■もう一つの終戦‐教育委員会の変節


戦前、国家の統制下に置かれ、超国家主義・軍国主義の一翼を担わされた教育を排し、新憲法の精神に基づく“個人の尊厳”に立った“民主的”な教育の確立を目ざすため、その役割を期待されて誕生した教育委員会制度。と、こういう建て前になっていたはず。思えば、不幸な命運を背負わされた制度であった。


本来、教育のための制度であるにもかかわらず、否、教育のための制度であるからこそ、絶えず政治の抗争の只中に引き据えられ、揉みしだかれてきた。

折りしも、国の外にあっては東西冷戦構造の形成、内にあっては保革対立という時代の激流に呑まれ、理想の地点からははるか彼方へと連れ去られた。左右政治勢力の繰り返される激突の中で、ついに変節せずにはいなかった。


この国が、「政治の季節」から「経済の季節」に移り変わろうとするとき、保守勢力の激しい巻き返しは最高潮に達していた。敗戦により、不本意にも手放していたものをことごとく奪い返そうと勇んでいたかのようだ。政治勢力にとって、自らの支配力の最大の拠り所ともいえる教育行政を奪われては、“いくさ”はできなかったのかもしれない。


1948(昭和23)年の公選制教育委員会の誕生は、彼らにとって、まさに権力奪還をかけての新たな戦争の開始を意味するものであったのか。そして、8年の闘いに勝利したとき、初めて彼らに“戦後”が訪れたのであろうか。


一方、文部省。これは、教育改革が“戦後民主化”の嚆矢となるや、次々と学者大臣を押し立ててカラフルな装いで表舞台に躍り出てきた。内務省など戦前の日本を牛耳った他の省庁が滅び行くのを尻目に、自らの戦争責任には頬かぶりをした形で、占領軍の後見の下、真の思惑とは異なりながらも、とにかく改革主体の一角を占めていく。そして、文部省解体論さえ噴出する中、とにもかくにも文部省は残った。


しかし、自らも担った改革の過程で、掌中の権限は一つ一つ失い、知らぬ間にやせ細っていたともいえる。この'56(昭和31)年の保守派の勝利は、文部省にもまた“戦後”をもたらしたのかもしれない。


そして、大勢の警官隊に守られながら、国会史上に残る“選良”たちの乱闘、罵声という醜態の中で成立した「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」は、その後半世紀を経た今日なお生き続け、教育行政の拠るところとなっている。



 《「教育委員会」の変節まで》 完

■決戦の終幕


緊迫の中、ついにあの日を迎える。


会期切れに一縷の望みをかける社会党は、松野鶴平参院議長の本会議場入場阻止に始まり、不信任案の連発、牛歩、フィリバスター*と、あらん限りの戦術を必死に繰り出す。議場は混乱と怒号に満ち満ちる。1956(昭和31)年6月21日払暁、たまりかねた松野議長は500人の警官隊の院内出動を要請する。ついに、制服の警官隊が“良識の府”の本会議場に入場するという、あきれた事態に立ち至ったのである。


警官隊出動後は、自民党が俄然優勢となる。芥川事務総長不信任案、加賀山文教委員長解任決議案、いずれも否決。休憩後、社会党が松野議長不信任案の先議を主張するもこれを斥け、新教育委員会法案の中間報告を自民党は求める。この間、社会党は議席で怒声を発したり、議長席に時おり詰め寄ったり、投票となると牛歩戦術を繰り返すなど、抵抗を続ける。


午後4時半、本会議が再開されると早速、衛視たちに守られた加賀山文教委員長が、妨害をはねのけ演壇に着くや、直ちに中間報告を済ませた。続いて、質疑に入る。加賀山委員長の答弁の後、自民党からの質疑打ち切り動議を可決する。

続いて、同じく自民党からの「新教委法を日程に追加して、本会議で審議する」の動議が出され、記名投票の結果これまた可決する。


この頃、鳩山一郎首相が議場に入場し、自民党からは拍手を、社会党からは罵声を浴びる。

6時半、今度は社会党から出された「夕食のため休憩せよ」の動議は、記名投票により否決される。


こうして、議事は、一気呵成に終局へ向っていった。



*フィリバスター (filibuster):議事妨害のこと。議会で不必要なまでの長時間の演説や動議の連発などをするなど、合法的に認められた手段を用いて議事の進行を妨げる戦術。多数派が強行採決を企てたりする際、少数派が抵抗手段として用いたりする。




■公選教育委員会死す


雨もよいの空の下、国会議事堂が宵闇に包まれるころ、周囲をさまざまな顔ぶれが取り巻いていた。ウチワ太鼓で練り歩く社会党支持の日蓮宗信者たち、日教組、都教組、全教委、全地教の面々。そして、それを相変わらず、数百人の警官がものものしく見据えていた。


