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自らの文章のアーカイブと考えている



アンチェイン
アンチェイン 迷走

 ボクシングは哀しい、それは人生に酷似しているからだ…

 葛西裕一というボクサーがいた。いわゆるエリートボクサーである。エリートボクサーは、もちろん素養もあるがジムで「作られる」ものであることも確かである。学生でタイトルを獲り、名門ジムからデビューする。デビュー戦が宣伝されることもある。

 彼らはジムに月謝(いまだにこう言う)を払う事もなければ、ファイトマネーがわりに貰うチケットを売る事もない、そして大事にされる。そのうちのひとつが対戦相手の選別である。

 ボクシングにはオポーネントという言葉がある。分かりやすい言葉を使うと「かませ犬」ということになる。エリートは大きなタイトルマッチまで負ける事が許されない。そこでオポーネントが必要になる。

 この映画に出てくる二人のボクサーが葛西裕一のオポーネントだった。

 アンチェイン梶と永石麿(ながいしまこと 後に対馬オサム)である。

 ボクシングと相撲は日本で学歴の必要ない数少ないプロスポーツのひとつである。さらにボクシングは体の大きさも必要ない。だから社会のヒエラルキーの底流に位置している、あるいはそこから疎外された人間が集まる。

 ボクシングは哀しい…と言った。それはボクシング界にもちゃんとヒエラルキーが存在するからだ。アンチェイン梶は(映画の中では語られないが)アイヌ民族をルーツにもつし、永石は在日コリアンである。(だから後に対馬というリングネームに変える。父親が対馬海峡を渡ってきたからだ。)彼らの幼少期が恵まれていた訳がない。そんな彼らがエリートボクサーのオポーネントとなる。

 恵まれていた子供達が青年になりアマチュアを経ずに、プロボクシングを志向するケースはほとんどない。若年労働者が仕事場へ行く途中でジムを見つけ入ってくるケースがほとんどである。彼らはそこで何かを見、さらに何かを見ようとするのだ。

 それはボクシングに魅せられる瞬間かもしれない。ボクシングの妖しい魅力はスポーツではない事に尽きる。相手のダメージを目的としたものがスポーツであるわけがないのだ。彼らはそこに魅せられるのである。相手への、そして自分へのダメージに魅せられるのである。そこには絶対的な「存在感」がある。

 彼らは言う「闘わずに腐っていくことは耐えられない…」

 彼らにとって、「闘い」とはまさしく肉体的な闘いでしかない。彼らが肉体的な闘い以外の闘いができるリングを誰が準備できよう。彼らの言論に誰が耳を傾けようか…そして、彼らがすぐ「腐ってしまう」事を、彼ら自身がよく知っている。それらはほんの身近にいくらでもあるからだ。

 アンチェイン梶は0勝6敗1引き分けで引退する。引退理由は視神経麻痺によるドクターストップである。彼は完全な敗者としてリングから遠ざかる。もともとボクシングは不遇なスポーツである。負けてリングを遠ざかるのが普通である。ならば彼は敗者ではないのかもしれない。

 そして「人のためになりたい」と思う。

 ボクシングで「表現」することを獲得した者が次に思うのは「存在」である。そして自らの存在を他者との関係性の中で見つけようとする。だから「人のためになりたい」と思う。それは自然な流れなのだ…

 彼は阪神大震災のボランティアをてはじめに、障害者の作業所の手伝いをし、「とんち商会」というなんでも屋を開業する。開業した場所は釜ケ崎である。おそらく底辺の労働者のためになりたいと思って始めたのであろうが、彼はそこで手配師のような仕事もすることになる。そこで彼は別の敗者に出会う。(映画ではほとんど触れられていないが)

 そこから精神に支障をきたし、なぐりこみ事件に発展する。その相手(実際に本当の相手かどうかもわからない。対抗勢力として彼の脳裏にあっただけだと思うが)を彼は「釜ケ崎赤軍」(西林の言葉)と言った。出会った敗者とは彼の言う「釜ケ崎赤軍」である。

 赤軍は1969年大菩薩峠の大量逮捕で解体的ダメージをおう。その逮捕者のひとりに兵士若宮正則がいた。彼は2年近い拘留から出所し、赤軍再建のために釜ケ崎に入る。そこで労働者を対象にした食堂(ラーメン屋)を始める。インスタントラーメンを安価で提供する店を出したのだ。その活動の一環として悪徳手配師や暴力団と抗争し、労働者を排除し暴力団を擁護する警察権力とも抗争を始める。

 そして、水崎町派出所爆破事件と土田・日石・ピース缶爆弾事件の真犯人証言で再び拘留され、出所するのは10年後である。彼は再び釜ケ崎へ戻り「労働者食堂」を再開するが、今度はアナキストとしてであった。

