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自らの文章のアーカイブと考えている

光の雨


脆弱な従順として…

-革命をしたかった。

-生きるすべての人が幸せになる世の中を作りたかった。

-各人のもっている能力が100パーセント発揮でき、富の分配は公平である。

-職業の違いはあっても上下関係は無い。

-人と人の間に争いはないから戦争など存在しえない。

-そんな社会をつくるための歴史的第一歩として人々を抑圧する社会体制を打ち破る 革命をしなければならない。

-そのために僕らは生きていた。

 あの時代、心に沈んだものに対しどう対応するか、多くの人が思っていたと思う。

 その時代にあった時に、その時代がけしていい時代でないことを知っていた。何かしたいと、何かを言いたいと、多くの魂が喘いでいた。だから運動に参加した者もいれば、運動に心を託したものもいた。しかもそれは若者ばかりではなかったと思う。戦争が終わって15年から25年が経った頃に直面した「偽善」に対し、多くの者が違和感を覚え、上の世代の者たちが負った大きすぎる犠牲を無駄にしたくないという気持があったと思う。

 唯一「自由」があった、思想的自由があった、奇跡的な時代であったかもしれない。そしてなんとかしなければ、自分が何かしなければ、という焦燥感もソレに拍車をかけたのかもしれない。とにかく純粋な魂がその宿命に従って傷つくことが予定されていたのかもしれない。

 誰もがソレを理解したかった。自分の心の底に蟠っていた残渣を整理したかったのだと思う。それを整理することが、自分にとっての新しい時代の幕開けになると期待したのだと思う。

 そして彼らが、何のためにソレに身を投じ、どうしてああいう結果を生んだか、どうしてもそれを知りたい。多くの人がそう思っていたはずだ。

 この作品はなにも与えてくれなかった。理解の手助けにもならなかった。製作者もそれが分かっていたのだろう、だから劇中劇にしたのだ。誰にも結論は語れないという大前提があるからだ。もし語れるとするなら森しかいないのだ。

 作品は坂口の視線で語られる。坂口だけが語れる資格があるのだろう。最後の銃撃戦まで戦い、後の奪還計画を拘置所内から否定した坂口だからこそ語れるのだろう。ファーストシーンに続く映像は、1969年の羽田空港突入闘争のシーンであるが、映画では、その説明はない。回想シーンのようにモノクロームで表現されるだけである。

 その闘争の馬鹿馬鹿しさと無力感が、次に続く活動の原動力となったことを示しているのかもしれない。若者のいてもたってもいられない心情を表現しているのかもしれない。あるいは指導部の責任を追及しているのかもしれない。

 キャストの若者達がどんどん純化し、彼らに近づいていく。それがあたかも映画の目的のように見えてくる。彼らに近づくこと、それが観客にできる唯一の行為だと暗示しているかのようだった。

 多くの死者が、ソレがために死んだ若者達が、光を求めるように歩いている。それを見つめる坂口。その坂口こそが私や私たちの姿だったのだ。

 映画は彼らの意志が潰えるところで終わり、エンドロールに入る。そのエンドロールが、もっともその映画を語っている部分であった。私はエンドロールに落涙した。

 救いきれない、同化できない、あまりに脆弱な魂に落涙した。

 そしてそれを救えなかった時代の貧しさにも落涙した。

 彼らの悲劇の後に到来した社会は、少なくとも彼らが目指した社会ではなかった。

 階層化は進み、言論思想の自由はなくなり、貨幣経済に隷属する労働者を飼育していった。その抑圧的世界になった原因が、彼らが惹起した「悲劇」だったとしたらあまりに悲しい。少なくとも彼らの熱意を受け止められなかった歴史の未熟さの故であり、敗戦の悲惨さを自らのものとできずに旧来の権威を全否定できなかった人民の惰弱さにあった、と思いたい。

 なぜ彼らはあれほど従順に「横暴な死」を受け入れたのか?受け入れることで理想に近づくと信じていたのではないか?その甘い推測が唯一の救いである。

 彼らを全否定することは容易い。

 それでは生きることの意味が見えないと思う。

(尚映画では実名は使われない)

監督 高橋伴明

原作 立松和平

脚本 青島 武

撮影 柴主高秀

2001年製作







落穂拾い (Les Glaneurs et La Glaneuse 2000年)

「たべる」という美

アニエス・ヴェルダ(どうも一般的な表記はヴァルダらしいのだが、ヴェルダと書きつづけてきたのでヴェルダとする)は、私にとっては大変気になっていた監督のひとりであった。

 それは「幸福」(Le Bonheur 1965)を観たことである。この作品は最初父母とロードショーで観た。テアトル東京と記憶しているのだが、シネラマ館であるテアトル東京ではない可能性が高く、その地下のテアトル銀座だったかもしれない。

 とにかく不思議な映画だったのだ。不思議のひとつはテーマが見えなかったこと。もうひとつは男性の信じられない天真爛漫さであった。そしてさらに不思議なのは魅力のある作品だったのだ。それから何年か経ってリバイバル上映があった時にまた観に行った。(高校生だったと思う。銀座にボヌールという喫茶店があった時代だ)