いよいよ法案の質疑に入り、首相、清瀬文相のほか、太田自治庁長官も答弁に立った。やがてまた、自民党よりの質疑打ち切り動議が可決される。社会党は、この採決にも、牛歩と立ち止まりで、あくまで抵抗の意志を示す。


続く討論では、矢嶋三義(社会)反対、吉田万次(自民)賛成、秋山長造(社会)反対、高橋道男(緑風会)賛成の発言があり、9時半、採決のために記名投票が始まる。その結果、賛成143、反対69で、「新教育委員会法」は成立した。


このとき、グロッキーになった羽仁五郎議員(無所属クラブ)が共産党の須藤五郎議員に助けられ投票する光景もあった。本会議が散会したのは、9時46分のことであった。


かくして成立した新教育委員会法こと「地方教育行政の組織と運営に関する法律」(地教行法)は6月30日に施行され、その年10月1日には全国いっせいに任命制の教育委員会が発足したのである。



 《今回は、ここまで》


■「暁の国会」へ


公聴会の後、社会党は審議拒否の強行戦術に打って出る。このとき、衆院文教委員会の委員長は、社会党の佐藤観次郎であった。「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(新教育委員会法)の法案審議は遅々として進まず、また、委員会室も社会党議員に 占拠され、清瀬文相は入室さえできずに、国会図書館で読書三昧の日々に明け暮れることもあった。


こうしたことが、自民党に激しい焦燥感を募らせた。ついに、自民党は事態の強引な打開に踏み切っていく。1956(昭和31)年4月17日の衆院本会議に、19日の本会議での文教委員長の中間報告を求む、との動議を提出。野党の反対を押し切って、これを成立させた。

これに対し、社会党は19日の国会で清瀬文相の不信任案をもって対抗する。時間引き伸ばしの演説をぶとうとする同党の高津議員が演壇で卒倒するというハプニングまであった。会議はついに夜を徹し、「暁の国会」となった。


新教育委員会法案が上程された頃から波乱を呼んでいた衆議院も、いよいよ最終局面を迎える。4月20日、この日も未明から議院運営委員会その他で、自民・社会両党による二転、三点の攻防が繰り広げられた。そして、夜の本会議、佐藤文教委員長の中間報告がついに行なわれた後、「直ちに新教育委員会法案を本会議に上程すべし」との動議を自民党が提出、これが可決された。



■衆院は自民のゴリ押し勝ち


そこで問題の発端は、益谷秀次・衆院議長が、佐藤文教委員長の中間報告の後、「委員長報告はただ今お聞きのとおり」と宣告し、質疑には触れることなく直ちに討論に入ったことであった。


これに対し、社会党側から早速異議が出された。今の先刻の中にある委員長報告とはあくまで「中間報告」であり、一般の委員長報告とは違うものであること。そして、議題に供した同法案は一般の議事手続きに従って討論の前に質疑を行なわせるべきだ、というものである。


議長は討論終了後、先の宣告を取り消したが、収まらないのは社会党である。「取り消しは自らの誤りを認めたことであるから、当然、議事は討論前の状態に戻すべきだった」とたたみかける。そして、その無効を主張し、ついに全員採決には加わらなかった。


社会党議員棄権のまま、自民党議員の賛成220票でようやく衆院を通過、以後攻防の舞台を参院に移すこととなった。


「中間報告」された法案を直ちに本会議で議題とする例は衆院にはなく、参院において2回だけあるというかなり異例な扱いであった。そして、なおも社会党はこの採決を無効として糾弾するが、事態は動かなかった。この間、106条にわたる全条文のうち、逐条審議されたのは、わずか7ヵ条であった。


そういうことがあった翌日、東京都教育委員会の松沢一鶴委員長始め、6名の委員が辞表を提出している。



■天王山へと駒は進む


法案が参議員に送付されてからも、ほうぼうで反対運動は勢いを増した。5月2日、日教組が725万人の法案反対署名簿をトラックで国会に持ち込んだのを皮切りに、日教組第14定期大会での法案阻止決議(10日~14日)、全学連法案反対スト(16日)、全教育委員会・全地教委・日教組による三宅坂での雨中の座り込み(23日)と、めまぐるしい動きが展開していく。都教組も連日三割動員を始めた。そして、一方、院内では公聴会も開かれていたのだ。


その5月下旬、自民党内部に内輪もめがあった。新教育委員会法案と小選挙区法案のいずれを優先させるかをめぐってのものだった。衆院議員の大勢は「小選挙区」、対する参院議員たちは「新教育委員会法案」、互いに主張を譲らなかった。ここで同党の参院議員たちが「小選挙区法案」の優先を嫌ったのは、この法案が次の参院選挙に及ぼす悪影響を案じてのことであった。文相の清瀬も、「新教委法案」優先に奔走する。そのかいあって、党議もようやくまとまった。


