大社に疎開した西六国民学校の疎開生活 その② | PIECE of PEACE 島根教師の会

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 この内容は、『大社の史話№164号』H22.9発行掲載内容をまとめたものです。高田康子さんと同級生の荒木アケミさんの手記です。
〔荒木アケミさん(旧姓:近藤当時6年生)の手記から〕
・6年生女子は、毎朝宿舎(加善旅館)から大社駅まで、大社駅から出雲大社まで玉砂利を踏んでお祈りをした。
・宿舎につくと朝ごはん「一粒も汗と油のたまものぞ、もったいなきや残しこぼすな、いただきます」と感謝しながら食事をした。
・大社駅から神社までの両側に松の木があり、松やにを取るために木の幹に切り込み、その下に入れ物が下げてあった。
・掃除や洗濯も一人でしなければならなかった。

1月~2月の出雲は寒く、水は冷たく、手はしもやけで赤く腫れ、血がにじんでいました。
・6年生は卒業のため大阪に帰りましたが、弟や妹が疎開している人は、今度いつ会えるか分からないので、涙涙の惜別でした。


 西六国民学校の島根県大社町での疎開生活の様子が、お二人の証言によってかなり明らかになってきました。
 実は、『大社の史話』に掲載された西六国民学校の関係資料は以前からコピーして持っていました。

 今回の大阪への文献調査で『西六いまむかし』と出会い、高田康子さんの手記を読んで関連資料がすべて結び付き、当時の姿が浮かび上がってきました。
 偶然な出来事ですが、これからの児童用読み物資料作成の事を考えると、ずいぶん制作環境が充実してきました。
 『西六いまむかし』を出版した西六連合振興町会へ、高田康子さんの現在の様子について尋ねる手紙も12月22日に投函しました。

 今後、さらに当時の様子解明につながる情報が得られることを期待しています。

 ご健在であれば、ぜひ大阪へ出かけ、直接お話が聞きたい旨も手紙に書き添えました。

 お二人の証言以外に、他の方の証言の中には、切迫する島根の様子に関連する出来事も紹介されていました。

これは、次回に紹介します。

【▼大社神門通りの松に残る傷跡】