追いかけろ
愛を見つけるために夢を追いかけろ

進め 夢に向かって 進み続けろ 
進め 夢に向かって 進み続けろ 



スプリングスティーン 27歳の出来事。後にボスと呼ばれる男もキングの前ではただの音楽好きの少年になってしまうってことでしょうか。それとも酔っぱらってたか・・・。

 
   


 


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本来は4月7日にアップすべきだったのですが2週遅れとなってしまいました。

良く覗いているサイトClassicbands.comの「この日何があったか?」みた
いなページの1967年4月7日のところに以下のような記述がありました。

>サンフランシスコのKMPX-FMは、45回転のシングルではなく、Rock 'n' Rollのアルバムからの曲のオンエアを開始して、FMラジオのフォーマットになる道を開きました。


60年代半ばにロックン・ロールがロックと呼ばれるようになり、3分間のマジックである45回転のシングルからサウンドも曲の長さも「自由」な33回転のLPに表現の場が移行していきます。そしてLPがロックのメイン・フォーマットとして広がっていくうえでFMラジオが果たした役割が大きかったということをどこかで読まれたり聞かれたりした方も多いかと思います。

調べてみると、米国のFM放送は当初はAMの補完的なものだったようで、ほとんどがAMと同じ内容の番組をFMの電波に乗せていたようです。1966年連邦通信委員会(FCC)がFMの放送内容をAMと分離することを決定したことによりFMは独自の道を歩きだすこととなります。その中でKMPXのように、シングル中心のAMの番組と差別化するためにアルバム中心の番組作りを選択するFM局が出てくるのは必然的な流れだったのかもしれません




余談ですがFCCが子供向けにキャラクターを作ったことがあるのですが、これどう見ても「ドラえもん」ですよね。現在は使用されていないみたいですが。

閑話休題。

FMの恩恵を受けた例として67年1月にデビューしたザ・ドアーズの存在があげられます

 

 

>(「ハートに火をつけて」は)アルバムのハイライト曲のひとつで、初期のドアーズの魅力を決定付けた7分余の名曲だ。(中略)アルバム発売直後にFM局へのリクエストが殺到し、今日では世界のロック・ファンなら誰もが知る名曲の一つとなった(略)  (レコードコレクターズ17年6月号より)

3分弱の尺に編集し直して、67年4月に発売されたシングル「ハートに火をつけて」は7月の最終週に全米1位となります。アルバムも発売から9か月かけて2位まで上り詰めるのですが、アルバムが売れた要因として「ハートに火をつけて」の7分強のアルバム・バージョンを聴きたい人たちや、シングルにはなりようがないしAMではかかることのない「ジ・エンド」のような問題作があったからと思われます。当時の音楽ファンたちはそういったドアーズの本来の魅力が詰まったアルバム収録曲をFM放送で体験しドアーズのファンとなりアルバムを購入した、そういう流れだったと思われます

 


ところでKMPXをロック中心のフォーマットの局へと変身させたのはトム・ドナヒューTom Donahue

という人物でした。

トム・ドナヒューについて簡単に説明しておきます。

 



ニックネームは”ビッグ・ダディ”、確かに写真を見るとそんな感じです。1928年5月21日生れ。’49年に西ヴァージニアの放送局
WTIPに入社、その後フィラデルフィアのWIBG、メリーランドの WINXといった局でDJとして活躍。アラン・フリードやディック・クラークなどがペイオラ事件に巻き込まれている中、’61年にサンフランシスコのKYAに移籍しトップ40番組を担当しながらDJ仲間のボビー・ミッチェルBobby Mitchellとともにオータム・レコードを設立。シルベスター・スチュワート(後のスライ・ストーン)をプロデューサーとして起用しボビー・フリーマンやモジョ・メン、ボーブラメルズといった人たちのヒット曲を生み出します。(ちなみにスライはサイクルThe Psyrcleというバンドも手掛けていますが、このバンドはロケッツThe Rocketsへと発展します、そうニール・ヤングのバック・バンド=クレイジー・ホースですね。)他にもグレイト・ソサエティ(ジェファーソン・エア・プレインに発展)やザ・ティキス(後のハーパス・ビザール)といったバンドのシングルを出したり、契約だけでレコードは発売できなかったもののグレイトフル・デッドとなるザ・エマジェンシー・クルーやダン・ヒックスのいたザ・シャラターンズなどの青田買いも行っていて、かなり先見の明があった人といえます。
あと、1966年8月29日のキャンドル・スティック・パークでのビートルズ公演、つまりはビートルズの最後の公演を共同プロデュースしたのもドナヒューとのことです。

 


結局オータム・レコードはワーナー・ブラザースに身売りされてしまうのですが、ドナヒューはとにかく60年代の米国ロックに大きな貢献を果たしていた人といえると思います。

さて、トム・ドナヒューがFMの変革を思いついたのは、家でドアーズの1stアルバムを聴いているときに「何故こんな素晴らしいアルバムをラジオはオンエアしないんだろう?」と不思議に思ったのがきっかけだったようです。AMは難しいが前年にAMと分離したFMであれば可能なのではないかということで、さっそくドナヒューはシスコのFM局に電話をかけまくります。そんな中でKMPXの電話が不通(おそらく料金未払い)となっているのを知り、そういう経営がヤバそうなFM局であれば、逆に提案に乗ってくるのではないかとアプローチして、空いている夜の時間帯にTOP40のシングルではないロック・アルバムからの曲を中心としてオン・エアする番組をスタートした、それが1967年の4月7日だったということのようです。

なんと、きっかけはドアーズだったという訳ですです。前述しましたがドアーズのアルバムが売れたのはFMのおかげなので、「卵が先か鶏が先か」という言葉を思い出させるエピソードです。というかそういうことが自然にシンクロナイズする時代(サマー・オブ・ラブ前夜)だったということでしょうね。

ドナヒューがFMで番組をはじめるにあたって宣言したのは「ジングルなし、余計なおしゃべりなし、時間やテンポの制限なし、ポップ・シングルなし」というものでした。

約10年後の1978年、架空の人気FM局を舞台に収益アップのために軍のCMをオンエアしようとする経営陣とDJたちの闘いを描いたハリウッド映画が生まれ、そのサウンド・トラックのために全米の有名アーチストたちが魅力的な新曲を提供する、そんな世の中になるとドナヒューは予想していたでしょうか?
残念なことにドナヒューは1975年4月28日に心臓発作により47歳という若さで天国に召されていて、映画「FM」を見ることはできませんでした。
 

 

 

 

 

PS.映画「FM」は日本では未公開でDVDも未発売。本編にはジミー・バフェットやリンダ・ロンスタット(「ダイスをころがせ」)のライヴ・シーンやトム・ペティの出演シーンもあるようで、なんとかDVDだけでも発売できないかな。

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