反対派の社会党は「あくまで阻止」を絶叫し、闘いはいよいよ“天王山”へと向っていく。



■“良識の府”で場内乱闘


5月11,12の両日にわたる文教委員会公聴会の後、24日まで続けられた審議はその後はかばかしく進展しなかった。社会党は、加賀山之雄・文教委員長(緑風会)の委員会室への入場を阻む戦術を取り始めたのである。


会期末まであと4日と迫った30日、業を煮やす自民党は「今や参院においても、院外の日教組を主軸とする労組のデモに呼応する社会党の計画的暴行と脅迫によりすでに1週間にわたり文教委員会は開会不能の状態におかれ、法案審議の国会機能は暴力のため完全に停止するに至った」と声明し、社会党を激しく非難する。


社会党も黙っていない。「与党両院議員総会が衛視の動員を決めてわが党を威嚇し、あたかも責任が社会党にあるかのごとき錯覚を国民に与えようとしていることは、笑止の限りである」と、同じ日にやはり党声明で反撃する。


与野党の互いの敵愾心は、翌31日、ついに爆発した。法案の中間報告をめぐって、両党乱れての乱闘に発展するのである。この乱闘で、衛視の中に重軽傷者6名を出した。世論や学識経験者は、いっせいに議員たちの暴力沙汰に激しい非難を浴びせた。



 《今回は、ここまで》

■学長たちも抵抗す


今日の教育行政の根幹をなす法律である「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の法案が登場してくる'56(昭和31)年の3月、その月の19日に、東京大学の学長室では、つめかけた記者団を前に「十大学長声明」が発表されようとしていた。


矢内原忠雄(東大)、安部能成(学習院大)、上原専禄(一橋大)、内田俊一(東京工大)、大内兵衛(法大)、大浜信泉(早大)、木下一雄(東京学芸大)、蝋山政道(お茶の水女子大)の各大学長・総長のほか、南原繁・東大前学長、務台理作・東京教育大前学長が声明に名を連ねた。


南原繁・東大前学長が読み上げる「声明」は、「教育は時の政治の動向によって左右されてはならず、教育の制度と方針は政争の外に置いて安定せしむるべきである」と始まる。


そして、
「もし、法制上改正を要する点があるならば、政府はそのことを適当な審議機関に諮問して十分に審議を尽くし、また、関係方面の専門的意見を徴し、世論に耳を傾け、慎重審議のうえ初めて法規の改正に着手し」として、制度改定を再考するよう訴えたものである。


これに呼応して、関西13大学の学長たちが、この「十大学長声明」の支持を表明する。滝川幸辰(京大)、正田建次郎(阪大)、末川博(立命館大)、恒藤恭(大阪市大)の各学長らによるものだ。

さらに続いて、全国76大学の学者607名も「学問の自由を守り、任命制教育委員会に反対する」と宣言する。


この法案―「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法)」の法案―作成に当たっては中央教育審議会(中教審)が一貫して“蚊帳(カヤ)の外”であったため、そのことを批判する「日本教育学会」の声明もあった。



■敵と味方でいよいよ騒然


すでに2月の第13回臨時大会で「反動文教政策反対」を決めていた日教組が、3月10日には決起集会を開いた。

この頃、社会党も辻原弘市・河野正両議員らにより、衆議院文教委員会で文相を追及したりしている。


続いて、3月29日、日教組、全国高校教組、全教組、全地教委など14団体からなる教育団体連絡協議会も、東京都中央区の昭和小学校で総決起大会を開く。


しかし、反面、教育委員会制度改正を応援する勢力もあった。知事、市町村長、地方議会議長など、地方自治体関係者600人が、4月9日、芝公会堂に結集し、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律をすみやかに成立させ、教育委員会を任命制にせよ」とアッピールした。


清瀬文相がくだんの法案趣旨説明を終えると、衆参両院はそれぞれ公聴会を開いた。衆院文教委員会には矢内原・東大総長も出席し、町村金吾*、稲葉修*ら自民党議員との間で議論の応酬も見られたが、認識の全く異なる両者は終始平行線であった。


*町村金吾:次男の町村信孝氏は衆議院議員・元外務大臣。
*
稲葉 修:中央大教授、衆院議員、後に法相となり、ロッキード事件の際活躍。


 《今回は、ここまで》


■「地教行法」姿を現わす


清瀬一郎文部大臣と事務当局は、地方教育委員会廃止にも、岸信介(安倍総理のじいさん)による妥協案にも反対であった。発足間もない地方教育委員会を廃止すれば朝令暮改のそしりを免れないであろうこと、また、それによって全国津々浦々にいたる文部行政のネットワークを失うというデメリットを心配してのことだったようだ。


そうした紛糾の中、1956(昭和31)年1月17日、自民党文教制度調査会により、とにかく「地教委制度改正要綱案」がまとまる。そして、それにそって、文部省の「改正試案」がまとまるのが、2月2日のことであった。これは3月6日の閣議で正式決定され「地方教育行政の組織及び運営に関する法律案」(新教育委員会法案)となる。