 若宮正則は1989年に挫折し「労働者食堂」を閉鎖し、ペルーに渡りそこで死ぬ。

 アンチェイン梶が賃金支払いのトラブルから釜ケ崎になぐりこみをかけた時、すでに若宮正則はいなかったかもしれない。しかしアンチェイン梶達の対抗勢力としてあったことは想像できる。敗者同士の抗争は虚しい。

 その殴り込みの時にアンチェイン梶は3人に電話をする。永石麿、ガルーダ・テツ、西林誠一郎である。その中で西林誠一郎がアンチェイン梶の奇行に付き合い、暴力団の反撃を受け怪我をする。それをアンチェイン梶はずっと後悔することになる。

 その時の西林の心理はこの映画のテーマでもある。西林はこの行動が何も生まない事を知っている。さらに危険なことも知っている。それはまさしく奇行である。すでにその時にはアンチェイン梶は精神の状態が悪化していたのだ。

 友情という言葉はかなり多大な基層を必要とする。友情や連帯感という語彙で語られるほどシンプルな感情ではないと思う。敗者としての一体感かもしれない。

 アンチェイン梶と深夜映画館で一緒にアルバイトしていたガルーダ・テツも最後まで小野瀬邦英の引立て役だった。ガルーダはアンチェイン梶にセコンドをさせることがあり、すでに乱調時代に入っていたアンチェイン梶は、乱れた態度を見せるがセコンドの誰もそしてガルーダ自身も注意しない。アンチェイン梶のガルーダに勝たせたいという「意志」だけが伝わって来る。そしてガルーダのアンチェイン梶に対する、やはり友情ではない暖かさを感じる。

 ここには、あまりに哀しい連帯があるような気がするのだ。

 ガルーダは熱心な愛国主義者となり、リングコスチュームに「一人一殺」と井上日召の「矜持」を記す。

 国家から疎外された彼らが、国家に阿ねなければならない空間は悲惨だ。彼らの不満の意志の表現が国家主義に陥落することは、新左翼のメンバーがすさまじい暴力にのめりこんで行った図式に似ている。アンチェイン梶と若宮正則のふたりがその光景を象徴する存在のように見える。

 アンチェイン梶はすべてが空回りし、すべてを失う。一瞬ではあったが、確かに存在した「家庭」を失い、ボクシングができた肉体を失い、人のためになりたいと思った精神を失う。

 彼が精神病院から退院してきた時に会えた人々…それは永石麿、ガルーダ・テツ、西林誠一郎である。アンチェイン梶は彼らとの関係を失わなかったのではなく、新しく構築できる過去を共有していたのだ。だからかれらははにかみながら初々しく再会する。

 これは青春映画でもなければ、スポーツ映画でもない。

 ここには疎外しかない。しかし疎外の中で生きる魂がある。捨てるに捨てられぬ生がある。

2001年6月公開



メトロポリス
民衆と「文明」の紐帯・暴力と破壊、そして幻想…

 この映画を先ずどのように総括するかが問題である。手塚治虫の原作がモチーフになっていることは確かだが、それだけではない。しかしそれ以外でもないのだ。手塚治虫の「目指したもの」がモチーフになり、テーマとしたのかもしれない。

 舞台は科学文明の進んだ未来都市で、しかもかなり大きな都市つまりメトロポリスである。しかしどんなに科学文明が進もうと貧困層は残っているし、社会システムの中で意図的に作られる貧困層の不満は縮小しない。また、貧困層は限られた地域に住まわされる。

 その不満は労働機会を奪ったロボットに向けられる。

 独裁的な権力者が民衆をプロパガンダに呑み込んでいる。科学文明の発達と都市機能の巨大化が民衆にも「善」であるようなプロパガンダだ。実際にはそれらは民衆にとって搾取システムでしかありえないのに、民衆はその「成果」が自分達も参加した「成果」と思おうとする。それはプロパガンダの恐ろしさを具現化している。

 反乱分子のロボットを取り締まる私的組織がある。マルドゥク党という。その組織は独裁者の影響力の極めて強い組織で、暴力・弾圧装置として働いているが、その矛先が人間に向けられるだろうことを容易に推測させる。ゲッペルスは「思想ある者には弾圧を、思想無き者には宣伝を」との「信仰」を貫いたが、それを髣髴とさせる。

 その権力者は自分の失った子供に似せたスーパーロボットの開発を試みる。そのロボットはその都市のコンピューターシステムから世界のコンピューターシステムを制御できる兵器システムとなるべく運命づけられている。

