第二次大戦の敗戦による占領下、米国の占領政策はとりわけ「教育」に向う。その中で、何が何でも教育行政制度のドラスティックな改変を貫こうとする占領軍と自らの支配を固守しようとする文部省始め日本の支配層との間で、駆け引き、せめぎ合いが続いた。その末、米国特有の教育行政制度“Boad of Education”を真似た「教育委員会」が誕生した。


あまりにも土壌の違う国から委嘱されたこの制度、国民の合意や理解とはかけ離れたところで出来上がったこの制度は、当初からあまりにひ弱で不明瞭なものであった。そして、ようやくヨチヨチ歩きを始めるものの、その後の国内外情勢の変化、占領政策の転換、さらには講和による日本の形式的な独立、占領の終了といった時代の波の中、またしても、さまざまな政治勢力の思惑のはざ間で揉みしだかれ、その本質を見る見るうちに変えられていくこととなる。


そして、現在、学校内のイジメ問題顕在化に伴って、再び国民の前にその存在がクローズアップされてきた教育委員会。教育が抱える諸問題に対し、あまりにも無力で、不明瞭なこの行政委員会は、連日、マスコミによりその機能不全があげつらわれている。また、政府によって、またぞろ政治的に手を加えられようとしている。


これまで全8回で、教育委員会の誕生までの歴史を駆け足で追いかけてきたが、それがいよいよ今日のワケのわからない委員会に変貌するまでのプロセスをこの後に記録しておきたい。ヨチヨチからヨボヨボまでの足跡である。


 《以下は、次回》

■教育委員の選び方


戦前は国家権力による言論弾圧を受け、戦後「革新学者閣僚」として登場した森戸辰男が文部大臣になった後も、「教育委員会」創設をめぐる文部省と占領軍との反目は収まることがなかった。


そんな中、'47(昭和22)年4月、教刷委からも第17次建議が出されてきた。その主な内容は、次のようなものであった。


1.教育委員会は「行政機関」として明確化する。
2.地方教育委員会の構想は捨て、教育委員は都道府県、市町村、特別区に置くことを原則とする。ただし、町村は当分の間、設置を見合わせ、従来の学務委員のような方法で民意の反映を図る。
3.教育委員の選任方法では当分の間、自治体の議会、執行部の代表者、学校長の代表者、教員組合の選出する者、産業関係者、文化人など10人からなる選考委員により、定員の3倍の候補者を選び、これについて一般投票を行なうこととする。
4.教員の任免権は都道府県と5大市の教育委員が持つこととし、市(5大市を除く)区教育委員会には具申権を認める。
5.教育委員会に予算の編成・執行の権限を確立する。


などである。


いよいよ法案作成作業の詰めに向う中、文部省の言い分が通ったのは高校の所管に関する問題などごくわずかであった。対立点は、ことごとくGHQに押し切られたのである。特に、委員の選任方法については、CI&Eは頑として譲ろうとしなかった。



■日本には無用なもの?


教育委員会の設置単位についても法案が出来上がるまで激論は続くが、ついに占領軍の譲歩は得られなかった。また、基本的な議論として「学区」設置の必要性があった。アメリカ側には、教育委員会を作る前提として「学区」があったのだ。


アメリカの場合、荒野を耕し、教育のために学校を作ろうとみんなで集まって金を出し合い、1つの学区を作る。その学区の機関として教育委員会(Boad of Education)を置く。そして、これがアメリカ側の当然の考え方となっている。まさに“草の根”の教育運営だが、この日本には、この「学区」を設ける必然性が見当たらないのである。


ここを主張しても、相手の理解は得られなかった。その他、教員の人事権を市町村教育委員会に与えること、アメリカ教育委員会に見られる“ボランティア精神”に基づく無報酬制度、現職教員の立候補禁止など、アメリカ側の主張はことごとく文部省には受け入れがたいものであった。



■アメリカ製法案


双方ことごとくすれ違う中、法案を提出すべき第二国会の会期末は刻々と迫る。法案はいっこうにまとまらず、梅雨の空の下、メンバーの憂鬱な日々が続く。


しかし、6月中旬を迎えて、「教育委員会法案」はようやくまとまる。そして、15日に国会提出の運びとなった。文相の森戸をして、「文部大臣として私が提出した片山内閣の見解より、CI&Eの考えが優先した」と述懐せしめたような法案であった。