 不思議感は全く消えなかったものの、作品としての魅力は倍増した。今でも不思議な作品である。

 落穂拾いがアニエス・ヴェルダの作品であり、ヨーロッパが数々の賞を受賞し、ドキュメンタリーであり、テーマが都市問題・貧困問題であり、「食」の問題である、というので私には観ない訳にはいかない作品であった。

 ジャン・フランソワ・ミレーが、今まで貴族階級の記念写真的存在だった絵画に庶民を描いた画家として著名であることは知っていた。本人も貧困層の出身で、数々の嘲りの中で絵を描いてきたことも知識としては知っていた。

 彼の作品の中でも有名なので落穂拾いであるのだが、落穂拾いの意味を今回初めて知ったのである。落穂拾いは収穫後の農地に老人、孤児、障碍者だけに許された行為で、生存に対する救済措置だったのである。

 ミレーは庶民を描いたのではなく、貧しい人々を描いたのである。

 ヴェルダは、ミレーのその絵に対する興味からハンディカメラを持 って映画作りに入る。彼女は捨てる人と拾う人を追っていく。そして、拾う人々が疎外された人々であることを検証していくのだが、実はテーマ性を持ったドキュメンタリーの手法とはかなり違うのである。

 ドキュメンタリーには、事件を追う方法と日常の中からテーマを見出す方法とあるが、この作品はどちらでもない。

 自分が偶然興味を持ったテーマが導入となるが、そこに強いてテーマを提示しようとしない。拾う人、食べる人、その人たちに話しかける。そして落穂拾いが実は生きる人の普遍的なテーマであるということを悟らせる。

 その中で彼女はあたかも自分の人生を被せるように自分を撮る。自分の髪を撮り、手を撮り、指を撮る。その齢を重ねた身体の風景を、人が生きる行動、拾うこと、食べること、に重ねていく。

 そして、拾って生きている人々が、けして特殊ではないことを知らしめる。拾って生きている人がボランティアでアフリカ出身の人にフランス語を教えるシーンは人間の生きるという行為の尊厳を教えてくれるかもしれない。

 そして規格品外の農作物を投棄する生産者の姿は実に痛ましい。彼らが痛ましいのではなく、投棄される食材が実に痛ましいのである。ヴェルダはその中からハート型のジャガイモを見つけ持って帰る。ここで彼女も「拾う人」になる。

 そのジャガイモを何度も映像に残す。

 しかしヴェルダは声高にその矛盾を問うことはしない。

 自分が拾ったもの、針の無い時計、2脚の椅子、に愛着を示す。

 これは映像詩である。

 私はヴェルダが車を運転しながら指で円を作り、トレーラーを写すシーンに接した時にはじめて分かった。この作品はドキュメンタリーではなく、映像詩なのである。

 考えてみれば当然か…搾取せずに生きること、よって拾って生きること、それは詩なのだ。

 しかし、ヴェルダは素晴らしい。

 幸福で不可思議で妖しい魅力で幻惑されたと思ったら、今度は環境問題のドキュメンタリーを観にいったはずなのに美しい映像詩だった…このドラマティックな体験はどんな作り物も凌駕してしまう。

 さらに素晴らしいのは齢を重ねた美しさを表現していることである。拾う人、食べる人、齢を重ねるということ…人間の根源的な行為を「美」としてとらえる。あたり前の才能に対し感動する作品である。

 そして、美とは何なのか?を再認識させる作品でもあった。だからジャン・フランソワ・ミレーの落穂拾いが名作であるのだ、という最初の印象に帰ってくる。そしてヴェルダが映画を作ろうと思ったきっかけである「食べ物を拾う人を見て感動した」に帰ってくるのである。映画作りの上手さに感服してしまう。

 人間の生きることを表現するなら、まず直接的に喰うことである。(けして性行為や暴力や思想ではない)喰うために拾うというたいへんプリミティブな行為を撮るという行為は、実は生の全てを表現しているように思える。

 またまたヴェルダに魅せられた。

2002.2.26

監督・脚本 アニエス・ヴァルダ




シュレック

  欲望の逆相として

映画史の中でアメリカが、ハリウッドが、形成してきたものは、欲望の刺激であった。その中でウォルト・ディズニーの作品が世界中の人々に与えた影響は少なくない。ファンタジー、あるいは童話というモチーフを媒体とし、子供の欲望を規定し刺激し続けてきた。

 女性の幸福を結婚と限定し、それも運命的な出会いでなければならないし(街でナンパされた、なんていうのは絶対バツ。と言いながら50歩100歩だが…)、多くの場合は白馬に乗った婚姻経験のない王子でなければならない。しかもほとんどの場合はコーカソイド(白人)の彼らの論理で「美しい」男女でなければならない。さらに女性は他の男性との「交際歴」があっては絶対にならないし、女性は「探される」存在で自分から探しては絶対にいけない。その上初対面でキスをし結婚を決意するという冒険的向こう見ずさも発揮せねばならない。