 そのスーパーロボットに心が芽生える。それが誤算だったのか、確証はない。なぜなら独裁者は自分の失った子供に似せてそのスーパーロボットの製作を命じたからだ。スーパーロボットはコンピューター制御をするポジションに位置すると狂いはじめる。多くのロボットをないがしろにしたという理由で、他のロボットに人間への復讐を開始させる。それは都市の科学システムの破壊も意味しているので、その一環であるコンピューターシステムも破壊される。よってそのスーパーロボットも破壊される運命にある。

 そのスーパーロボット(ティマ)に「心」を通わせた少年(ケンイチ)が、自らの命を賭してそのスーパーロボットを助けようとする。権力装置であり破壊の権化であり機械にすぎないロボットを助けようとするのである。

 その感情はなんであろう…「愛」であるのか…

 ロボットに人間を破壊させないために都市システム自爆ボタンを暴力・弾圧装置を担っていた人間が押す。その時に突然流れる音楽がレイ・チャールズの

I can’t stop loving you

 なのである。

 少年とスーパーロボットとは民衆と科学文明との繋がりに見える。都市破壊の中で落下して宙づりになったスーパーロボットのケーブルを必死に手繰って助けようとする光景は、なんとか民衆が科学を自分のものに取り戻そうとする虚しい努力に見える。人は「科学」を作り、その科学の発達を願う。その願いの中には人が制御できないほどの発達を望むといった危険さを孕んでいる。

 少年の心の答えをここに見出そうとする。愛は対象がなくても「愛」なのだと。そして彼の愛は、「暴力」、「破壊」にすさまじく敵対するものなのだと…

 破壊されつくした後に残っていたのは、民衆の生活であった。その瓦礫の中で少年は愛の形見であるスーパーロボットの痕跡を探す。それがあたかも再生する民衆生活を保証するかのように…

 この映画は、人をけして幸福にしない科学、あるいは国家というものを表現している。また、科学がある特定のひとにぎりの権力者のために用意されるという事実も語っている。そして民衆は常に権力のプロパガンダに晒されている、という現実も表現している。そして常に利用され搾取されるのは民衆であるので、発展と貧困というギャップを粉飾するのが人々が持たされる幻想の「幸福感」「発達性」「進歩感」であり、虐げられた存在としての貧困者でありロボットである、という図式である。

 その中で「愛」が出てくるのだが、「愛する」のではなく-I can’t stop loving you-「愛さずにはいられない」という人間の生あるものの本来性が出てくるのである。

 その少年はあたかも革命後の世界を見届けるようにその地に残り、小さな店を開き「民衆」としての生活を誇示していく。

 彼も、人も、時代も、世界も、「愛さずにはいられない」本来性をもっているのだ、というテーマの提示は重く、暗い。まるでティマが流す機械油の涙のように…

2001.6.6

原作 手塚治虫

監督 りんたろう

脚本 大友克洋

メトロポリス 2001年5月公開
ギャル雑誌休刊

 ギャル雑誌の「Happie nuts」が休刊(という名の廃刊)して記憶が新しいが、「BLENDA(ブレンダ)」も9月で休刊するという。

 かつて出版業界にいた人間としては、いちおう驚く。

 なぜ「いちおう」なのかと言うと、ファッション雑誌の休刊そのものはショックに感じなければならないが、世の趨勢から言ってなるべくしてなったにすぎないからだ。

 原因は、売れなくなったのである。

 その理由は「ネットだとタダだから」

 また広告もネットに軸を移しているからである。

 ところが30代後半から40代半ばの女性を対象にしたファッション誌は創刊になったり、売り上げを伸ばしている。
 VERYは主婦をターゲットにしている。STORYはターゲットは主婦ではないが年代的には同じである。
 この差は何だろう?

 まさしく格差かもしれない。
 VERYもSTORYも「余裕のある女性」向けである。
 ファッションの店舗販売もその年代をターゲットにしたショップが増えてきたという。ヒカリエがそうである。

 ここにある格差にはふたつの問題がある。
 ひとつは若年層にとってケータイ・スマホは生活必需品であり、それに費やす費用は必要経費であるから、そこから得る情報を最大限に活用する、ということになる。
 するとネット情報しか入らなくなる。
 ネット情報はもっとも操作されゆすく、もっとも検閲に適したメディアである。

 出版物は表現に問題があったとき、すぐには取り消せない。
 ところがネットは瞬時にて消去できる。
 この差は大きい。

 もうひとつはかつては消費の大きな原動力は若年者だった。
 なぜ若年者がそうではなくなったか、の問題は深刻に受け止めねばならない。
 この問題には若年者の親の世代の苦境も見えるからだ。

 若年者の貧困はどんどん深刻化する。
 なぜなら表面に出てこないからだ。