それでも、国会提出後の審議は順調で、7月5日、第二回国会最終日の昼前に衆院を通過、参院に回付されると、深夜の本会議で一気呵成に可決、成立と相成った。


ただし、法案審議過程の土壇場で、日教組の圧力によりいくつかの修正がなされている。人口1万人以下の町村には特例を設けて当面教育委員会を設置しなくてもよい、教職員の立候補を認める、委員には報酬を与える、といった修正である。CI&Eの担当官は、後にこれを知り怒ったという。



■教育委員会の船出


翌日の朝日新聞には、「5日成立した法律」として、他の法律といっしょに小さく「教育委員会法」の名も記されていた。


もっとも、当時の新聞は今日のようにニ十数面にも及ぶボリュームのものではなく、表裏二面だけの小さな紙幅のものだった。因みに、ちょうどこの頃、新聞紙面をにぎわしていた記事は、やがて芦田内閣の「昭電疑獄」という戦後最大級の疑獄事件―後には、ロッキード、リクルート、ゼネコン疑獄なども登場する―に発展することとなる、国務大臣・西尾末広への疑惑に関するものだった。


かくして、教育委員会法は、法律第170号として、'48(昭和23)年7月15日に公布施行される。そして、同じ年の10月5日には、第一回の教育委員の選挙が行なわれた。11月1日から、全国の都道府県・5大都市を始め、浦和市、千葉市、富山市等、21市および16町9村において、教育委員会は発足するのである。



 【「教育委員会」の誕生秘話】 完
   
  (「教育委員会」関連の記述はまだ続く)

■土俵際の文部省


それでも、やはり、文部省は“名横綱”だ。「教育委員会」制度立案の段階に至ってさえ、自らの権限を何とか守ろうと、土俵際で二枚腰の粘りを見せる。


'47(昭和22)年6月に出された「地方教育委員会法要綱案」の中にも、都道府県教育委員会協議会についての文部大臣の許可権、都道府県教育委員会に対する監督権、市町村教育委員会に対する第二次監督権を規定した文言が見られ、懸命に自らの支配力を死守しようとあがく姿をうかがわせている。


この間の文部省の態度を評して、CI&Eのオア課長は言う。

「文部省は教育についての権限を捨てようとはしなかった。文部省は、分権化の考えに口先でお世辞を言う一方、計画の段階を無期限に引き延ばそうとした」。


また、「教育委員会」制度立案の衝に当たっていた田中二郎も、こう証言する。

「当時の文部省としては、自分の教育行政そのもの、またはその責任を地方の教育委員会に任せるという気持ちは毛頭なかったと思います。むしろ文部省の指揮監督下に地方の教育委員会というものが教育行政をやっていくという考え方があったわけです。ところがCI&Eに行ったところが、こんな案ではだめだといって突っ返されて、また文部省へ帰ってきていろいろ討議をした。しかし、文部省が地方教育行政の実権を持たなくなるというようなことは、その当時は大臣以下誰も考えてはいなかったと思います」



■「教育委員会」の芽が生えた


いずれにしても、CI&Eにしてみれば、文部大臣の教育委員会に対する監督権など言語道断だった。そして、「教育委員会法」55条2項において、「法律に別段の定めがある場合の他、文部大臣は、都道府県委員会及び地方委員会に対し、都道府県委員会は、地方委員会に対して、行政上及び運営上、指揮監督をしてはならない」と、CI&E教育課は文部省に要求して書かせた。つまり、文相、都道府県教育委員会及び地方教育委員会の間に、上下、監督・被監督の関係を認めないものであり、この点、CI&Eの態度ははっきりしていた。


教育委員会法案の原案とも言える'47(昭和22)年1月15日の「地方教育行政に関する法律案」では、教育委員の任命方式につき、その住民の選挙による委員とその議員の中から議会が推挙する委員で構成することとなっていた。また、都道府県・市町村とも教育委員会は議決機関、教育長は執行機関とされていたが、これはCI&Eの反対にあい、合議制の行政庁とするように要望された。


