恋文
「日本」の女の哀しみ…
「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ、石を擲(なげう)て」(ヨハネ傳福音書8.1.7)
この作品の全体を覆っているのは、戦争である。それも太平洋戦争ばかりではなく、その後の冷戦の影も小さくない。
ひとりは海軍兵学校から戦地へ行き復員してきた元軍人。そして生きる意味を失っている男である。
もうひとりは進駐軍兵士のオンリーとなり子を生し、兵士の帰国後その子を死なせてしまう女である。
その男は郷里から東京へと出てきたはずのその女を捜している。
その女は、子どもの死後送金が途絶えた異国の兵士に手紙を出そうとしている。
渋谷三角と言われたところに「恋文横丁」があり、そこに英文手紙の代筆業者がいる。男と女はそこで不遇な再会をする。
男は敗戦後5年にわたって探していた女と再会し、女がアメリカ兵士に送金をせがむ手紙を代筆させたことを知っている。男は優しくなれない。今まで心の奥底に蟠らせてきた怨念や慙愧の念を露吐する。それはその女に対する心情ばかりではない。自らの人生に対する心情でもある。しかし唯一の救いが、救いではなくなった時にその怒りは奥底から天空へと放たれる。
女は、表情を微かにか変えずに、そのおぞましい言葉を聞き続ける。
「あなたが付き合っているのは、あなたの夫を殺したアメリカ兵かもしれない」
女が表情を変化させないのは、本人が言うように「弁解できない」からであろうし、その女が辿らざるを得なかった刻苦を如実に物語っているからかもしれない。
戦争の「影」が薄いからなのだろうが、兄貴思いの弟がその二人を結びつけようとする。
しかし男にはそれができない。敗戦後すべての価値が逆転し、それにすぐ順応するような器用さは持ち得ていない。
「我々は軍人だったし…」と言った、恋文代筆業を誘った兵学校時代の同級生が聖書の言葉を吐く。
「なんぢらの中、罪なき者まづ、石を擲て」
この日本で、戦前・戦中・戦後の女がどうあったのか?それを静かに表している。
三界に家無く、好きな人への思いを諦めさせられ、好きでもない男と結婚させられ、法的無能力と姦通罪の中で子どもを産むことを強いられ、そして戦中・戦後の混乱を背負わせられ…
監督は田中絹代で、彼女の監督第一作である。『夜の女たち』『武蔵野夫人』(溝口健二)『おかあさん』(成瀬巳喜男)『煙突の見える場所』(五所平之助)で戦争に翻弄される女を演じてきた田中絹代である。
そして、この作品の中には一通だけ「恋文」が出てくる。
「恋文」 新東宝 1953年12月13日封切 白黒96分
原作丹羽文雄、脚本木下恵介、監督田中絹代
出演 森雅之、久我美子、宇野重吉、香川京子
コンテは成瀬巳喜男が作ったと言われている。他田中を応援するためかスタッフ、脇役も豪華。
映画中では道子という役だが、とにかく久我美子が可哀想で可哀想で切なくなる作品。彼女の表情を変えない演技が見事で本当に悲しみを誘う。ラストで閉じた瞳を静かにあけるがその瞳の哀しみの深さは作品を美しいものに仕上げている。映画の完成度はけして高くないし、当時の評価も高くないが、久我美子の哀しみが、時代の哀しみであり、しかもすでに遅れた哀しみなのだと思った時に映画の美しさがひしひしと伝わってくる佳作である。
また、昭和20年代の渋谷、渋谷駅、銀座数寄屋橋、日比谷公園、新宿駅、十仁病院が出てくる点で貴重でもある。2009.5

挽歌
憎めることの安楽さ
未見の作品の中で観たかった作品が「挽歌」と「女であること」であった。残念ながら「女であること」は観られなかった。
「挽歌」の森は生真面目な妻帯者を演じている。しかし、表情に大変陰影がある。久我美子の横顔や眉がたいへん印象に残る映像となっている。カメラは女優を撮るのではなく、被写体にせりふ以外の方法で語らせるのである。それが映画である。
兵頭怜子(久我)はかなり冒険的な生活を送っている。その冒険性は若さ特有の向こう見ずさであるし、左腕に障がいがあるせいかもしれないし、中途半端な存在、独身・女性・無職・親がかりといった中途半端な存在が原因かもしれない。
その「冒険性」は自己表現の屈曲したあらわれ方であるかもしれないし、自分の存在に対し制御できない焦りのせいかもしれない。
その不安定さと、冒険的存在が彼女に魅力を与えている。その魅力を一言で説明するなら「自由」だ。
ならば桂木(森)の役割とはなんだろう?
