昔々、あるところに、とてもケチな男がおった。

男は、ものを食わせるのが惜しいからと、嫁もとらずに一人暮らしをしておった。

あるとき、そんな男のもとを旅の女が訪れた。
女は、決してものを食べないから嫁にしてほしいと請うた。
男はそれならよしと、女を嫁にした。

女は本当に何も食べず、しかも良く働いた。
男はとても喜び、女をかわいがった。

ところが不思議なことに、男がこれまで必死に蓄えた米は減る一方であった。

おかしい。さては女め。わしが仕事でいない間に
米を食べておるな。

男は女を怪しみ、ある日、仕事に出かけたふりをして、
こっそり家の梁に潜み、自分の留守の間に女の様子をうかがおうとした。

女は男を見送ると、米を炊き始め、何個も握り飯を作り始めた。

やはり女め。隠れて飯を食うておったか。

女が髪をほどくと、なんと頭の頂に大きな口がぱっくりと開いており、
そこに向けて握り飯を次から次へと放り込み、ばくばくと食べ始めた。
その上、頭の口から
「やあうまい。握らばうまい。」
と聞こえてくるではないか。

なんと、わしはもののけを女房にしてしまったか。
驚いた男は、女にばれないように梁を降り、
夕方まで時間をつぶして、いつもと同じ時間に帰ってきた。

男は恐る恐る、女に離縁を申し立てた。
正体がばれたことに気付いた女は、
見る見る恐ろしい姿に変わり、男を捕まえると風呂桶の中に閉じ込め、
それを背負うやとてつもない速さで山へ向かって駆け出した。

このままではわしも食われてしまう。

恐れた男は、とっさに山道で頭上に差し掛かった木の枝に飛びついた。
女は気付かず、走り去った。

そのうち女も気づいて追いかけてこよう。
そう思うと、男は恐ろしくて家にも帰ることができない。

そこで男は、難を避ける知恵をさずかろうと、
村一番の知恵者である長者様のところへ向かった。

どんどんどん
長者様、助けてくだせえ助けてくだせえ

やいこんな夜中にそんなに騒いで何用じゃ

長者様、助けてくだせえ
女房が、女房がまるで鬼のような化け物になっちまいました。

わしの女房などとうの昔に鬼婆あになっちまっとるわい。

ちがうんでさあ
女房に、女房にもう一つの口が出てきまして・・・

バカ者!
鬼には金棒じゃ。
女房のもう一つの口にお主の金棒を突っ込んでやれば
お前さんの女房も機嫌がよくなるわい。

 

 

 

 

どっとはらい

中学校のころ、
土曜日の深夜に、TVでよく映画を放映していた。
当時は、レンタルビデオ屋でしか見れないようなマイナーな映画を
普通にテレビで流していた。

期末試験でいい成績をとって
親に買ってもらった14インチのブラウン管テレビ。
これを部屋で見ながら、夜中に宿題をしていた。
その頃は、まだ週休二日制ではなく、土曜日も学校があったのだ。

中国時代劇風の鬘をかぶったジャッキー・チェンが画面に登場した。
そしてカンフー映画特有の、拳を振るう度に響くブォッ、ブォッっという効果音。

僕は小さいころからジャッキー・チェンが好きだった。
母親が好きだったという記録がある。
いや、そもそも僕が好きだから付き合ってくれてたのか・・・
生まれた初めて見た映画もジャッキー・チェンだった。
スパルタンXだったような気がする。
年齢的に合わなければ、多分勘違いだ。

で、ジャッキー・チェン目的でその映画を見始めたのだが、
その映画のストーリーがハチャメチャだった。
なんか物語展開。登場人物。アクション。全てがマンガ的で、少年心をくすぐった。
印象的なのが、
人の皮をはぐことを生業とする義賊の、ミステリアスな登場シーン。
悪党なのに、イケメンで、かつ爽やかな、学者風の男が登場するシーン。

実際映画では浅いキャラ描写で終わったが、
そういうバックボーンやこれからの奥行きを感じさせるキャラ描写がすごく魅力的だった。

ジャッキーファンはもう何の作品かわかっただろう。
そうです。
『飛渡捲雲山』こと『ジャッキー・チェンの飛龍神拳』である。
当時は途中のシーンから見たため、タイトルが分からず、
またネット環境などもなかったから、
記憶を頼りにレンタルビデオ屋で探すしかなかった。
だが、DVDが存在していないその時代、
レンタルビデオ屋に、そんな古いマイナー映画が置いていることなど珍しいことであった。
ましてや中学生。行動範囲に限界がある。

そこで、僕は中国の時代劇と思われるビデオを借りまくって観た。
結果、この作品には大学生になるまで出会えなかったのだが、
僕の中で、中国の歴史に対する興味がどんどん膨らんでいった。

※『ジャッキー・チェンの飛龍神拳』の紹介、レビューについてはまた後日。

ちょうどそのころ、僕の幼馴染の友人が、
僕が中国モノにハマっているということを聞いて、
『三国志』とかは知っているのか?と教えてくれた。
友人の兄が持っていた、横山光輝先生の『三国志』を借りて読んだ。
確か、なぜか51巻からだったと思う。

なんだこれは?