次の6月20日案で、「地方教育委員会は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し、直接に責任を負って行われるべきであろうという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行ない、教育本来の目的を達成せしめることを目的とする」という文言が表われる。ここに、後に成立する「教育委員会法」に連なる精神規定が登場してきたのである。



■革新文相・森戸も逡巡


こうして一進一退の立案作業が進む中、'47(昭和22)年12月、CI&Eのルーミスから、「地方教育委員会法案要綱」について口頭でCI&Eの見解が伝えられ、さらに翌年の1月14日に、正式な法律案を用意しろとの指示を受ける。


余談ながら、'47(昭和22)、'48(昭和23)年頃、こうした論議が交わされた文部大臣官房審議室は、戦後教育改革のためのさまざまな立法措置を検討するために設けられたものだが、部屋は広くなく、冬になれば窓の破れガラスから寒風が吹き込み、豆粒ほどの炭火で暖を取ったという。数人の男が集まっては、みかんの皮を煮出したジュースで喉を潤し、口角泡を飛ばして侃々諤々の議論を交わしていたのが当時の風景であったようだ。イガグリ頭や復員間もない軍服姿も入り混じり、議論はしばしば夜を徹したと伝えられる。そして、そこの顧問格が、東大法学部から招いた参事の田中二郎だった。


「教育委員会法案」の立案作業も終盤にさしかかる頃、片山内閣の文部大臣は森戸辰男であった。森戸は、戦前、京都帝大教授の職にあり、「森戸事件」として知られる言論弾圧事件で勇名をはせた人だ。学内誌に寄稿した「クロポトキンの社会思想研究」が官憲により危険思想視され、掲載誌の編集責任者であった大内兵衛(東京帝大教授、後の法大総長)とともに職を追われるという憂き目を見た。その後、大原社会問題研究所に転じ、戦後は日本社会党に入党、片山内閣成立と同時に入閣を果たした“革新学者閣僚”である。



■占領軍は譲らない


ところが、その森戸にしても、「公選教育委員会制度」には必ずしも賛成でなかったと言われる。「移住者の集団からコミュニティが生まれ、州ができ、合衆国が作られたというアメリカの歴史から見れば、民主化イコール地方分権という考え方は自然なものだった。しかし、封建社会を統一して中央集権的な近代国家を作った日本では、形式的に教育行政を細分化することは必ずしも民主化にはならない。教育の地方分権や教育委員の公選制を全く否定するわけではないが、アメリカで生まれた制度をいきなり日本に持ってきても定着するかどうか疑問である」というのがその理由であった。


森戸はさらに、「委員の直接選挙は形式的には民主的だが、目的は果たすまい。レイマン・コントロール*と言っても、住民の教育委員会制度に対する関心は薄く、結局は県議にもなれないような二流、三流の人物しか選ばれないだろう」などと、忌憚のないところを、GHQ民生局のケーディス大佐やCI&Eのニューゼント中佐を相手にぶつけたりしている。


しかし、そんな考えを受け入れるGHQであろうはずもない。代案として文相は「任命制教育委員会」を提案するが、一蹴される。さらには、公正な推挙母体による間接選挙を提案したところ、これもまた拒まれた。


*レイマン・コントロール:レイマン(layman)とは「素人」の意味。レイマン・コントロールは素人による統制だが、日本の教育委員会制度のモデルとなったアメリカの“Boad of Education”はこのレイマン・コントロールが基本であり、あえて教育行政の素人に教育行政を担わせることを趣旨としている。



 《今回は、ここまで》

■「教育勅語」はいまだ死なず


戦前の日本では、教育の淵源は一貫して「教育勅語」にあった。それは、この国の教育の理念から精神のあり方までを説いた教条的文書であり、国体を護持し国家主義を貫徹する上で抜き差しならぬ重要なものであった。


