昨日、ネガティブな友人と一緒にバーに行った。

男二人で飲んでいると、
隣の男性が何やらかわいい女子を呼んで、いちゃいちゃし始めたので、
ムードをぶっ壊すべく、熱く語ってやった。

「死後の世界」とは果たして存在するのか。

友人曰く、
証明できないものは存在しない。
ゆえに、死後の世界を確たるかたちで証明できないことは、
それが存在しないことの証明である。
とのこと。
彼に言わせると、死後の世界とは、人間の理想の反映であるという。
「地獄」という存在は、人間が潜在的に有する罪悪感の形象化であり、
「天国」は、善なるものはこうあるべきだという願望であるという。

僕は彼に尋ねる。
証明するとは、それを語ることなのか。
それであれば、「死後の世界」を語るものは多く、かつあまねく存在するではないか。

友人は答える。
証明とは「語る」ことではなく、「自ら知覚する」ことである。
「語る」ことはあくまで主体的な表現にすぎない。
自分が感じて、初めてそれは、存在を証明されるのである。と。

僕はさらに尋ねる。
では宇宙などは、我々は知識としてその存在を知りうるが、知覚などはしていない。
これは「存在する」ことではないのではないか。
友人は答える。
僕らはそれを写真などの科学的記録によって、知覚しているではないか。と。

では「死後の世界」も何らかの形で「記録」されれば、存在を証明されるのか。
友人は答える。存在しないものを証明はできないと。

「存在」は「信じる」ことにつながる。

今度は僕が語る。
「死後の世界」を語るには、まずは「死」とは何なのかを考えなくてはならない。

「死」とは、即物的に表現するならば、
「肉体の有機的活動の停止」「生命維持機能の停止」と言えよう。
しかし人間はこれにもう一つの意味を付与する。
それが「自我の喪失」である。

「自我」とは「私」という認識とでも言えようか。
この「私」が消滅することが「死」である。

しかし一方で、
このあくまでも「思考」という肉体、脳の機能に過ぎない現象に対し、
我々人間は、一つの形なき「かたち」を与える。
それが「魂」「精神」である。

肉体、つまり形を持つものはいずれ時間の経過とともに劣化し、消滅する。
人はそれを経験によって知っていた。

一方で、誰もが知覚している「魂」「自我」「私という認識」はどうなるのかを知らない。
そこで古の人々は、形なきものは消滅することなく、永遠に存在し続けると考えた。
こうして生まれた肉体の有限性と、精神の無限性は、
本来は不可分であった二つのものを、可分な性質のものに認識を変化させたのである。

そこで問題なのが、肉体という器を失った精神の行き場である。
その行き場こそが、「死後の世界」なのである。

またこの永遠という概念が、西洋と東洋で異なることも興味深い。
西洋では、人は死ぬと、その魂は煉獄を経て、天国か地獄へと向かう。
そしてそこで最後の審判まで、第2の人生を送る。
一方、東洋では、人は死ぬと、いくつかの別世界を経て、最終的に輪廻転生するのだと言う。
西洋が直線的な解釈なのに対し。東洋が円を描いていることがいかにも面白い。

話は反れたが、そもそもこの「自我」は永遠に存在するという考えこそ、
「自我」の願望でしかない。そしてそれが「死後の世界」を付随的に生み出したのだとすると、
奇しくも、友人の言う、「死後の世界」とは人間の願望の表明でしかない
という結論に到達する。

彼と僕の理論の違いは、彼は「死後の世界」を
地獄や天国といった具体的形象にあてはめて捉えており、
それは人間の個人的、原始的願望と直接結びついていると考えている。

僕の考えはいささか異なる。
僕はそもそも「死後の世界」とは、今我々が生きている世界とは異なる、
あるいは次元的に空間と時間を共有しない世界として認識している。
そこに善悪や苦楽の形象的違いはないと考えている。

むしろそれは宗教的、教育的、文化的、政治的背景から付与されたものだと僕は考える。
人が、人に倫理観や物事の善し悪しを伝承するとき、
それがわかりやすいように、経験的内容をもって説明する。
つまりは、良いことをすると報われる。悪いことをすると罰せられる。ということである。
しかし、現実には悪人が必ずしも裁かれることはなく、
また悪事も全て監視されているというわけではない。
そこで、都合のよい、誰にも平等に訪れる「死後の世界」をあてはめたわけである。
ゆえに、天国、地獄は、常に宗教的、教育的場面にて語られることが多い

さて、それでは「死後の世界」は実際に存在するのかどうかであるが、
結局のところはわからない。
友人の言う、証明できないものは存在しないではないが、
証明できないものは、存在するともしないとも「証明できない」のである。

ただ、強いて言うならば、機能である思考、つまり自我は、
肉体と不可分であることから、肉体の有機的活動が終了した時点で消滅するのだから、
その器である「死後の世界」も存在する必要はないのである。

てなことを二人で熱く語り合った。

そんな誕生日の夜でした。