(仮)森町飯田隧道【2020年1月13日】 | Subaru6の休日お出かけ記録

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お出かけして撮ってきた写真を載せていきます。

季節のお花巡りと、道路ネタ??が主になります。

大日トンネルを森町側へ通り抜けてしばらく歩き、公民館がある辺りで県道から脇道に入ります。
前回載せた地図にも載っている隧道を目指しますが、状況的に地図リンクは貼らないことにします。(バレバレだけどw)

 


最初のうちは民家が並びますが、すぐにこんな雰囲気になります。

 


正面に並んでるのはもしかして梅の木では?
ここ、もしかしたらもう少し遅くに来ていれば梅が咲いてて綺麗だったんじゃ!?

 


右へ分岐する道の先から路面がちょっと怪しくなり、いかにもという方向へ延びています。


この時は周囲にまったく人気はありませんでしたが、すぐ手前の畑はつい最近耕されたように見えたので人の出入りはあるはずです。

 


進んでいくといかにもその先に隧道あります的な雰囲気になってきました。


前方に看板が置かれているようです。(矢印)
何が書いてあるんだろう?

 


字が薄れてますが「崩落の危険あり 片側通行」と書いてあるようです。森町が設置した看板のようです。
元々この先にある隧道も前後の道も四輪車が対面通行できるような道幅はないけど、どういう意味なんだろう?
二輪と歩行者に向けた注意書き?

 


隧道に向かって進んでから振り返るとここはこんな切通しになっています。変な光が入ってうまく撮れてないですが。(^_^;)

 


で、前を向くとその先に隧道があるのですが…えええええっ!


ネットで見た情報だとこの隧道は何の封鎖もなく、何の問題もなく通行可能だったはずなんだけど!
前の日までに見た情報で、バリケードがあるなんてどこにも書かれてなかったんだけど!!!

 


近づいてみると…「崩落の危険あり」じゃない。崩落してる!


バリケードの倒れっぷりからして、そんなに最近の封鎖ではなさそうにも見えるけど、少なくとも2014年には通行可能だったし、ネットに封鎖や崩落の情報が載ってないので崩落は最近なのかと思ったり…うーん…。(;´・ω・)






わるにゃん…。

PCやスマホの画面の前の良い子はぜったいに真似しないでね。




この根っこが出てる部分が崩れてきたのかな?

 


崩落部分を乗り越え…。


ちゃんと確認しなかったけど、この写真だとこの崩落は新しそうに見えますね。(^-^;

 


改めてお邪魔します。


こちらの隧道、正式名称は不明ですが所在地から「(仮)飯田隧道」とか「(仮)飯田観音隧道」とか「(仮)東組隧道」とか呼ばれているらしいです。
あとは「貝化石トンネル」という呼び名もあるそうです。


この写真にも写ってますが、隧道の天井付近に何やら白いものがびっしり見えますね。

 


全部貝の化石!すごい!!


こちらのサイトによると約200万~700万年前の化石なんだそうで貴重ですね!
「貝化石トンネル」という呼び名はそこから来ているようです。

それにしてもこのサイト、2019年12月06日という日付になっています。
ほんの1か月前にはまだ崩落や封鎖がされていなかったんでしょうか?
ただ経路案内する写真を見ると緑が茂ってるので夏場に撮影されたものかも!?
去年の夏には普通に通れたのでしょうか?(撮影日は明記されていないのでもっと前に撮影された可能性もありますが)

子供の頃にここに来てたらほじってたような気がするけど、ダメです!
とるのは写真だけにしましょう。

 


反対側はバリケードが二重になってますが、内側のは倒れてます。
ただ、この先は私有地っぽい雰囲気…というか、ゴルフ場の敷地内らしいのでこれ以上進むのはやめておきます。

…そういう立地で崩落または封鎖がされる直前まで一般の通行はあったんでしょうか?
そして、もうこの隧道は復旧されないんじゃないかと思うのです。

 


この位置からだとこちら側からはこのアングルが精一杯。

 


こちら側も貝の化石がびっしりです。


ちなみにここわりと天井の低い隧道で、低いところは手が届くくらいです。

 


この隧道の存在はたぶん1年以上前から知っていたのですが、いつでもいいだろうと思って見に行くのを先延ばしにしていたらこんな結果になってました。
もしかしたら私が存在を知った時点でこの状態だった可能性もなくはないですが…。
でも、もしもっと早くに来ていたら崩落なしで普通に通行できたかもしれないと思うとやっぱり少し後悔してしまいます。

それにしてもこの隧道、正式名称も不明なくらいなので当然竣工年月なども不明なのですが、古い地図を見ると1920年(大正9年)にはこの位置に隧道が描かれているので明治から大正にかけての頃に建設されたものと思われます。
明治後期の地図では隧道は描かれていないもののほぼ同じ位置に「道」があったようなので描かれてないだけで隧道もあったのかも?


そんな隧道のほぼ最後の時期に立ち会うというのも不思議な感じがしました。