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映画『ヘヴンズストーリー』の解説

 本来なら評価評論をすべきなのだろうが、それをするにはあまりに「近い」のでストーリーを解説し、その周辺の説明にとどめたい。

 テーマは犯罪被害者のそのポジションからの解放である。  メインモチーフは光市事件のようである。三崎事件なども視野に入っていたかもしれない。

 サトは両親と姉が殺され犯人は自殺してしまう。親族に引き取られるという環境の変化の中で、テレビであるニュースを目にする。

 それは、妻と幼子を少年に殺されたトモキがテレビカメラに向かってこう言う。
「犯人を死刑にしないでほしい、刑期も短くしてほしい。出てきたら殺す」
 復讐が叶わないサトにとって彼が「あこがれ」になる。
 後にこの発言が元で「味方」だったマスコミが敵になったとトモキは述懐する。
 警察官である海島(カイジマ)は、交番勤務の時に拳銃を強奪しにきた不審者ともみあっているうちに彼を射殺してしまう。その男には妻と女児カナがあり、女児と妻とは血のつながりは無い。海島はその女児が大人になるまで資金援助をすると申し出る。そのために闇のアルバイトをする。

 彼は息子のハルキと二人暮らしで、ハルキは転校を繰り返しており盗みが常習化している。表札からは妻の名前が黒い太い線で消されているが、それがどんな原因でそうなったのかは明らかにされない。

 アイカワミツオは葛生事件(トモキの妻子殺害事件)の犯人であり、十代でありながら無期懲役の判決を受ける。

 この判決に対し双方が上訴しないで確定するが、それが第一審か控訴審か不明。トモキは検事から「相場」という説明をされたと言う。

 恭子は人形作家である。ミツオに強い関心を持つ。それをミツオの母が自殺したこと、父との関係が破綻していることからだ。このミツオの設定は光市事件そのものである。

 恭子から言わせると自殺は自分への殺人者であると言う。
 弁護士に手紙を何通か託した後、弁護士から伝言を得る。それは「これから生まれてくる人間にも僕のことを覚えていてほしい」という一言だったが、それから文通が始まり、面会も重ね、養子縁組する。

 通常なら、支援、面会のために養子縁組することはそれほど珍しいことではない。

 サトは「あこがれ」のトモキを追っていて、彼が結婚して子どももいることを知り、彼に近づき「幸せになってはいけない、復讐すべき」と説く。これは、自動車事故で子どもを三人失った夫婦が後に子どもができた時に「批判」されたことと似ている。メディアや「世間」は人の不幸を求め、そのポジションの不変を求めるのだ。

 犯罪被害者のポジションを世間が求めていることを暗示しているのかもしれない。メディアや世間は犯罪被害者の「不幸さ」を犯人への憎悪のエンジンとしており、憎みたいがために被害者には不幸でいてほしいのだ。それをサトは復讐のエンジンと看做しているように思える。

 トモキは「本来の自分の姿」を見失い、世間が「あるべき姿」とみなす自分に同化していく。

 これは死刑存置国特有の発想かもしれない。死刑にならない場合、みずからが死刑を執行するという発想である。その発想に縛られるのだ。

 ミツオは出所し恭子と生活を始めるが、恭子はアルツハイマー症が進行していて、結果として介護することとなる。恭子は閉山になった炭鉱の出身で、介護に限界を感じたミツオは恭子をそこに連れて行く。彼なりの結果の出し方を決意していたのかもしれない。

 恭子のミツオへの養子縁組の申し出は、すでに発病していた恭子が介護者を求めてした行為ではないかと疑われることもあるだろう。ミツオは生活費を得るために仕事を探し、そこで殺人者のレッテルを自覚するに至る。

 恭子の故郷は無人の荒廃した炭鉱住宅であり、そこにトモキとサトが追ってくる。
 「復讐」を為そうとする二人とミツオの抗争の中で恭子が二人の行為によって命を落としてしまう。

 その恭子を山崎ハコが演じているのだが(第25回高崎映画祭最優秀助演女優賞受賞)、彼女の歌「望郷」「ヨコハマ」「織江の唄」を連想してしまうのは「雑念」なのだろうか?

 トモキの妻子はトモキが「壊れた」と言い出て行ってしまう。
 その残された部屋でサトと同居する。しかし、外では車に乗ったミツオがずっと無目的に監視している。彼は「復讐の復讐」を考えている。

 カナは母が亡くなった後、海島から送金が無くなったことを訝しみ、海島の家に行く。そこで海島の死を知る。海島は危険なアルバイト(人を死なせる)の結果殺されていまったのだ。カナは未婚で妊娠しており臨月を迎えていて金銭を必要としていた。カナは海島の部屋のトイレのタンクで亡くなった彼が隠していた拳銃を見つける。

 カナは偶然ミツオの車の車上荒らしをしていて、ミツオに咎められ拳銃で撃ってしまう。
 ミツオは撃たれながらも「子どもによくない」とカナから拳銃を取り上げる。

 「復讐」を決意したトモキは突然家を出て、車のところにいるミツオの所に行く。ミツオも直感したのか、あるいは運命的な帰結を求めたのか、車を出す。その後カナは陣痛を感じ救急車を呼ぶ。