初代文部大臣・森有礼がいみじくも言った。「学政の目的も亦専ら国家のためということに帰せざるべからず。例せば帝国大学に於いて教務を挙ぐる学術の為と国家の為とに関することあらば、国家のことを最も先にして、最も重んぜざるべからずが如し。夫れ然り諸学校を通し学政上に於いては、生徒其の人の為に有らずして国家の為にすることを終始記憶せざるべからず」(森・文相演説『学政の目的』1889年1月)


要するに、教育は国民一人ひとりのためではなく国家のために行うものだと言いたいのだろう。最近「愛国心」なんか持ち出す人たちも、こういう考えに郷愁を感じるのだろうか。


ところが、敗戦による時代の転換の中、国体が崩壊したにもかかわらず、こと「教育勅語」に関する限り、なかなか明快な裁断が行なわれなかった。この点、CI&E始め占領軍ですら、すこぶる歯切れが悪かった。


「教育勅語の扱いには慎重たれ」との知日派の入れ知恵もあって、ことのほか、GHQも「教育勅語」にはナーヴァスになっていたようだ。しかも、日本の教育制度の抜本的改革を企図して日本を訪れたアメリカ教育使節団においてすらこの問題との正対を避けているのは、はなはだ奇異にも思われる。その団長・ストッダードからして、来日早々記者会見で「教育勅語」の検討は予定にないと明言しているのだ。


*「教育勅語(きょういくちょくご)」:日本の教育の精神や基本方針を示した明治天皇の勅語で、1890(明治23)年10月30日発布。



■占領軍も及び腰


それをよいことにしてか、国内“抵抗勢力”も、勇んで「教育勅語」擁護論に立った。くだんの田中耕太郎もまた、その代表選手の一人だった。'46(昭和21)年2月21日の地方教学課長会議において「教育勅語は我が国の醇風美俗と世界人類の同義的な核心に合致するものでありまして、いはば自然法とも言うべきものであります。即ち教育勅語には個人、家族、社会及び国家の諸道徳の諸規範が相当網羅的に盛られて居るのであります」などとぶって、勅語の正当化に躍起となっている。さらに、田中は、国会答弁の際も、勅語の弁護に熱を上げた。


別な動きとして、この旧来の「教育勅語」に代えて、新たな時代の教育理念に合致する直後の発令を求める“新勅語煥発論”も台頭してくる。かの「(アメリカ使節団に協力する)日本側教育家委員会」でも、多勢がこの方向だった。ただし、はっきりと反対の意思表示をした委員も数名いた。


新たな教育理念を示すにはいかにすべきかということに関して、CI&Eは'45(昭和20)年10月頃からいち早く内部で検討を開始している。そのCI&Eの内部でさえ、当初は日本人を“民主化”に向わせるには天皇の権威を借りるのが一番早道との認識で、かつての「教育勅語」に代わる新教育勅語発布の方向で検討がなされていた。事実、京都の学者に新勅語の起草を準備させていたこともある。



■これがイワクの「教育基本法」


在野には、強力な反対論があった。特に商業新聞紙の論調は、押しなべて教育勅語反対であった。そして、天皇の権威を借りての“民主化”に反対する占領軍内部の意見や日本の世論の中に見られるこれら反対論に支えられて、やがて「教育基本法」制定への流れとなっていったのである。「教育基本法」制定に関しては、前年12月の教刷委第一回建議でも取り上げられていた。


この基本法も、起草に当たるのは“勅語擁護論者”の田中耕太郎であった。その法案の存在は、'46(昭和21)年の帝国議会で明らかになった。その時点の法案は、「学校教育法」の内容をも包括するようなものであった。


11月から、CI&Eも草案の策定に関わるが、その後も、主として文部省と教刷委の手で作成されていった。全条わずか11条のものだが、これは歴史上画期的な意味を持つ法律である。これにより、教育が勅令主義から法律主義へと大転換を果たしたのである。言い換えれば、教育が少なくとも形式的には「国民のもの」となったことを意味する。後に制定される「教育委員会法」もまた、新憲法とともにこの教育基本法の精神に基づく流れの上になるものと言えよう。