ここで始めて、今の教育委員会の根拠法規となっている、あの長たらしい舌を噛みそうな名の法律の案が登場するわけだ。そして、この法案は、早速、3月8日に第24通常国会に提出された。



■囚人の意見は聞かない


その8日、教育委員会制度改定反対の教育委員たちの声が高まる中で、清瀬は全国都道府県教育委員会協議会(全教委)の代表と会談する。その席上、「刑法を改正するのに、いちいち囚人の意見は聞かぬ」と放言して、相手を憤慨させるといった蛮勇までふるうのである。

蛇足ながら、ここで「刑法」とは「教育委員会法」「囚人」とは「教育委員」をそれぞれ比喩したものらしい。


この間には、市町村教育委員会の代表が衆院第一議員会館で全地教委総会を開き、「地教委の公選制と人事権を確保する」ために法案に絶対反対の方針を決定、全国2万5000の委員総辞職も辞さないとの構えを見せた。


そんなことも尻目に、清瀬は14日の衆院文教委員会で法案の趣旨説明を始めた。



■フヌケの教育委員会を作る


清瀬は、法案趣旨説明で、このように切り出す。


「第一に、地方公共団体における教育行政と一般行政の調和を進めるとともに、教育の政治的中立と教育行政の安定を確保することを目標とした。第二に、国、都道府県、市町村、一体としての教育行政制度を樹立しようということである」


「教育行政と一般行政の調和」、これは清瀬の口癖であったという。そして、「教育の政治的中立」を叫ぶ人たちの手によって、教育委員会はいや増しに政治の渦中に引きずり込まれた。


教育委員会の予算原案送付権を廃止すること。公立小・中学校の教員の人事権を都道府県教委に移すこと。市町村教委に対する文部省、都道府県教委の「積極的な指導的地位」を明確にすること。文相に「措置要求」の権限を付与すること。これらが、この新法案の目指すところであった。


これを見る限り、市町村教育委員会を完璧に国家権力の“統制下”あるいは“管理下”に置こうという目論見であろう。予算も自ら組めない人事権もない。そして、年がら年中、県や文部省が“上部団体”か“お目付け役”のようにして見張っては口を出し、これらに都合の悪いことはやめさせる。自主性を全く失った市町村教委の存続、形骸化を謀るもの以外の何ものにも見えない。



 《今回は、ここまで》

■“党の小遣い”清瀬一郎登壇


サンフランシスコ講和条約の批准をめぐり左右両派に分裂していた社会党が1955(昭和30)年10月に統一を果たすと、これを追うように翌月、保守合同により自由民主党が誕生する。ここに「55年体制」(私はかつて「ゴーゴー体制」と呼んでいた)の幕が開くのである。保革対立という政治的構図はいっそう鮮明になっていく。


そんな中、第三次鳩山内閣の文部大臣として登場してくるのが、清瀬一郎である。清瀬は、兵庫4区選出の衆議院議員。弁護士から政界入りし、1920(大正9)年以来衆院連続当選を果たしている戦前派の大物代議士だった。


戦前は議員活動と並行して、「京都学連事件」「3・15事件」など治安維持法関係の事件の弁護を担当したり、陪審法、普通選挙法の成立に尽力したりした。そして、あの悪名高い治安維持法制定には反対だった人物だ。'28(昭和3)年、普通選挙施行後初めての議会では衆院副議長を務めている。


満州事変後には国家主義への傾斜を見せ、'32(昭和7)年に国民同盟の幹事長に就任、その後、日独伊三国同盟の積極的な支持に回る。また、戦中は大政翼賛会総務として翼賛体制の推進者となり、陸軍省の国際法顧問も務めた。


敗戦後、公職を追われるが、その「公職」には極東軍事裁判(東京裁判)の弁護職は入っていなかったため、東条英機被告の主任弁護人として法廷に立ち、華々しく弁論を展開しては「大東亜共栄圏」の正当性を主張したりなどした。さらには、「勝者の裁き」を批判するなど、話題に事欠かない人物である。


やがて、公職追放を解除されると、'52(昭和27)年、衆議院議員に再び当選し、政界にカムバックしてくる。まもなく改進党幹事長の座に着き、憲法第9条の枠内で再軍備を可能とする「清瀬理論」を創案した人でもある。


その清瀬文相はほどなく、「政党政治である以上、政府は党の考えを実現するのが役目であり、文部行政を行なうに当たっても党意を尊重し、党の決議に従う。大臣は言ってみれば“党の小遣い”だ」と、記者会見でやってのける。



■教育委員会の骨抜き活発化


'55(昭和30)年12月、地方制度調査会は「地方財政の措置に関する答申」を鳩山一郎首相に出した。それは、'53(昭和28)年10月の第一次答申の趣旨を'56(昭和31)年度に実現すべきであるとの内容であった。その第一次答申の趣旨とは、5大市を除き地方教育委員会を廃止すること。委員を任命制とすること。予算原案送付権を廃止することなどである。ここに至って、教育委員会法改定の動きはまたにわかに加速されていく。