登場人物がおじさんばかりじゃないか。
カンフーや必殺技はどうした。
そもそも主人公は誰なんだ?

少年や青年が主人公の物語しかしらない当時の僕は、
歴史群像劇ともいえる三国志の世界観に衝撃を受けた。

友人に尋ねると、主人公は3人だと言う。
しかもそれぞれは敵同士。
加えて、僕や読んでる巻では、既に主役は死んでいるというではないか。

主役が死んでも続いている物語とはいったいなんなのだ!?

そういった衝撃が、僕を三国志の虜へと変えていった。



三国志との出会いは人によっていろいろだろう。
光栄の歴史シミュレーションゲーム。
三国無双シリーズ。
蒼天航路。
少年の中には、SDガンダムきっかけで出会ったという人もいるだろう。
中には映画『レッドクリフ』で知ったと言う人もいるかもしれない。

では三国志の魅力は何か?

それは同時に人間の魅力であるとも言える。
三国志には多くの魅力的な人物が登場する。

義の人、劉備。
法家の化物、曹操。
名将の末裔、孫権。
天才軍師、諸葛亮孔明。
美しき悲劇の軍師、周瑜。
孤高なる義侠の髯将軍、関羽雲長。
荒ぶる豪傑、張飛益徳。
高潔なる豪胆、趙雲子龍。

ざっと有名どころを上げただけでもずらっと出てくる。
さらにメジャーな人物は多く、
かつマイナーな人物も掘り下げていくと魅力的な人物が多い。

もちろんこれは三国志という時代に限った訳ではないが、
日本では比較的三国志に関する書籍、資料は手に入りやすいため、
簡単に目にすることができる。

三国志を楽しむのであれば、
一つの書籍、作品だけを読んではいけない。
三国志は「歴史」であり、「物語」である。

一人の人間のエピソードは、表裏の面を持っている。
善と悪にきれいに別つことなどできない。
国や組織が違えば、それそれ目指すもの、尊重するものも変わる。
正義、理想はおのずと一つにはならない。

面白いのは、さらに活字の記録であるエピソードに
現代人の感覚を交えた、記録の背景にある人間ドラマを想像することにある。

『蒼天航路』はその好例だろう。
これまで悪役として表現されてきた曹操に、これまでとは違う新しい見方を与えた。
作中では董卓も新しい評価をされている。

これを契機に、
三国志を学術的に研究している人以外にも、正史三国志の重要性を広げた。
加えて、横光三国志、
またそのバックボーンでもある吉川三国志のイメージを覆す、
いろいろな形の三国志がコミックの世界を中心に生まれ始めた。

三国志を愛好していくと、
知る楽しみ以上に想像(創造)する楽しみが多いことに気付くであろう。


それでは三国志に親しむにはどうしたらよいのか。

まず基本は、定番の原作を読む。
〇平凡社 立間祥介訳 三国志演義

そして日本人好みに作られた作品を読む。
〇講談社 吉川英治訳 三国志

人物をフューチャーした三国志を読んでみる。
〇文春文庫 陳舜臣 秘本三国志

コミックで三国志を読んでみる。
〇講談社 横山光輝作 三国志

正史を読んでみる。
〇ちくま文庫 三国志正史

正史を元に新解釈した曹操版三国志を読んでみる。
〇蒼天航路

海外版三国志コミック(完全オリジナルストーリー)を読んでみる。
〇火鳳燎原

とりあえず以上は僕的おすすめ作品です。
では次回は映像作品について紹介いたします。


                                             こうご期待
昨日、ネガティブな友人と一緒にバーに行った。

男二人で飲んでいると、
隣の男性が何やらかわいい女子を呼んで、いちゃいちゃし始めたので、
ムードをぶっ壊すべく、熱く語ってやった。

「死後の世界」とは果たして存在するのか。

友人曰く、
証明できないものは存在しない。
ゆえに、死後の世界を確たるかたちで証明できないことは、
それが存在しないことの証明である。
とのこと。
彼に言わせると、死後の世界とは、人間の理想の反映であるという。
「地獄」という存在は、人間が潜在的に有する罪悪感の形象化であり、
「天国」は、善なるものはこうあるべきだという願望であるという。