これが、今日、安倍内閣の下で改定されようとし、マスコミで連日その名を聞く「教育基本法」が生まれる背景である。



 《今回は、ここまで》


■たらいの水は流れても赤ん坊は残った


そのような内務省からの反対はともかくとして、文部省が出した改革試案には「教育刷新委員会」の内部にも批判の声があった。あのアメリカ教育使節団に協力した日本側教育家委員会が'46(昭和21)年には教育刷新委員会に発展解消して、精力的に活動していた。


その委員会第三特別委員会の'46(昭和21)年10月の第2回会合においても、委員たちから有力な反対意見が出された。「大学区構想は、内務省が抜けても文部省の中央集権が確立することではないか」「教育という価値から見たら、国民学校も中等学校も大学も同等であるという考え方を持つほうが却って民主的じゃないだろうか。そのときに当然大学は中等学校を指導する。中等学校は国民学校を指導するという考え方を先ず除くべきじゃないか」などといったものが、それである。


同様に、CI&Eのほうからも、もっと積極的に地方分権を進めるべきだという観点からの反対があった。


いずれにしても、そのような経緯で大学区構想は後退し、公選教育委員会制度の検討に取って代わられることになる。構想が持つ「教育の自主性確保」「教育行政の一般行政からの独立」という意義は、その後も教育改革の基本方針として受け継がれることになる。



■「教育基本法」も生まれる


この年の12月には、教育刷新委員会の第一回建議が早速出される。すると、間もなく、翌'47(昭和22)年1月、「地方教育行政に関する法案要綱」なるものが文部省にできる。これは、教育委員会制度に関わる法案の最初のもので、「地方教育行政法案」と呼ばれるものである。


ここでは、地方教育総長の内閣任命制、市町村教育委員会及び都道府県教育委員会に対し、地方教育総長は第一次監督権を、文部省は第二次監督権を有するとの規定が見られる。当然のことながら、CI&Eとの交渉は不調で、4月の6・3制スタートに間に合わせる立法は無理となり、断念せざるを得なくなった。


この間に、“不磨の大典”明治憲法は滅び、新たな国家建設のため民定の「日本国憲法」が生まれた。それは、前年の'46(昭和21)年11月3日に公布され、この年の5月3日に施行されることになる。


そして、この年3月には、「教育基本法」が「学校教育法」とともに公布されている。およそ六十年を経た今、安倍晋三らの政治勢力によっていじられようとしている。そして、教育委員会とともにマスコミにより連日報じられ世間の耳目を集めている教育の基幹法規たるあの「教育基本法」である。


 《今回は、ここまで》

■和製教育改革の萌芽


さて、アメリカの教育使節団によって、「教育委員会」を日本に作れといよいよ迫られてきた。しかし、それに先立ち、敗戦早々、文部省サイドにも戦前の中央集権的学制から脱却して、教育権の独立を勝ち取ろうとする改革の試みがあった。それは、東久邇宮、幣原両内閣にわたる前田多門・文相のもとで起こっていた。


当時、帝国大学教授から文部省学校教育局長となった田中耕太郎(後に文相)が、内務行政の弊害を厳しく批判し、教育者の権威を確立することを主眼に提示した「大学区構想」である。田中は「かかる病弊を除去するのは、教育行政を一般行政から分離独立し、教育及び教育者の自主権を確保する以外に道はない」としていた。


田中のこの構想は、フランス革命の頃のコンドルセ案に範を求めたものと言われる。そして、'46(昭和21)年1月の文部省内試案「地方教育行政機構刷新要綱」「右ニ基ク学区庁(仮称)設置案」に具体化されることになる。


その内容は、次のようなものである。

 1.全国を大学区に分け、学区庁を設置する。
 2.学区庁は学区内の教育事務(社会教育を含む)を所管する。
 3.学区庁には学区内の帝国大学総長を充てる。
 4.学区庁の下部機関として学区支署を置く。



■“抵抗勢力”が猛る


これを聞いて、その頃まだ残っていた、それこそ“抵抗勢力”の全日本チャンピオンみたいな内務省が、黙っていなかった。内務省は大学区構想に真っ向から反対し、その理由を並べ立てた。