この答申を受け、一万田蔵相と大田自治庁長官の会談が開かれるが、財政上の問題を主な理由に、市町村教育委員会廃止の方向で意見がまとまった。一方で、自民党文教部会は、政調会に要望をぶつける。


その内容は、

1.市町村教育委員会を含めて教育委員会制度存続。
2.教育委員の選挙は間接選挙とす。
3.教育委員会に対する文部大臣の監督権強化。
といったものだった。


しかし、党内には市町村教育委員会の廃止論が根強く、結論には至らなかった。

文教族の旧自由党系代議士たちは、吉田内閣時代に地方教育委員会の全面設置強行の立場を貫いた手前、廃止そのものには賛成でなかった。そして、反対の理由として、市町村教育委員会の廃止によって地域への監督が弱まり、教員の政治活動・偏向教育が蔓延することへの危惧に加え、「保守系の強い市町村教育委員会を廃止すれば選挙上云々」がまたぞろ挙げられるのだった。


戦後教育改革の“高邁な理想”のもとに始まったはずの教育委員会制度は、一党一派の思惑や党利党略により、いいように蹂躙されていたと言ってよい。



■あっちの都合やこっちの都合


清瀬文相は、複雑な党内情勢をも慎重に顧慮しながら、めぐってきた正月休みも返上で、この問題に心を砕いたという。


年明けて、'56(昭和30)年1月7日、文相は自民党文教制度調査会との打ち合わせで、次のような文部省案を提示した。


1.都道府県、市町村とも教育委員の直接公選制を廃止し、都道府県教育委員は知事が都道府県議会の同意を得て、市町村教育委員は市町村長が市町村議会の同意を得て、それぞれ任命する。
2.教育長は現行どおり都道府県、市町村各教育委員会がそれぞれ任命するが、新たに、都道府県の場合は文部大臣の同意を、市町村長の場合は都道府県教育委員会の同意を得なければならないこととする。
3.現行制度で認められている教育委員会の予算原案送付権は廃止する。
4.市町村教育委員会の人事管理権は、都道府県教育委員会に委譲する。ただし、市町村教育委員会には人事に関する具申権を認める。
5.教育内容に関し、文部大臣が都道府県教育委員会に対して勧告し、また、都道府県教育委員会が市町村教育委員会に対して勧告する権限を新たに認める。
6.町村の場合は、人口によって教育委員会定数に弾力性を認める。


清瀬が示す文部省案は、地方教育委員会を存続させつつも、公選制から任命制への変換、教育長選任方式の変更により、文部省の実質的支配を高めるねらいのものだが、それでもなお、党内には地方教育委員会廃止に固執する旧民主党(今の「民主党」ではない)系勢力があり、これをもって直ちに意見の一致を見ることはなかった。


旧民主党の岸信介(安倍総理のおじいさん)幹事長は、双方をなだめるように、「地方教育委員会は残すにしても、教育長を廃止してはどうか」と、折衷案めいたことを言い出す。

あちらの都合、こちらの都合で、教育委員会制度はいじくり回されていくのである。



 《今回は、ここまで》


■キャッチフレーズは「政治的中立」


朝鮮戦争の勃発、日米講和条約による日本の独立、新たな社会主義国・中華人民共和国の国際社会への登場、教育委員会が誕生して以来わずかの年月に、この国を揺るがさずにはおかない世界的規模の大事件がいくつもあった。アメリカの対日政策も大きく変わった。


1950(昭和25)年に来日した第二次米国教育使節団が出した報告書では、あの第一次使節団報告書に見られた“高い格調”“教育の理想”は影をひそめ、日本を「反共の砦」にという、自国の世界戦略の一端を露骨にのぞかせていた。


その後、国内でも左右の政治勢力の対立はいよいよ熾烈となり、ことあるごとに教育は両勢力の間で綱引きされることになる。'54(昭和29)年には、「教育の政治的中立」をうたい文句に、教育二法、「義務教育諸学校における教育の政治的中立に関する臨時措置法」「教育公務員特例法一部改正法」が成立した。


「教育の政治的中立」、この頃、教育の支配権争奪に血道を上げる人たちの口からさかんに吐き出された言葉が、以後キャッチフレーズとなっていく。



■再び、地方が吼えた


'55(昭和30)年11月、日本民主党*文教制度調査会の特別委員会は、文教制度改正案をまとめる。「市町村教育委員会を廃止し、その権限は都道府県教育委員会および市町村に移し、都道府県教育委員会は公選制をやめ、知事が議会の同意を得て任命する」との考えがそこには示されている。いよいよ、公選制教育委員会を任命制のそれ(つまり、今日の制度)へと改変することに向けた動きが本格的に始動する前触れであった。