彼女の今までの環境にない存在であるがために屈曲や焦りを緩和できる可能性を感じる存在となるのである。彼女が自分の行動に脅威を感じるのは、恋をするからだ。これはけして自らではコントロールできない唯一の感情であり、コントロールできない感情を恋と言うのだ。
そして恋した男の妻に対する思慕の念が、より一層脅威になる。なぜなら憎悪できれば話は簡単だからだ…
恋した男に最も近い存在としての妻に興味を持つことは普遍的な心理である。対象の持ち物や、居住空間に対する関心に近いものがあるだろう。しかしモノではない。しかも憎めない対象である。
憎しみほど分かりやすい心情はない。
人に憎しみを持てることは実に単純で分かりやすい。しかしそれほど単純な現象は稀有である。
怜子は憎悪からも見棄てられる。
すると偽悪的にならざるをえない。終末を求めるしかなくなるのだ。彼女らにとって肉体的な関係など意味を持たない。偽悪的な段階を確認したり、自らの感情を拘束する手段でしかない。なぜなら、恋だからだ…
思春期以外の恋ほど始末の悪いものはない。
思春期の恋だったらセックスというステージで大きな転換を迎えられるが、思春期以外の恋ではほんの少し、関係性を確認する程度の行為でしかないからだ。
憎むこともできない、憎まれることもできない、しかし恋の心情は終わりを迎えない。どうしよう…
私たちは生きることによって夢を見ているのであろうか?
あるいは夢を見るために生きているのであろうか?夢とは自分の存在を確認する瞬間である。
怜子はリンゴ1個を夜汽車の車窓に乗せ、札幌へと向かう。
その心情を思ったとき、切なくて、切なくて耐えられなかった。滂沱たる涙が流れた。
なんでだろう…
なんでだろう…
人の行動の哀れさだろうか?人は自分を規定するために行動を伴う場合がある。その哀れさ、悲しさだろうか…
桂木は怜子が遠ざかる機会を作ったのではないか?阿寒でロッテで。彼も自分の恋と闘ってきたのだろうか?
自分の恋と闘わねばならないことほど残酷なことはない。だから思春期の恋が一番いい。
挽歌 1957年歌舞伎座
原作:原田康子
監督:五所平之助
脚本:八住利雄、由紀しげ子
撮影:瀬川順一
美術:久保一雄
備考:ラストが原作と異なる。それも決定的な違いである。比較はナンセンスであろう。 また、50年代初めの釧路、阿寒、札幌のロケーションは貴重である。
2009年02月09日
虚と虚映画「乱れ雲」に見る人と別れるということ
ふたつの心の虚(うろ)がある。
ひとつは得たものを失った虚である。もうひとつは元々あるはずのものを失った虚である。
得ていながら失ったものは愛情を共有していた夫である。元々あって失ったものは、自分の存在の根幹に関わる、あるいは生きてゆく上で必要だった論理の基層に関わるものである。人を死なせたという事実、その人の可能性を全否定してしまったという現実が人間性のある部分を失わせたのである。
その虚が発生した段階から夫を失った女は被害者と言われ、存在の根幹を失った男は加害者と言われるようになる。
そして、被害者とだけしか見られなくなり、加害者とだけしか見られなくなり、さらにそれを演じそれを生きることを強いられる。
被害者である女にとってその虚を埋めるのは加害者を憎悪することであり、他に術がない。加害者の虚を埋めるのは被害者の女が幸せになることである。
女は加害者を憎みきれない。事故が不可抗力であり男が誠意を示そうとするから憎みきれない。それは女にとって辛い。女は事故を、加害者を、あるいは自分の過去を、忘れたいと思う…幸福の記憶は時として害毒であるからだ。
男は被害者に幸せが訪れるとはけして思っていない。なぜなら死んだ人間が復活することがないことを知っているからだ。
女と男は孤独の中で呻吟する。
周囲が自分の問題で、自分を度外視して進行させるという群れの中にある深い孤独である。