 第1に、日本国憲法は地方分権によっており、知事・市町村長は公選によって選ばれるものだから、教育行政の権限もこれに与えるべきだ。総合行政の見地からも教育行政の分離はよろしくない。
 第2に、教育のために特別の機関を作ってどの程度権威あるものができようか。
 第3に、教育行政の独立論は、「教育だけは特別なもの」「ある特別な人たちが考え行なうもの」という印象を知事や一般に与え、これらが教育に無関心となりがち。
 第4に、地方ブロックは地方行政機構を複雑にするし、地方自治体を欠くから弱体。
 第5に、財源上、全負担の均衡が得られたり、地方が独自に教育税を徴収することも無理。


ざっと、こんなところである。


内務省、この存在は戦前より文部省にとっては常に“眼の上のタンコブ”であった。文部大臣のほうが弱かったのは、資金を他の二つの省庁に依拠していたためである。その一つが大蔵省、そして、もう一つが内務省である。



■ライバル退場


内務省と言えば、1873(明治6)年に設置され、大久保利通が初代内務卿となった。'85(明治18)年に内閣制度が制定されたときの内務大臣は山県有朋である。警察行政の大元締めであるこの官庁を、官僚たちは本拠にして絶対主義を強固なものにしていったのである。後には、治安維持法改正により特別高等警察(特高)を強化するなど、自由の弾圧に尽力し、戦前の国家社会の構造を考える上で重要な意味を持った役所であると言える。


戦前、高等教育以下の学校は、文部大臣の監督下にありながらも、運営は府県知事が行なっていた。その府県知事は、まさしく内務省の管轄下にあった。なおかつ、府県の教育化の担当官も内務省の承認を得て府県知事が任命するという制度であったため、教育行政の上に及ぼす内務省の力には端倪すべからぬものがあったのだ。


ともあれ、自らの省益の擁護に躍起となる役人の心根は昔も今も変わりないようだが、内務省としては、戦前一貫して教育をその支配下に収めてきた権益を何としても手放したくはなかったと見える。


この強力なライバルと占領軍の存在は、文部省にとって、まさに“前門のトラ、後門のオオカミ”であったことだろう。ところが、内務省は、やがて、'47(昭和22)年12月、管制廃止によって姿を消してしまう。



 《今回は、ここまで》


■教育使節団がやって来た


そんな日本側の動きを睨みつつ、CI&Eもいよいよネジを巻き始める。アメリカ本国から「教育使節団」を招くのである。これに伴い、GHQ/SCAPは使節団に協力すべき体制を整えるよう日本側に指令した。


これを受けて、南原繁・東京大学教授ら29名で編成される「米国教育使節団に協力すべき日本側教育家の委員会」なるものが早速結成される。


アメリカ国務省は、'46(昭和21)年、その27名の団員を新聞発表した。大学関係者14、教育行政4、教育・労働など全国団体4、連邦関係4という構成だった。イリノイ大学学長就任早々のジョージ・D・ストッダードを団長とし、第一次教育使節団はこの年の3月5日に日本にやって来る(後、1950年には第二次使節団が来日)。


使節団は、来日後1ヵ月足らずの間に、CI&E教育課によるレクチャー、文部省や日本側委員会の説明を受けて、20日以降には素早く報告書起草に取りかかる。そして、30日、早くも出来上がった報告書はマッカーサーに提出され、翌月4月8日にはその内容が新聞発表された。



■どこかで聞いた名セリフ


「われわれは、征服者の精神をもってやって来たのではなく、すべての人間には、自由を求め、さらに個人的ならびに社会的発展を求める測り知れない力がひそんでいることを確信する教育経験者として、来日したのである」。


このように序論に歌い上げた報告書ではある。ところで、蛇足だが、アメリカが“征服者”として外国の領土を占領し、馴化政策を行なおうとする際、よく使う巧みな表現には感心する。こうした物言いを聞いていると、現在進行中の対イラク占領を思い出す。もっとも、イラクも含め、他の諸国は、日本人のように簡単に手なずけることはできないようで、さしもの老獪な覇権国家もその勝手の違いに面食らってはいるようだが。


それはともあれ、報告書には「まえがき」、この「序論」に続き、「第1章 日本教育の目的及び内容」「第2章 国語の改革」「第3章 初等および中等学校の教育行政」「第4章 教授法と教師養成教育」「第5章 成人教育」「第6章 高等教育」「本報告の趣旨」といった構成になっている。