 また、階級的な問題を不自然なぐらい無視し、ラストシーンは王子と白馬に相乗りし城へ向かう。その後彼らが領民を支配したり、搾取したりするかどうかは誰にもわからない。

 時として、魔法などにかけられ「(彼らの論理で)醜い」外見をしている場合があるが、キスや結婚などにより「美しく」なる。醜い存在に同情をする心を「美しい」と表現するが、それは最後には「報われ」醜い存在は美丈夫に変身してくれる。それは「美しい」心は「報われる」べきという、恐るべき代償論理が当然のように展開される。

 そんな価値観を押しつけるため、ほとんどのストーリーは改悪される。最もひどいのは「ノートルダムの鐘」で、「醜い」カジモドはその醜さの故に美しいエスメラルダとは結ばれないのである。もちろん原作のノートルダム・ド・パリでは形は違うが二人は完全な形で「結ばれる」。あまりの改悪のために珍しく題名も変えたようだ。

 コーカソイド至上主義が批判され、コーカソイド以外の地域にもマーケットを拡大しようという意図から「ポカホンタス」「アラジン」と製作したものの、どちらもかなり大きな批判を受けた。批判の多くはとりあげた非コーカソイド人物のステレオタイプ化と、コーカソイド至上主義の残渣からである。先住民族であるポカホンタスの「幸せ」はコーカソイドの男性と結婚し、イギリスに渡ることだったとしたようにである。その反省が「ターザン」だったらしく、「現地人」は全く出てこない。

 ディズニー映画は自らでストーリーを作ることなく、子供が接しやすい童話などに題材をとり、それを偏狭な価値観で改悪してきた。そんなディズニー的図式が欲望の原資となってきたのだ。

 シュレックは怪物である。(映画ではogre)本来なら絶対に主人公になってはならない存在である。それを彼も健気に認識していて、孤独を愛している。王子がファンタジーのキャラクターを追放するところから事件は始まる。ファンタジーの登場人物が「キャラクター化」しているところにすでにディズニー批判が見えてくる。ジョゼッペじいさんはピノキオを売ってしまうし、3匹の子豚達は常に芸を強いられる。

 つまり彼らはおとぎばなしの登場者ではなく、商品化されたキャラクターなのだ。

 その事件を打破すべくシュレックが王子の城へ行くと、入ったところでコンピューター仕掛けの人形が「べからず」を連呼する。この町では「なになにをするな」とながながと告げるのである。

 これはディズニーランドに対する揶揄である。ロボットに行動規制、あるいは感情規制ですらさせられる欲望の哀しき図式である。さらに無理やり写真を撮られる。これは強制的に笑いを強いられることを意味している。

 「醜い」シュレックがフィオナ姫を救け、王子の城に連れて行く途中で、姫の秘密が観客にわかる。姫は日が沈むと「醜く」なるのである。彼女はファンタジーのキャラクターを演じる使命感を持っていて、王子と運命的な出会いをしなくてはならないし、醜くなる前の日が沈む前に結婚のキスをしなければならないと主張する。そしてキスによって「本来の姿」に戻れるのだと言う。彼女はそこに「与えられた」自らのアイデンティティーを見るのである。また観客である我々はハリウッド映画がいかに「キス」という行為を象徴的に使っているか悟らされる。

 アメリカの、ハリウッドの、ディズニーの、それらの論理ではアイデンティーティーは常に与えられるものであるようだ。与えられ、演じるものであるのだ。そして我々もアイデンテイーティーが与えられていることを確認するのである。女性は白馬に乗った(断じてシラユキに乗った天皇ではない)王子を待望し、男性は自分が「王子」という存在からほど遠いという諦念観を持つ。このギャップと齟齬は深く暗い。

 観客はここでラストシーンを予想する。すでにシュレックと結ばれる暗示があるので、ファンタジーあるいはアンチファンタジーのラストとしていくつかのシーンを思い浮かべる。

1 キスをすると姫だけ「美しい」コーカソイドの女性となる。しかし心の「美しさ」があるので、シュレックと結ばれる。

2 キスをするとシュレックも「美しい」コーカソイドの男性となる。しかもシュレックは呪いをかけられた王子だったので、立派な戴冠式が行われる。

3 キスをすると姫は本来の「醜い」姿になる。「醜い」同士結ばれる。

 どのラストを迎えるかはややスリリングでもある。この映画がどんな映画だったのか、という本来性を表現する行為だからである。もちろんアンチファンタジー、アンチディズニーの旗幟を明確に提示しているので、可能性はずいぶんと偏るのだが、映画観客は裏切られることを期待し、その裏切りを自分なりに論理づけることに快感を見出す傾向があるからである。

 ラストを意外に思う者はないであろう。

 全くの予想どおりになり、それがアンチディズニーの完成となるのだ。

 しかし、疑問もある。これほど費用を掛けアンチディズニー作品を作る意義があったのか、という疑問である。子供達にはキワモノとしてしか写らないのではないか…その点で大人の映画ということが言えると思う。

 逆に大人の態度が問われているのかもしれない。大人の欲望が問われているのかもしれない。

 しかし、なぜウォルト・ディズニーは共産主義思想を疑われたのだろう…

2001年12月公開 Dream Works製作