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The passenger of life

人生という小さな小舟に乗りこんだたった一人の乗客。行き先を決めて進むのは自分。僕は人生をどこに向かわせるのか。流れにまかせるのか必死に舵をきるのか。さあ、どうなる?自分。

今日は勤労感謝の日。

ちゃんと調べたわけではないけど、勤労に対して感謝をする日。

読んで字のごとくすぎるか。

でも、そういうことなんだろうと。



働くって、もちろん生活のためなんだけど、それだけじゃないよね。

生きることそのものが働くってことなんじゃないかな。

勤労は報酬を得るものだけじゃないわけだし、なにかのため、誰かのために動くことはすべて勤労ともいえる。

そういうふうに考えると、子供のお手伝いも立派な勤労。

貴い行為なのです。



そうすると、今日は普通の記念日に比べると、対象の人を特定しない全国民的な感謝の日なのだと。

ああ、いい日なんだなぁ・・・と思いました。



そういえば、僕が始めてお手伝いといえることをしたのはいつだろう・・・とふと思いました。

記憶を呼び起こしてみると、意外と鮮明によみがえってきました。

僕の祖父母が冬になるとほうれんそうを収穫して市場に出していたのですが、その出荷の手伝いをしたのがおそらく記憶に残っている初めてのお手伝いだと思います。



畑から収穫したほうれん草には長いピンクの根っこと、土がたくさん着いているのです。

その土を水で洗い流し、ピンクの根っこを小刀で切り落とす。

これをひたすらやっていました。

幼稚園の年長くらいだったと思います。

冬だからとにかく水が冷たくて・・・それ以上に真っ赤にあかぎれた手にかまうことなく、もくもくと仕事を続ける祖父と祖母の姿の記憶が鮮明に残っています。




祖父母は養蚕もしていたので、小学校に上がってからはお蚕のえさやりや、うんちの掃除とかを学校から帰ってくるとよくしていました。

当時は労働だなんて思ってなくて、単純におじいちゃんおばあちゃんと一緒にいるのが好きだったし、お手伝いの後のお茶やお茶菓子が楽しみなだけでした。

なによりも二人に喜んでもらいたかったのでしょうね。

本当に助かるよとか、力持ちだなぁなんてほめらると嬉しくて仕方なかったです。




こういう気持ちは大人になっても基本的には変わっていないんじゃないかな。。

お金に換算できない想いや気持ちは、こんなところから生まれるものなのだと思います。




ふだんはあまりこういうことを考えないからね・・・。

なんだかじんわりと「勤労感謝の日ってすごく意味ある日なんだな」と思いました。




職場に新しい仲間がやってきた。

これまでの職歴の中でも同じような瞬間に何度も立ち会ってきた。

その度に抱える悩みがある。

人間関係だ。

もっと幅を狭めるなら、人同士の相性だ。



極論になるのだが、努力でカバーできる人付き合いには限界がある。

なにをどうがんばってみても、あの人はダメだ・・・。

というのは相性がよくないことがほとんど。

簡単には言い切れるものではないのだが、ある程度社会生活を続けていれば、自然に相性の良し悪しはわかるようになる。



ちなみに今回の件は私自身のことではない。

新人さんと今いるスタッフさんの話になる。





両者からそれとなく話をきいたところ、どうも新人さんの放つ「でも」「だって」が大本の原因のようだ。

たしかに、それは私も新人さんの口から直接きいた。

社会人としてはあまり口にしちゃいけない言葉だなぁと思いつつも、新人さんの持つ若さゆえか・・・と私は流した。



流すのがいいか悪いかは置いておいて、流すことができる人とできない人がいる。

私は「そりゃいかんでしょ」と思いながらも流す。

争いが大嫌いだから。

これがいいか悪いかもちょっと置いておいてほしい。



一方、流せない人は反発を食らったわけだから、ムカッとくる。

もちろん争いを好むわけはないから、望まない形で憤りの感情をもつことになる。

これがストレスになる。



どうしたらいいのか、こんな状況になるときはいつでもそうだけど、色々考える。

今回は両者をよく見ていると、お互いが反発をしあっているように見えた。



なんで反発しあってしまうのか、それがわかれば解決のしようもある。

仕事が終わってからずっと考えている。

なぜなら人間関係の修復が可能な時間なんて、ほんの一瞬しかないからだ。

出会って2~3日の間に改善がなければ、ずっとそのままだ・・・。



そんな環境で仕事をするのは面白くない。

できればみんなでストレスが少ない環境で働きたい。



でも、本当はどうすれば解決するかはわかっている。

お互いが謙虚になればいい。

それで大体の問題は方がつく。



だけど、難しい。

誰かにこれを説明して、納得してもらったことなんて一度もない。



私が説得するのが下手というのもある。

人に説教をできる器の大きさを持っていないのも知っている。

なにか他の方法はないのだろうか・・・。










ボビー・コールドウェルの「Heart Of Mine」

最近またよく聴くようになりました。

いつ聴いても、何度聴いてもいい曲だなあ・・・と思います。



ボビー・コールドウェルは、スティングと並んで永遠の洋楽ツートップです。

たぶんこれからもずっとこれは変わらないだろうな。

子供の頃に形成された人格のように、僕の中の音楽的趣向はこの二人で基本的な部分が形成されているような気がします。



一番最初は山下達郎のサンデーソングブックでシングライクトーキングの存在を知り、そこからTOTOを知り、ボズ・スギャッグスにつながり、ボビー・コールドウェルにつながり・・・。

AORの世界にどっぷりと漬かっていました。



スティングはなにが最初のきっかけだったかなぁ・・・。

おそらくジェットストリームだと思うんだけど、イングリッシュマンインニューヨークだったと思う。

でも本格的に好きになったのは、今はすでに無くなってしまった宮崎シーガイアのオープニングセレモニーで、スティングの演奏の様子を収録したテレビ番組を見てから。

すごいよね、こけらおとしにスティングを呼んでしまうなんてね。

今じゃ絶対に考えられない。



音楽は形が無くて、いつでもこの手で触れられるものではない。

でも形あるもの以上に、色んな大切なものに出会わせてくれた。

特にボビー・コールドウェルとスティングは。

この二人の音楽を聴いたから得られたものがたくさんある。



音楽は単なる娯楽ではないと思う。

今さらそんなことを・・・と思われるかもしれないけど、振り返ると必ず思い出と共に音楽がある。

その時の景色や感触を思い出せなくても、曲を聴くとよみがえる感情がある。

音楽は記録であり、記憶でもある。



Heart Of Mineを聴きながら、思い返すもの。

大切なものばかりだよ。