メトロポリス
民衆と「文明」の紐帯・暴力と破壊、そして幻想…
この映画を先ずどのように総括するかが問題である。手塚治虫の原作がモチーフになっていることは確かだが、それだけではない。しかしそれ以外でもないのだ。手塚治虫の「目指したもの」がモチーフになり、テーマとしたのかもしれない。
舞台は科学文明の進んだ未来都市で、しかもかなり大きな都市つまりメトロポリスである。しかしどんなに科学文明が進もうと貧困層は残っているし、社会システムの中で意図的に作られる貧困層の不満は縮小しない。また、貧困層は限られた地域に住まわされる。
その不満は労働機会を奪ったロボットに向けられる。
独裁的な権力者が民衆をプロパガンダに呑み込んでいる。科学文明の発達と都市機能の巨大化が民衆にも「善」であるようなプロパガンダだ。実際にはそれらは民衆にとって搾取システムでしかありえないのに、民衆はその「成果」が自分達も参加した「成果」と思おうとする。それはプロパガンダの恐ろしさを具現化している。
反乱分子のロボットを取り締まる私的組織がある。マルドゥク党という。その組織は独裁者の影響力の極めて強い組織で、暴力・弾圧装置として働いているが、その矛先が人間に向けられるだろうことを容易に推測させる。ゲッペルスは「思想ある者には弾圧を、思想無き者には宣伝を」との「信仰」を貫いたが、それを髣髴とさせる。
その権力者は自分の失った子供に似せたスーパーロボットの開発を試みる。そのロボットはその都市のコンピューターシステムから世界のコンピューターシステムを制御できる兵器システムとなるべく運命づけられている。
そのスーパーロボットに心が芽生える。それが誤算だったのか、確証はない。なぜなら独裁者は自分の失った子供に似せてそのスーパーロボットの製作を命じたからだ。スーパーロボットはコンピューター制御をするポジションに位置すると狂いはじめる。多くのロボットをないがしろにしたという理由で、他のロボットに人間への復讐を開始させる。それは都市の科学システムの破壊も意味しているので、その一環であるコンピューターシステムも破壊される。よってそのスーパーロボットも破壊される運命にある。
そのスーパーロボット(ティマ)に「心」を通わせた少年(ケンイチ)が、自らの命を賭してそのスーパーロボットを助けようとする。権力装置であり破壊の権化であり機械にすぎないロボットを助けようとするのである。
その感情はなんであろう…「愛」であるのか…
ロボットに人間を破壊させないために都市システム自爆ボタンを暴力・弾圧装置を担っていた人間が押す。その時に突然流れる音楽がレイ・チャールズの
I can’t stop loving you
なのである。
少年とスーパーロボットとは民衆と科学文明との繋がりに見える。都市破壊の中で落下して宙づりになったスーパーロボットのケーブルを必死に手繰って助けようとする光景は、なんとか民衆が科学を自分のものに取り戻そうとする虚しい努力に見える。人は「科学」を作り、その科学の発達を願う。その願いの中には人が制御できないほどの発達を望むといった危険さを孕んでいる。
少年の心の答えをここに見出そうとする。愛は対象がなくても「愛」なのだと。そして彼の愛は、「暴力」、「破壊」にすさまじく敵対するものなのだと…
破壊されつくした後に残っていたのは、民衆の生活であった。その瓦礫の中で少年は愛の形見であるスーパーロボットの痕跡を探す。それがあたかも再生する民衆生活を保証するかのように…
この映画は、人をけして幸福にしない科学、あるいは国家というものを表現している。また、科学がある特定のひとにぎりの権力者のために用意されるという事実も語っている。そして民衆は常に権力のプロパガンダに晒されている、という現実も表現している。そして常に利用され搾取されるのは民衆であるので、発展と貧困というギャップを粉飾するのが人々が持たされる幻想の「幸福感」「発達性」「進歩感」であり、虐げられた存在としての貧困者でありロボットである、という図式である。
その中で「愛」が出てくるのだが、「愛する」のではなく-I can’t stop loving you-「愛さずにはいられない」という人間の生あるものの本来性が出てくるのである。
その少年はあたかも革命後の世界を見届けるようにその地に残り、小さな店を開き「民衆」としての生活を誇示していく。
彼も、人も、時代も、世界も、「愛さずにはいられない」本来性をもっているのだ、というテーマの提示は重く、暗い。まるでティマが流す機械油の涙のように…
2001.6.6
原作 手塚治虫
監督 りんたろう
脚本 大友克洋
メトロポリス 2001年5月公開