 トモキはミツオをナイフで刺し、ミツオは拳銃でトモキを撃ち二人とも死亡する。ミツオは動機について「自分でもわからない」と言う。

 ようやく追いついたサトは死んだトモキを抱き慟哭する。

 この作品は4時間36分という長さを持ち、九章にわかれている。その最終章は「ヘヴンズストーリー」とタイトルされている。そこでは、多くの人が死者と再会する。それが犯罪被害者の唯一の願望であったことが分かる。カナも女児を出産する。

 そして、殺人ということ、人が死ぬということの日常性と重大性がテーマだということも分かる。

 また、エンドロールで流れる歌がある。TenkOが歌う「生まれる前の物語」で監督が作詞をしている。その歌詞の内容が映画の背景を語っている。その歌には、監督も言っているように「語りすぎた」面があるかもしれない。

 ただ刑事政策的には疑問もある。
 無期懲役の平均受刑年数は30年なので、社会復帰が早すぎるように思える。また、出所が新聞報道されることはほとんどないし、出所後の所在もなかなかつかめないと思う。

 それらを無視できるほどの説得力があったか?というとなかったと言わざるを得ない。なぜならその長い刑期の間に呻吟を続けざるをえないのが犯罪被害者の悲惨さであるからだ。また、その長さは犯罪被害者が呻吟していることを世間が忘れる時間でもあるからだ。

 また、この出所した加害者と犯罪被害者との関係を扱ったテーマは、ジャン・ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ兄弟が監督と脚本を担当した『息子のまなざし』(原題はLe Fils,2002)ですでに提示されていたことを付け加えておく。

監督 瀬々敬久、脚本 佐藤有紀、出演 寉岡萌希、長谷川朝晴、忍成修吾
心中天網島

艶気婚

 元々「心中立て」は衆道からおこったとされているが、男女の心中は1600年代から1700年代にかけて大変増加する。その原因を田中優子は「急激に貨幣経済が浸透したため」と言う。また、江戸時代の結婚が「生活のため」のものが多かったことも一因かもしれない。

 江戸時代、現在で言う恋愛結婚を「艶気婚」と書き「うわきこん」と言った。恋愛することは「うわき」なのである。恋愛と現実生活の結婚を別に考えていたとも言える。ただその状況が現在と置きかえられないのは、「銘銘稼ぎ」あるいは「銘銘過ぎ」と言って家計そのものが夫婦で別々だったからだ。

 また、「敷金」と言った持参金や、持参道具類は、あくまで妻のもので、離婚するときはすべて返さねばならない。しかも(苗字がある場合)別姓である。子ども達は地域で育ち、「血」(笑)を重んじないから、処女性も問われないし、父親を問うという「風習」もなかったし、里子・養子縁組は頻繁に行われた。

 あくまで資産のある商家の話だが、持参金目当てや生活目当てで結婚することはけして珍しいことではなかったし、それを双方が企図するから結婚・離婚が繰り返された。さらに商売としての「仲人業」もたいへん盛んになった。長男家督相続もなかったし、女房・主婦の地位は一家の柱として大事な役目をもっていた。

 だから明治以降の婚姻という法律行為が多くの人を苦しめているのを見ると、なんとも救われない気持になる。結婚も、恋愛ももっと自由だったからだ。

 田中が心中の原因の多くを「急激に貨幣経済が浸透したため」としたのは言い得ているし、近松門左衛門の町人を題材にした心中物で金銭の絡まないものはない。

 しかし井原西鶴と近松との微妙な差を井上清が「日本女性史」(三一書房)の中でこう指摘している。

「恋愛がわりあい自由に考えられていたことは、西鶴の好色物をみてもわかる。それが西鶴より少しおくれた近松になると、西鶴と同じ題材をあつかっても、西鶴ならあっさり「恋」あるいは「好色」とするところを、近松は「不義」としてその不義が義理すなわち封建的な掟と衝突して悲劇になる。これは二人の作者の個性または(近松が武家出身という)階級性による見方の違いであるばかりでなしに、現実社会の二つの歴史的な面をそれぞれに反映している。」

 また、近松の描く心中についてこう述べる。

 義理と人情の矛盾は近松が好んでとりあげた題材であるが、その解決ならぬ解決として、近松は愛人たちに情死させる。遊女と町人の情死はたいてい男が金にまつわるところからおこるが、「万年草」や「生玉心中」は親の強制する結婚に反対するところから情死にいたる。

 「長女女腹切り」でも「親の許さぬ恋」をせめられて死ぬ。あるいは人妻が「不義」をするつもりはなくとも外部の偶然の事情で「不義」と認められても言い訳に困難な局面におかれ、結局情死、または情死同然の死に方をする。そこには解放された情の喜びはなく情が敗北してゆく姿がかかれている。

 情は敗北するのか…

生まれてくるもの
 話しを元に戻そう。
 今から40年ぐらい前に、現在の有楽町マリオンのところに「日劇」(「にちげき」と言って日本劇場のこと)という大きな劇場があり、その地下に「日劇文化」というミニシアターがあった。そこはATG(アートシアターギルド)系映画作品の上映館であった。