僕は彼に尋ねる。
証明するとは、それを語ることなのか。
それであれば、「死後の世界」を語るものは多く、かつあまねく存在するではないか。

友人は答える。
証明とは「語る」ことではなく、「自ら知覚する」ことである。
「語る」ことはあくまで主体的な表現にすぎない。
自分が感じて、初めてそれは、存在を証明されるのである。と。

僕はさらに尋ねる。
では宇宙などは、我々は知識としてその存在を知りうるが、知覚などはしていない。
これは「存在する」ことではないのではないか。
友人は答える。
僕らはそれを写真などの科学的記録によって、知覚しているではないか。と。

では「死後の世界」も何らかの形で「記録」されれば、存在を証明されるのか。
友人は答える。存在しないものを証明はできないと。

「存在」は「信じる」ことにつながる。

今度は僕が語る。
「死後の世界」を語るには、まずは「死」とは何なのかを考えなくてはならない。

「死」とは、即物的に表現するならば、
「肉体の有機的活動の停止」「生命維持機能の停止」と言えよう。
しかし人間はこれにもう一つの意味を付与する。
それが「自我の喪失」である。

「自我」とは「私」という認識とでも言えようか。
この「私」が消滅することが「死」である。

しかし一方で、
このあくまでも「思考」という肉体、脳の機能に過ぎない現象に対し、
我々人間は、一つの形なき「かたち」を与える。
それが「魂」「精神」である。

肉体、つまり形を持つものはいずれ時間の経過とともに劣化し、消滅する。
人はそれを経験によって知っていた。

一方で、誰もが知覚している「魂」「自我」「私という認識」はどうなるのかを知らない。
そこで古の人々は、形なきものは消滅することなく、永遠に存在し続けると考えた。
こうして生まれた肉体の有限性と、精神の無限性は、
本来は不可分であった二つのものを、可分な性質のものに認識を変化させたのである。

そこで問題なのが、肉体という器を失った精神の行き場である。
その行き場こそが、「死後の世界」なのである。

またこの永遠という概念が、西洋と東洋で異なることも興味深い。
西洋では、人は死ぬと、その魂は煉獄を経て、天国か地獄へと向かう。
そしてそこで最後の審判まで、第2の人生を送る。
一方、東洋では、人は死ぬと、いくつかの別世界を経て、最終的に輪廻転生するのだと言う。
西洋が直線的な解釈なのに対し。東洋が円を描いていることがいかにも面白い。

話は反れたが、そもそもこの「自我」は永遠に存在するという考えこそ、
「自我」の願望でしかない。そしてそれが「死後の世界」を付随的に生み出したのだとすると、
奇しくも、友人の言う、「死後の世界」とは人間の願望の表明でしかない
という結論に到達する。

彼と僕の理論の違いは、彼は「死後の世界」を
地獄や天国といった具体的形象にあてはめて捉えており、
それは人間の個人的、原始的願望と直接結びついていると考えている。

僕の考えはいささか異なる。
僕はそもそも「死後の世界」とは、今我々が生きている世界とは異なる、
あるいは次元的に空間と時間を共有しない世界として認識している。
そこに善悪や苦楽の形象的違いはないと考えている。

むしろそれは宗教的、教育的、文化的、政治的背景から付与されたものだと僕は考える。
人が、人に倫理観や物事の善し悪しを伝承するとき、
それがわかりやすいように、経験的内容をもって説明する。
つまりは、良いことをすると報われる。悪いことをすると罰せられる。ということである。
しかし、現実には悪人が必ずしも裁かれることはなく、
また悪事も全て監視されているというわけではない。
そこで、都合のよい、誰にも平等に訪れる「死後の世界」をあてはめたわけである。
ゆえに、天国、地獄は、常に宗教的、教育的場面にて語られることが多い

さて、それでは「死後の世界」は実際に存在するのかどうかであるが、
結局のところはわからない。
友人の言う、証明できないものは存在しないではないが、
証明できないものは、存在するともしないとも「証明できない」のである。

ただ、強いて言うならば、機能である思考、つまり自我は、
肉体と不可分であることから、肉体の有機的活動が終了した時点で消滅するのだから、
その器である「死後の世界」も存在する必要はないのである。

てなことを二人で熱く語り合った。

そんな誕生日の夜でした。