■公選制教育委員会の早すぎた死
紆余曲折の末に誕生した教育委員会であるが、その足もとはのっけから頼りなかった。「民主主義」「自治」、こんな観念とは昨日まで全くかけ離れたところで生活してきた日本国民の前に、突如現れたこの制度が根付いていくには大きな壁があった。事実、施行後早々に教育委員会法は何度となく改定を繰り返し、そのたびに各方面からの批判が百出した。
そして、さまざまな政治勢力の角逐の中で、1956(昭和31)年6月、警官隊が取り巻く物騒な国会で、新法「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」がついに可決され成立する。これにより、「教育委員会法」は効力をなくし、大きな成果を見ないまま、それが改革の主眼であった公選制の教育委員会は終わりを告げる。そして、新法の下での任命制の教育委員会へと全く本質の異なるものに変わってしまった。発足から、わずか8年後のことであった。
■早速始まる「公選制」廃滅の動き
歴史も、社会構造も大きく異なり、教育行政制度の成り立ちがそもそもアメリカとは根本的に違うこの国で、敗戦により地方分権の思想が芽生えつつあったとはいえ、教育委員会制度確立の気運はなかなか起こらなかった。都道府県や一部の大都市で実施され始めたものの、自分たちの住む町や村にまで「教育委員会」を作ろうという趨勢にはなかなか結びつかなかったのである。
レイマン・コントロール*によるこの制度を成功させるためには、その協力者たるプロの教育長が必要となる。当初、文部省はIFEL(アイフェル)と呼ばれる指導者講座を開催し、免許状も発行していた。そして、教育長はこの免許状を持つ者からのみ選任していたこともあり、人材はいつも不足していた。
こうしたことから、文部省は、市町村教育委員会の義務設置は時期尚早であるとして、'50(昭和25)年に定められていた義務設置を早くもその年の法改定により、'52(昭和27)年まで延期してしまう。そして、同じ年の12月、文部省は諮問機関として「教育委員会制度協議会」(前田多門委員長)を設置する。
内閣の地方行政調整委員会は、やはり、この12月、地方制度の改善策の第一次勧告を政府に提出する。そこで教育委員会制度に触れ、「市町村教育委員会は、市は必置とし、町村は任意とするが、相当規模の組合を設けるなどの方法により設置することが望ましい。教育委員会を設置しない町村については、教職員の任免その他の人事、教科内容およびその取り扱い、教科書の選択などに関する事務は、府県教育委員会がこれを行なうこととする。この場合には、町村に反映する方途を講ずるものとする」としている。
'51(昭和26)年9月には、第二次勧告が出る。そこで、「教育委員会の委員は、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命するものとする」とされ、せっかく発足した公選制委員会制度を放棄し、今日の任命制に転換する方針がここに早くも表われた。
*レイマン・コントロール:レイマン(layman)とは「素人」の意味。レイマン・コントロールは素人による統制だが、日本の教育委員会制度のモデルとなったアメリカの“Boad of Education”はこのレイマン・コントロールが基本であり、あえて教育行政の素人に教育行政を担わせることを趣旨としている。
■望まれざる子
このように地方行政調査委員会は町村教育委員会の設置につき「任意」としていたが、教育委員会制度協議会は市町村すべてにわたり任意設置との結論を出した。市町村教育委員会は、スタートからつまづくことになった。
'51(昭和26)年11月になると、政令改正諮問委員会も、教育委員会の制度改定について一つの見解を示す。それは「教育制度改革に関する答申」の中に現れているもので、教育委員会を置くのは都道府県と人口15万程度以上の市とし、委員は任命制(地方公共団体の長が議会の同意を得て任命)とし、教育委員会に不法行為があった場合の文相の是正措置なども提言している。
今から思うと、本当に教育委員会は“望まれなかった子”という感がある。そして、生まれてしまった以上は、何とかして骨を抜こうという力がもうすでに発足間もなくこうして働いているのである。
■喜びの市町村
その他に、市町村教育委員会の前面設置を困難としているものとして、“先立つもの”つまり、財政上の問題もあった。戦後、華々しい掛け声のもと、6・3・3制がスタートし“教育再生”の途につきはしたものの、敗戦国日本の台所は火の車、貧困そのものであった。
新制中学校発足の年である'47(昭和22)年など、中学の教室数は在籍生徒数の実に半分に当たる159人分も不足していた。そのため、小学校に“間借り”して授業を行なったりした。このあおりで、小学校もまた教室不足に悩まされ、「青空教室」「納屋教室」「馬小屋教室」が各地に出現した。そのうえ、二部授業、三部授業を行なってしのがざるを得ないような悲惨な状況だったのである。
そして、この窮状は、2年目、3年目となっても、いっこうに改善の兆しはなかった。その上、'49(昭和24)年の「ドッジ・ライン」*による超緊縮予算は、教育費の圧迫にいっそう拍車をかけるのである。そんな中で、教育委員会設置費として23億200万円、事務局経費36億8800万円、合計60億と試算されるその金額は、当時としては実に苦しいものであった。
文部省内では、こうしたことから義務設置のさらなる延期の意見が強まり、その方針は'52(昭和27)年5月の閣議で了承される。そして、前年12月から開会されていた第13通常国会に教育委員会改正案と教育委員選挙期日等の臨時特例法案を上程することを決めたのである。
しかし、こうして教育委員会設置がもたついているのを一番喜んでいたのは、他でもない当の市町村であったかもしれない。設置順延の文部省案には諸市町村がもろ手を上げて賛成した。これより先の3月、全国市町村長会は緊急全国町村長会を開き、「地方教育委員会は地方の特質と分離し、文部省と連なる機関となり、地方行政の総合性は破壊される」との決議を行なっていた。市町村の行政当局からすれば、もともと教育委員会など邪魔者だった。
*ドッジライン(Dodge line):1949(昭和24)年、GHQによって遂行された財政金融引き締め政策。その立案者であるGHQ最高財政顧問、ドッジ(J. M. Dodge 1890-1964)の名に因みこう呼ばれる。
《今回は、ここまで》