■いよいよ「教育委員会」


これは、戦前日本の教育制度に対する批判に基づき、個人の価値を尊重するという眼目から、教育制度の中央集権制を突き崩し、地方分権化を促すという方向を示しているものだ。

具体的には、男女共学、授業料不徴収の6・3・3制、9年の義務教育などの学制導入を、また、ここで「公選制教育委員会」制度の創設を勧告している。


戦後の教育改革の目玉の一つである、アメリカ合衆国の伝統的な教育行政制度に見る“Boad of Education”をモデルとした「教育委員会」制度導入の具体的論議が、これをもっていよいよ始まるわけだ。


《今回は、ここまで》

■矢つぎ早の4大指令


日本の教育制度を作り変えるために占領軍が設けた機関CI&Eによる「教育の4大指令」の第一弾が、早速、敗戦の年の10月22日に出されてくる。「日本教育制度に対する管理政策」というものだ。


それには、軍国主義的及び国家主義的思想の普及を禁止し、議会政治、国際平和、個人の権威及び集会・言論・信教の自由など「基本的人権」の思想に合致する諸概念の教授及び実践を図ることが内容として盛られていた。


これに続いて、次々と「指令」は出されてくる。「教員及び教育関係官の調査、除外、認可に関する件」「国家神道、神社に対する政府の保証、支援、保全、監督ならびに弘布の廃止に関する件」「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」である。


CI&Eの一連の指令が発令され、順次その措置が施されていくのを、日本側も座して見ていたわけではない。思えば、あの全面降伏、国土の焦土化の中、よくぞと思われるほど、日本政府も機敏で抜け目のない動きを示していることに驚かされる(やはり、今の政府に比べると、よきにつけ悪しきにつけ、あの政府は有能で外交能力もあったということだろうか)。


多く“臣民”が家を焼き出され、赤貧の中をさまよっていた自分、この国で役人だけは元気で、頭も働いたということなのか。



■“抵抗勢力”手練の早わざ


その手始めが、9月15日、占領軍の先回りをするかのように発表した「新日本建設の方針」である。前田多門・文相を中心に起草されたもので、「軍国的思想及ビ施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目処トシテ謙虚反省只官国民ノ修養ヲ教養ヲ深メ科学的思考力ヲ養ヒ平和愛好ノ念ヲ篤クシ智徳ノ一般水準ヲ昂メテ世界ノ進運ニ貢献スルモノタラシメン」などと言って、殊勝にも平和を礼賛し、新しい改革の理念を鼓吹している。しかし、一方では、あの一月前の田中・前文相による「国体護持」に依然として固執しているのである。


次に、いわゆる「墨塗り教科書」だ。戦時下に使っていた教科書の中で、占領下では不穏視され占領軍に目をつけられると思われる箇所を、児童・生徒に命じて墨を用いて消させたのである。とがめられる前に自主規制しようというねらいで、今で言えば、“映倫”や“ビデ倫”のような発想だろう。


これは、9月20日に文部省が通達した「終戦に伴う教科用図書取扱方に関する件」によっている。これなど、日本側が先手を打って占領軍による“改革”をなし崩しにするものではないのかと、CI&Eも疑念を抱いたという。


そして、第三が、「公民科」創設への策動である。文部省内では、9月にはそのための調査に着手し、10月には早速「公民教育刷新委員会」の設置を見ている。これはさらに継続され、翌'46(昭和21)年10月には、「公民教師用書」が発行された。主眼は、科学的方法に基づく道徳的判断力の養成であり、戦前教育の反省として「教育勅語」は教材表から削除された。

これらに見る限り、日本側の自主改革の中にも、当然限界はありながら、今日の視点から見ても一定の評価に値すると思われるものが散見されるのである。


 《今回は、ここまで》

■それは暑い日に始まった


不敗神話の“神州”日本は敗れた。1945(昭和20)年8月15日、この日を境に、明治維新以来累々と築いたこの国の価値の体系が音を立てて崩れ始める。それでも、いつの世も旧体系を固守したいと願う勢力がある。最近の流行語を当てれば、「抵抗勢力」ということになろうか(もっとも、あの言葉の使われ方は全く不正確で当てにならないものだったが)。あの時の、文部省もそうだった。