これより前、地方から教育委員会廃止の声が再び上がった。全国町村長会は、'54(昭和29)年7月と11月、二度にわたり声明を発している。


「教育委員会は地方行政機構において屋上屋を重ねるものが多く、その存在理由を発見するに苦しむ。教育委員会の権限は挙げて地方公共団体の首長に委譲し、さらに教育行政の民主的運用を保障する必要あらば諮問機関を置けば足りる。何を好んで窮迫した地方財政の下に無用の長物を温存し、義務教育の発展と共に生きた町村長の、教育に対する熱意を冷却しようとするか理解に苦しむ」


こんな地方の声は、制度改変をもくろむ保守陣営にとっては願ってもない追い風となったことであろう。それにしても、“無用の長物”とはすげない一言。こんな言葉で、教育委員会はかたづけられている。


一体、アメリカの“民主的”制度にならい教育行政の民衆統制(レイマン・コントロール)を期待された教育委員会制度であれば、基礎的な自治体でこそ始まるべき性質のものであったろうが、町村のこうした無理解のままに出発した現実は、制度の定着と発展にとってまことに厳しいものであった。



*日本民主党:現在ある「民主党」とは違います。ただ、鳩山由紀夫氏のおじい様(鳩山一郎)がいた政党です。そして、この日本民主党がこれまた最近あった小沢一郎さんの「自由党」とは関係のない当時の「自由党」(吉田茂がいた政党)と後に「保守合同」をして「自由民主党」となるのです。実にまぎらわしい。


 《今回は、ここまで》

■市町村教育委員会ついに全面設置へ


同じ年'51(昭和26)年の8月18日、来たる第14国会への法案再提出を政府は決めた。その間に、天野文相が辞任し、前田多門、安部能成、田中耕太郎、高橋誠一郎と戦後続いた学者文相の時代は終わりを告げた。


後任は、三和銀行頭取から自治庁長官になっていた岡野清豪だった。岡野文相はその後の談話で、二度にわたり、現行法のもとでは教育委員会を全面設置する決意であり、教育委員会返上運動に惑わされることなく、各地方公共団体が国法に遵い、良識をもって教育委員会の設置と運営に向って万全の準備を整え、法規執行の責任を果たされることを期待すると訴えている。


ところが、8月26日に国会が開会するや、わずか3日後、衆議院が突如解散されてしまう。これが世に言う吉田茂・首相の“抜き打ち解散”であった。追放解除で政界復帰を果たす鳩山一郎(今の「民主党」鳩山由紀夫さんのおじい様)と吉田の抗争が火種であったと言われる。


ともあれ、市町村教育委員会設置を延ばすための2法案の再提出は果たされず、自由党反対派議員らの望むところとなった。かくて、11月1日、市町村教育委員会は、全国いっせいに設置されることとなった。



■くすぶる返上論、戦術転換で勝利の日教組


都道府県教育委員の選挙は、9月10日公示となる。市教育委員は5日後の15日、町村教育委員は20日であった。


'48(昭和23)年、'50(昭和25)年と、すでに過去2回行なわれている都道府県教育委員選挙の実績を見ても、投票率はそれぞれ59.5%、52.8%にとどまっていた。まして、市町村教育委員選挙ともなれば一般の関心も低く、いっそうの低調を憂える文部省は、必死でPR活動を展開する。立候補者ゼロの村などには、文部省が立候補を働きかけるといった“倒錯”もあったという。


教育委員会の全面設置に反対だった全国市長会や町村長会、そして日教組からは「教育委員会返上論」が沸き上がった。山形市長が「市教委選挙はできない」と声明したり、鎌倉市議会が市教委設置を否決したりといったこともある。


財政不安もまた、返上論に拍車をかけた。自治庁が教育委員会設置費として要求していた39億800万円を、大蔵省が実に4分の1の10億円に削ってしまった。しかも、教育委員会の設置に当たって必要とされる「教育長」は、前述のとおり、当時は免許状を必要とした。そのため、その有資格者は必要数の10分の1に過ぎなかった。そこで、弥縫策として、無資格者に対し暫定資格が出されたりした。


こんな中、当初は強硬な設置反対論に立っていた日教組が、地方教育委員会“民主化”のための選挙闘争へと戦術を転換している。選挙運動を推進するため、8月には「日本教職員政治連盟(日政連)」を発足させた。


この選挙によって、日政連は都道府県・5大市に70名の推薦候補を当選させる。市町村でも教職経験者が21%を占め、その多くが教組の推薦によるものだった。かくて、日教組は、ここにまた大きく躍進を見るのである。


そして、実施された市町村教育委員選挙の投票率は、61.1%であった。



 《今回は、ここまで》


■教育委員会の“ナイト”出現?


