■土俵際の文部省
それでも、やはり、文部省は“名横綱”だ。「教育委員会」制度立案の段階に至ってさえ、自らの権限を何とか守ろうと、土俵際で二枚腰の粘りを見せる。
'47(昭和22)年6月に出された「地方教育委員会法要綱案」の中にも、都道府県教育委員会協議会についての文部大臣の許可権、都道府県教育委員会に対する監督権、市町村教育委員会に対する第二次監督権を規定した文言が見られ、懸命に自らの支配力を死守しようとあがく姿をうかがわせている。
この間の文部省の態度を評して、CI&Eのオア課長は言う。
「文部省は教育についての権限を捨てようとはしなかった。文部省は、分権化の考えに口先でお世辞を言う一方、計画の段階を無期限に引き延ばそうとした」。
また、「教育委員会」制度立案の衝に当たっていた田中二郎も、こう証言する。
「当時の文部省としては、自分の教育行政そのもの、またはその責任を地方の教育委員会に任せるという気持ちは毛頭なかったと思います。むしろ文部省の指揮監督下に地方の教育委員会というものが教育行政をやっていくという考え方があったわけです。ところがCI&Eに行ったところが、こんな案ではだめだといって突っ返されて、また文部省へ帰ってきていろいろ討議をした。しかし、文部省が地方教育行政の実権を持たなくなるというようなことは、その当時は大臣以下誰も考えてはいなかったと思います」
■「教育委員会」の芽が生えた
いずれにしても、CI&Eにしてみれば、文部大臣の教育委員会に対する監督権など言語道断だった。そして、「教育委員会法」55条2項において、「法律に別段の定めがある場合の他、文部大臣は、都道府県委員会及び地方委員会に対し、都道府県委員会は、地方委員会に対して、行政上及び運営上、指揮監督をしてはならない」と、CI&E教育課は文部省に要求して書かせた。つまり、文相、都道府県教育委員会及び地方教育委員会の間に、上下、監督・被監督の関係を認めないものであり、この点、CI&Eの態度ははっきりしていた。
教育委員会法案の原案とも言える'47(昭和22)年1月15日の「地方教育行政に関する法律案」では、教育委員の任命方式につき、その住民の選挙による委員とその議員の中から議会が推挙する委員で構成することとなっていた。また、都道府県・市町村とも教育委員会は議決機関、教育長は執行機関とされていたが、これはCI&Eの反対にあい、合議制の行政庁とするように要望された。
次の6月20日案で、「地方教育委員会は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し、直接に責任を負って行われるべきであろうという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行ない、教育本来の目的を達成せしめることを目的とする」という文言が表われる。ここに、後に成立する「教育委員会法」に連なる精神規定が登場してきたのである。
■革新文相・森戸も逡巡
こうして一進一退の立案作業が進む中、'47(昭和22)年12月、CI&Eのルーミスから、「地方教育委員会法案要綱」について口頭でCI&Eの見解が伝えられ、さらに翌年の1月14日に、正式な法律案を用意しろとの指示を受ける。
余談ながら、'47(昭和22)、'48(昭和23)年頃、こうした論議が交わされた文部大臣官房審議室は、戦後教育改革のためのさまざまな立法措置を検討するために設けられたものだが、部屋は広くなく、冬になれば窓の破れガラスから寒風が吹き込み、豆粒ほどの炭火で暖を取ったという。数人の男が集まっては、みかんの皮を煮出したジュースで喉を潤し、口角泡を飛ばして侃々諤々の議論を交わしていたのが当時の風景であったようだ。イガグリ頭や復員間もない軍服姿も入り混じり、議論はしばしば夜を徹したと伝えられる。そして、そこの顧問格が、東大法学部から招いた参事の田中二郎だった。
「教育委員会法案」の立案作業も終盤にさしかかる頃、片山内閣の文部大臣は森戸辰男であった。森戸は、戦前、京都帝大教授の職にあり、「森戸事件」として知られる言論弾圧事件で勇名をはせた人だ。学内誌に寄稿した「クロポトキンの社会思想研究」が官憲により危険思想視され、掲載誌の編集責任者であった大内兵衛(東京帝大教授、後の法大総長)とともに職を追われるという憂き目を見た。その後、大原社会問題研究所に転じ、戦後は日本社会党に入党、片山内閣成立と同時に入閣を果たした“革新学者閣僚”である。
■占領軍は譲らない
ところが、その森戸にしても、「公選教育委員会制度」には必ずしも賛成でなかったと言われる。「移住者の集団からコミュニティが生まれ、州ができ、合衆国が作られたというアメリカの歴史から見れば、民主化イコール地方分権という考え方は自然なものだった。しかし、封建社会を統一して中央集権的な近代国家を作った日本では、形式的に教育行政を細分化することは必ずしも民主化にはならない。教育の地方分権や教育委員の公選制を全く否定するわけではないが、アメリカで生まれた制度をいきなり日本に持ってきても定着するかどうか疑問である」というのがその理由であった。
森戸はさらに、「委員の直接選挙は形式的には民主的だが、目的は果たすまい。レイマン・コントロール*と言っても、住民の教育委員会制度に対する関心は薄く、結局は県議にもなれないような二流、三流の人物しか選ばれないだろう」などと、忌憚のないところを、GHQ民生局のケーディス大佐やCI&Eのニューゼント中佐を相手にぶつけたりしている。
しかし、そんな考えを受け入れるGHQであろうはずもない。代案として文相は「任命制教育委員会」を提案するが、一蹴される。さらには、公正な推挙母体による間接選挙を提案したところ、これもまた拒まれた。
*レイマン・コントロール:レイマン(layman)とは「素人」の意味。レイマン・コントロールは素人による統制だが、日本の教育委員会制度のモデルとなったアメリカの“Boad of Education”はこのレイマン・コントロールが基本であり、あえて教育行政の素人に教育行政を担わせることを趣旨としている。
《今回は、ここまで》