 ATGは1960年代から1980年代にかけて、良質のアート系映画を年会費を払って割安の価格で観せようというひとつのムーブメントだったのだ。丁度、学生運動、ベトナム反戦運動、自主演劇などの高揚からたいへん多くの観客を集めた。

 私がそこで「心中天網島」を観たのは中学3年の時だった。

 その映像美に魅せられ、(入替制などというものはなかったので)続けて二度観た。無論映画の映像美に魅せられたのだが、監督ではなく岩下志麻のファンになってしまい、その後も「婉という女」「はなれゴゼおりん」「鑓の権三」などを観て、ますますその魅力に引きこまれた。

 今回神保町シアターで当作品が上映され、待ちきれなくて一番最初の回に観に行った。
 心中天網島のひとつの面は、妻おさんの愛情である。
 夫治兵衛を死なせたくないという「愛情」である。
 遊女小春と深い中になると心中するという確信があり、それを防ぎたい一心で小春に手紙を送る。
 小春はそれに応え、愛想尽かしを演じる。
 ところが今度は小春が身請けされると聞く。
 おさんは今度は小春が死ぬと確信する。
 そして、その死を防がねばならないと思うのである。
 商売上の金銭、そして自分が持ってきた持参金や着物などのありったけをかき出し、夫に小春を身請けしろと言う。  しかしその先が見えないのである。
 田中優子はそこが好きだと言う。
「人間であろうとすると妻ではなくなり、財産も豊かな生活も失う。財産も妻の座も何もかも自分のものを守りとおそうとすると、人間でなくなる」

 そして、おさんは愛する人がいる故幸せだと言う。(集英社新書「江戸の恋」p.148)

 結局誰も義理を通せない。おさんにしても実家への義理を通せない。
 「アア悲しやこの人を殺しては。女同士(どし)の義理立たぬ」(岩波『近松浄瑠璃集上』p.374)と小春は女同士の義理を通せない。
 治兵衛は夫として「子までなした二人が中に、なんのそなたが憎かろう」という妻おさんへの義理が通せない。またおさんが従姉妹であるため兄弟・眷属への義理も果たせない。
 そして愛する子への義理も果たせない。
 今回の再映で驚いたのは粟津潔の美術である。

 40年以上前に観た時は美術を観る余裕がなかったのだ。今回はその美術の凄さに圧倒された。そして武満徹(脚本にも参加している)の音楽。こんな凄い映画があったのだと思う感慨は、郷愁とともにあまりに切ない。また岩下志麻の美しさ、特におさんを演じているときの美しさは凄惨ささえ感じる美しさである。

 小春は死にゆくなかで何度も「今度生まれてくるときは、遊女だけには生まれまい」と言う。

 遊女は「生まれてくるもの」なのだ。             2009年03月17日2009年03月16日
愛を読むひと

 ゲッペルスは非識字率の高い国で最も効果のある宣伝は映画だとし、プロパガンダ映画を量産した。日本の軍部もそれを模倣し「日本ニュース」というニュース映画を量産する。

 ベルサイユ条約の賠償金で疲弊したドイツは、大量の失業者の出現と猛烈なインフレに見舞われるが、その中で求めた職がSSだった場合、それは何を意味するだろう。しかも二重のハンディを負っている者として。

 二重のハンディのひとつは女ということであり、もうひとつはこの映画の大きなテーマになっているものである。

 それは階層を表現しているのかもしれないし、不運を代弁しているのかもしれない。

 その中で戦争犯罪はどう問われるのか?

 その女は多くの死に関わっている。その死は、「つくられた死」に他ならない。

「死は本来(略)悲しまれるべき性質をもつゆえに、死の日常化は、いつしか死の平均化を生み、やがてその圧倒的な量による反応麻痺が結果する。」(高橋和巳著『死者の視野にあるもの』)

 女は大量死の惹起の根拠を「秩序」と言う。

 しかしその女は絶対的な責任を持つものではなかった。しかし、その責任を負わされる。それは女が「もうひとつのハンディ」をあきらかにしようとしないからだ。

 ひとり青年だけがそのハンディを知っている。そしてそのハンディをあきらかにすれば女の犯罪性は激減することを知っている。しかし、彼は女が命を賭けてまでそのハンディをあきらかにしないだろうことを予想し、その心情を尊重する。

 そこには多くの差別と悲しみが沈殿している。

 女は多くの文学を好み、その文学に対し意見を持つことを青年は知っている、故に心情を尊重する。その尊重は彼を朗読者にする。

 加害者と被害者の溝は埋まらない。戦争に翻弄された多くの悲しみだけが澱みを増す。

監督 スティーブン・ダルドリー
脚本 デヴィッド・ヘア
原作 ベルンハルト・シュリンク
備考
 邦題の「愛…」はよくない。原題は The Reader(Der Vorleser) である。また言語が英語であるが、やや違和感のある英語で、ドイツ語なまりの英語とのことである。