そうしたわけで、あちらからもこちらからも邪魔にされる教育委員会だったが、その市町村教育委員会設置のために、思いがけない勢力が奔走する。「自由党」*の文教族である。この頃、“選挙に強い日教組”が、あたかも保守政党にとって脅威となりつつあったのである。日教組は第1回目の教育委員会選挙のみならず、'52(昭和27)年6月の参議院選挙でも際立った強さを見せつけ、周囲を驚かせた。当時、衆参両院、地方議会、教育委員会を含めると、日教組出身の議員、委員は全国で3,000人を超えると言われた。

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51(昭和26)年10月のある夜、円谷文教部長始め自由党の文教関係議員たちが、東京は上野の精養軒に集い、額を寄せ合っては日教組対策を協議したという逸話がある。そこで出された円谷構想による“日教組分断作戦”の一環として、市町村教育委員会の前面設置貫徹が踊りだして来る。


第13国会の議事に上った市町村教育委員会設置を延ばすための2法案は、参議員先議で可決された。が、衆議院では、文教部会において自由党委員の反対により否決となってしまうのである。


これを文部省同様、不安の面持ちで見守っていたのは市町村関係者であった。全国市長会は、7月16日の緊急集会で「地方教育委員会設置を日教組の政治的活動を憂慮するのあまり強行せんとの気運にあるのは、教育行政の合理的運営から見て憂慮にたえない。強制設置は一時期延期し、教育の現実に即して適切妥当の方針を決定してほしい」と決議した。


政府が現実的要請から設置延期、与党がある政治的思惑から強行、そして、地方はまた別の意図により文部省に同調、見るも珍奇な現象となった。異文化の中から移植され急造された制度をめぐって、各層がそれぞれの利害で右往左往する。その混迷ぶりが、見事なまでに表われていた。


*自由党:つい最近「民主党」と合併したあの小沢一郎さんの「自由党」とは全く関係ありません。往時の首相・吉田茂などを擁した「自由党」。そして、「自由民主党」の前身でもある「自由党」です(ほんとうにややこしい)。




■日教組の必死の応戦


これに最も切迫した危機感を抱いたのは、与党文教族に正面から標的とされた日教組であろう。市町村教育委員会の設置が強行されれば、教育公務員特例法や地方公務員法の規定により既存の各県教祖を、市長を単位の組織とする連合体に改組する必要が早速生じてしまう。


また、そうなれば、以後は直接の交渉相手が市町村教育委員会となる。加えて、従来、県単位の選挙戦で優位を保てた日教組も、町や村の選挙となれば、保守系の地域ボスの台頭に脅かされること必定である。その上、そういう勢力がその後は“お目付け役”となって圧力をかけてくるというのも予想に難くない。不安な材料ばかりだ。組織にとって、この問題は焦眉の急だった。


そうした中、今村副委員長ら6名が、参議員前でハンガーストを開始する。「市町村教育委員会設置反対」のタスキをかけた6名がテントの中に座り込んだ。そして、日教組抗議団の宣伝スピーカーは、「政府・自由党は市町村教育委員会の設置を強行し、日教組の組織を分断しようとしている」と、がなり立てた。


周りを取り巻く、数百人の警官隊。スト開始後3日目の6月28日夜、警官隊の実力行使を前に日教組はストを中止する。「政府自由党の横暴と対決する」との声明を残し、本部へと引き上げていった。


この後、7月24日には、東京の日比谷公園で「教育防衛大会」が開かれる。総評、知事会、市長会、PTAなどから、3,000人が参集した。

そんな不穏な空気の中、7月31日に国会は閉会し、2法案は審議未了となる。自由党は翌8月1日、「わが党は次期国会において本制度の改正につき地方の実情に即するよう適当な措置を講ずる方針である」との声明を発した。


 《今回は、ここまで》

■公選制教育委員会の早すぎた死


紆余曲折の末に誕生した教育委員会であるが、その足もとはのっけから頼りなかった。「民主主義」「自治」、こんな観念とは昨日まで全くかけ離れたところで生活してきた日本国民の前に、突如現れたこの制度が根付いていくには大きな壁があった。事実、施行後早々に教育委員会法は何度となく改定を繰り返し、そのたびに各方面からの批判が百出した。


そして、さまざまな政治勢力の角逐の中で、1956(昭和31)年6月、警官隊が取り巻く物騒な国会で、新法「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」がついに可決され成立する。これにより、「教育委員会法」は効力をなくし、大きな成果を見ないまま、それが改革の主眼であった公選制の教育委員会は終わりを告げる。そして、新法の下での任命制の教育委員会へと全く本質の異なるものに変わってしまった。発足から、わずか8年後のことであった。



■早速始まる「公選制」廃滅の動き


歴史も、社会構造も大きく異なり、教育行政制度の成り立ちがそもそもアメリカとは根本的に違うこの国で、敗戦により地方分権の思想が芽生えつつあったとはいえ、教育委員会制度確立の気運はなかなか起こらなかった。都道府県や一部の大都市で実施され始めたものの、自分たちの住む町や村にまで「教育委員会」を作ろうという趨勢にはなかなか結びつかなかったのである。


