■教育委員会の“ナイト”出現?


そうしたわけで、あちらからもこちらからも邪魔にされる教育委員会だったが、その市町村教育委員会設置のために、思いがけない勢力が奔走する。「自由党」*の文教族である。この頃、“選挙に強い日教組”が、あたかも保守政党にとって脅威となりつつあったのである。日教組は第1回目の教育委員会選挙のみならず、'52(昭和27)年6月の参議院選挙でも際立った強さを見せつけ、周囲を驚かせた。当時、衆参両院、地方議会、教育委員会を含めると、日教組出身の議員、委員は全国で3,000人を超えると言われた。

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51(昭和26)年10月のある夜、円谷文教部長始め自由党の文教関係議員たちが、東京は上野の精養軒に集い、額を寄せ合っては日教組対策を協議したという逸話がある。そこで出された円谷構想による“日教組分断作戦”の一環として、市町村教育委員会の前面設置貫徹が踊りだして来る。


第13国会の議事に上った市町村教育委員会設置を延ばすための2法案は、参議員先議で可決された。が、衆議院では、文教部会において自由党委員の反対により否決となってしまうのである。


これを文部省同様、不安の面持ちで見守っていたのは市町村関係者であった。全国市長会は、7月16日の緊急集会で「地方教育委員会設置を日教組の政治的活動を憂慮するのあまり強行せんとの気運にあるのは、教育行政の合理的運営から見て憂慮にたえない。強制設置は一時期延期し、教育の現実に即して適切妥当の方針を決定してほしい」と決議した。


政府が現実的要請から設置延期、与党がある政治的思惑から強行、そして、地方はまた別の意図により文部省に同調、見るも珍奇な現象となった。異文化の中から移植され急造された制度をめぐって、各層がそれぞれの利害で右往左往する。その混迷ぶりが、見事なまでに表われていた。


*自由党:つい最近「民主党」と合併したあの小沢一郎さんの「自由党」とは全く関係ありません。往時の首相・吉田茂などを擁した「自由党」。そして、「自由民主党」の前身でもある「自由党」です(ほんとうにややこしい)。




■日教組の必死の応戦


これに最も切迫した危機感を抱いたのは、与党文教族に正面から標的とされた日教組であろう。市町村教育委員会の設置が強行されれば、教育公務員特例法や地方公務員法の規定により既存の各県教祖を、市長を単位の組織とする連合体に改組する必要が早速生じてしまう。


また、そうなれば、以後は直接の交渉相手が市町村教育委員会となる。加えて、従来、県単位の選挙戦で優位を保てた日教組も、町や村の選挙となれば、保守系の地域ボスの台頭に脅かされること必定である。その上、そういう勢力がその後は“お目付け役”となって圧力をかけてくるというのも予想に難くない。不安な材料ばかりだ。組織にとって、この問題は焦眉の急だった。


そうした中、今村副委員長ら6名が、参議員前でハンガーストを開始する。「市町村教育委員会設置反対」のタスキをかけた6名がテントの中に座り込んだ。そして、日教組抗議団の宣伝スピーカーは、「政府・自由党は市町村教育委員会の設置を強行し、日教組の組織を分断しようとしている」と、がなり立てた。


周りを取り巻く、数百人の警官隊。スト開始後3日目の6月28日夜、警官隊の実力行使を前に日教組はストを中止する。「政府自由党の横暴と対決する」との声明を残し、本部へと引き上げていった。


この後、7月24日には、東京の日比谷公園で「教育防衛大会」が開かれる。総評、知事会、市長会、PTAなどから、3,000人が参集した。

そんな不穏な空気の中、7月31日に国会は閉会し、2法案は審議未了となる。自由党は翌8月1日、「わが党は次期国会において本制度の改正につき地方の実情に即するよう適当な措置を講ずる方針である」との声明を発した。


 《今回は、ここまで》