「玉音放送」と呼ばれる終戦の詔勅がラジオ電波に乗って(当時、テレビ電波はなかった)全国を駆けたその暑い夏の日、文部省はいち早く大田耕造文相による「各位深ク此ノ大詔ノ聖旨ヲ体セ奉リ国体護持ノ一念ニ徹し……教学を荊棘ノ裡ニ再建」せよとの訓令を流した。

国民に大使、あくまで国体護持を貫徹させようとするこの姿勢は、この後、9月15日発表の「新日本建設の教育方針」でも再び示される。


その玉音放送から半月経て、マッカーサーがやってくる。あのコーンパイプを加えたサングラスの奴だ。神奈川県の厚木飛行場に降り立った。米海軍の戦艦・ミズーリ艦上での降伏文書調印を5日後にした8月28日、すでに、連合軍は日本本土に進駐を開始している。

“金甌無欠”*大日本帝国の国土を、外国の軍隊の軍靴が踏み鳴らしたのである。いよいよ、本格的な占領の開始なのだ。


*金甌無欠(きんおうむけつ):国家が強固で外国の侵略や侮りを受けずに尊厳を保っていること。


■「教育改革」の指令者


9月22日、アメリカ太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)にCI&E(民間情報教育局)が設置され、ダイク大佐が局長に就任した。続いて10月2日には、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が設立され、この司令部内にもCI&Eが設置されるのである。そして、主力はこちらに移るものの、前者も依然として存続する。以後、このCI&Eが、占領政策遂行の上で教育に関する事項を担当していくこととなる。


占領軍は日本国民に対して直接命令を発することなく、命令は一括して最高司令部が日本政府に対してなし、日本政府がその責任において命令の施行を代行するという間接統治がとられた。


10月11日、新任の幣原喜重郎・首相に対して、マッカーサーが発したいわゆる5大指令の中に、「婦人解放」「労働組合結成奨励」「秘密審問司法制度撤廃」「経済機構民主化」と並んで、「教育の民主化」はあった。そして、これを受けてCI&Eが10月から12月にかけて発したのが「教育の4大指令」である。


そして、10月22日、その第1の指令「日本教育制度に対する管理政策」が早くも発せられるのである。


 《今回は、ここまで》

■これまでのまとめ


●教育委員会は、行政庁(財務大臣も、国土交通大臣も、都知事も、県知事も、市町村長も、税務署長も、警察署長もみな行政庁)である。
●教育委員会は、「地方自治法」「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(「地教行法」)といった法律に基づき設置されている。
●教育委員会は合議制の行政庁である。普通5名(3名の場合もあり)の委員で構成される。
●このような形の行政庁を、行政委員会という(他に、選挙管理委員会、人事委員会、労働委員会なども行政委員会)。
●教育委員会は、一般行政からは相対的に独立
というタテマエになっている。
●教育委員会には、「学校その他の教育機関の設置、管理およびや廃止に関すること」ほか19項目の職務が法律(地教行法)で定められている。
●教育委員は、地方公共団体(自治体)の長が、議会の同意を得て任命する。任期は4年である。
●教育委員会の委員は非常勤で、他に職業を持つ教育行政の素人である。そこで、教育長というプロがついて助言や支援を行う。また、事務局も設けられる。教育委員会(狭義)にこの教育長、事務局を加えたものが広義の教育委員会である。
●教育委員の中から、互選で教育委員長が選ばれ、その任期は1年である。
●教育委員に選ばれるためには、その自治体の長の被選挙権を持つ人であることなどいくつかの資格要件がある。破産者で復権をしていない人や禁固以上の刑に処せられた人は教育委員となることができない。
●教育委員はいくつかの事由で解職されることがある。また、住民が解職請求(リコール)する制度もある。



以上、基本を一通り押さえれば、教育委員会の概要がつかめる。次回から、いよいよ本題に入りたい。



 《今回は、ここまで》