レイマン・コントロール*によるこの制度を成功させるためには、その協力者たるプロの教育長が必要となる。当初、文部省はIFEL(アイフェル)と呼ばれる指導者講座を開催し、免許状も発行していた。そして、教育長はこの免許状を持つ者からのみ選任していたこともあり、人材はいつも不足していた。


こうしたことから、文部省は、市町村教育委員会の義務設置は時期尚早であるとして、'50(昭和25)年に定められていた義務設置を早くもその年の法改定により、'52(昭和27)年まで延期してしまう。そして、同じ年の12月、文部省は諮問機関として「教育委員会制度協議会」(前田多門委員長)を設置する。


内閣の地方行政調整委員会は、やはり、この12月、地方制度の改善策の第一次勧告を政府に提出する。そこで教育委員会制度に触れ、「市町村教育委員会は、市は必置とし、町村は任意とするが、相当規模の組合を設けるなどの方法により設置することが望ましい。教育委員会を設置しない町村については、教職員の任免その他の人事、教科内容およびその取り扱い、教科書の選択などに関する事務は、府県教育委員会がこれを行なうこととする。この場合には、町村に反映する方途を講ずるものとする」としている。


'51(昭和26)年9月には、第二次勧告が出る。そこで、「教育委員会の委員は、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命するものとする」とされ、せっかく発足した公選制委員会制度を放棄し、今日の任命制に転換する方針がここに早くも表われた。


*レイマン・コントロール:レイマン(layman)とは「素人」の意味。レイマン・コントロールは素人による統制だが、日本の教育委員会制度のモデルとなったアメリカの“Boad of Education”はこのレイマン・コントロールが基本であり、あえて教育行政の素人に教育行政を担わせることを趣旨としている。



■望まれざる子


このように地方行政調査委員会は町村教育委員会の設置につき「任意」としていたが、教育委員会制度協議会は市町村すべてにわたり任意設置との結論を出した。市町村教育委員会は、スタートからつまづくことになった。


'51(昭和26)年11月になると、政令改正諮問委員会も、教育委員会の制度改定について一つの見解を示す。それは「教育制度改革に関する答申」の中に現れているもので、教育委員会を置くのは都道府県と人口15万程度以上の市とし、委員は任命制(地方公共団体の長が議会の同意を得て任命)とし、教育委員会に不法行為があった場合の文相の是正措置なども提言している。

今から思うと、本当に教育委員会は“望まれなかった子”という感がある。そして、生まれてしまった以上は、何とかして骨を抜こうという力がもうすでに発足間もなくこうして働いているのである。



■喜びの市町村


その他に、市町村教育委員会の前面設置を困難としているものとして、“先立つもの”つまり、財政上の問題もあった。戦後、華々しい掛け声のもと、6・3・3制がスタートし“教育再生”の途につきはしたものの、敗戦国日本の台所は火の車、貧困そのものであった。


新制中学校発足の年である'47(昭和22)年など、中学の教室数は在籍生徒数の実に半分に当たる159人分も不足していた。そのため、小学校に“間借り”して授業を行なったりした。このあおりで、小学校もまた教室不足に悩まされ、「青空教室」「納屋教室」「馬小屋教室」が各地に出現した。そのうえ、二部授業、三部授業を行なってしのがざるを得ないような悲惨な状況だったのである。


そして、この窮状は、2年目、3年目となっても、いっこうに改善の兆しはなかった。その上、'49(昭和24)年の「ドッジ・ライン」*による超緊縮予算は、教育費の圧迫にいっそう拍車をかけるのである。そんな中で、教育委員会設置費として23億200万円、事務局経費36億8800万円、合計60億と試算されるその金額は、当時としては実に苦しいものであった。


文部省内では、こうしたことから義務設置のさらなる延期の意見が強まり、その方針は'52(昭和27)年5月の閣議で了承される。そして、前年12月から開会されていた第13通常国会に教育委員会改正案と教育委員選挙期日等の臨時特例法案を上程することを決めたのである。


しかし、こうして教育委員会設置がもたついているのを一番喜んでいたのは、他でもない当の市町村であったかもしれない。設置順延の文部省案には諸市町村がもろ手を上げて賛成した。これより先の3月、全国市町村長会は緊急全国町村長会を開き、「地方教育委員会は地方の特質と分離し、文部省と連なる機関となり、地方行政の総合性は破壊される」との決議を行なっていた。市町村の行政当局からすれば、もともと教育委員会など邪魔者だった。

*ドッジライン(Dodge line):1949(昭和24)年、GHQによって遂行された財政金融引き締め政策。その立案者であるGHQ最高財政顧問、ドッジ(J. M. Dodge 1890-1964)の名に因みこう呼ばれる。



 《今回は、ここまで》