賠償金のやりとりや、偶然の逢遇を重ねる内にお互いだけが虚を持っていることに気づいてゆく。その虚同士がぶつかり激しい言葉に繋がっていく。しかし、お互いの虚に気づいているという状態が共感になっていく。
喫茶店で忘れたライターを渡すシーンがある。
何も忘れたライターを渡す必然はないことを前提としている。そこでふたりは微かに笑いあう。
もう一生心から笑うことなどないと確信していたふたりが、お互いの情の“交換”の中で笑う。見ているものは胸が締め付けられる。このふたりの情の“交感”はけして幸福をもたらさないことを知っているからだ。
男は交感や共感がある特定の感情に変異していることに気づく。映画ではそれは示されない。
海外転勤という別れが確実になったときに、加害者はある決意を持って被害者に会いに行く。ある決意があるため努めて明るく振る舞う。ごく普通の関係を築くことができ、そのスタートに立てるのではないかという淡い願望のためである。ごく普通に世間にいくらでもある平凡でつまらない男女の出会いがあるのではいか、と思うのである。思いたいのである。
私は「原点」という。
このふたりには事故という原点がある。この原点はふたりが出会う契機となったものであるが、このふたりがけして相容れない関係になったものでもある。何かにつけ必ずこの原点に帰らねばならない。だからこのふたりにけして安楽はないのだ。
男は胸に秘める苦しさに耐えられず心情を表明する。しかし、それは原点に還る行為でもあるのだ。なぜなら女は男に夫の姿を投影しているからだ。そこにはふたつの意味がある。夫を失うことの原因となった加害者の姿と、同じ男性という加害者の姿である。しかし夫との生活には誰も否定できない希望と愛の生活があったのだ。
このふたりに、けして未来はない。それはこのふたりも分かっている。男は別れの言葉を吐き、女は背負っているものの重さに涙を流す。背負っているもの、それは思い出だ。そして哀しみだ。
ある詩人はこう言う。
かなしみは重量
だから
かなしみは空を飛べない
(木村まき「かなしみは」1984)
女は夫の幻影と被害者としてしか見られないこと、そして肯定すべきではない自らの心情の変化の苦しさから、夢を見る権利を追求する権利というはなはだささやかな冒険をしようと思い立つ。冒険と言えないならば、居場所の無いことへの救いを求める。
なぜなら救いは全ての忘却か、新しい舞台しかないからだ…無論全ての忘却があり得ないことは知っている。知っているもののそれしか術がない運命も悟っている。それは袋小路であり、けして達成されない課題でもある。
被害者は加害者に会いに行く。
そして、階段の上と下でお互いを見る。そのカットの美しさを誰が否定できよう。その美しさはけして幸福や安楽が存在しないことを前提としている美しさなのだ。その行為にほんの僅かな希望を見出したいという女の心情を誰が批判できようか?誰にもできない。なぜなら人には人として生きる権利が厳然としてあるからだ。
なぜ「原点」というのか?
なにかにつけ還らなければならないからだ。
女は夫への愛を忘れられない。夫からの愛を忘れられない。愛情の共感が忘れられない。さらに、その愛の上に、見ぬうちに失った子どもがいる。失った家庭が、失った住居がある。
男はある人の可能性を全て、またその人の周囲の人の夢や希望や笑いを奪ってしまったという罪科を忘れることはできない。逆に忘れることは自分の人間としての存在の根幹をさらに失うことであるからだ。
ふたりに原点を越える力は無い。
ふたりに原点を越える乱暴さはない。
女は夫の存在を、男は女の幸せを遺棄できないからだ。
ならばどんな道が残されているのか?
男は罪科にわだかまり続けることを誠意の表現とし、女は感情を殺して無為な生活を浪費することが被害者の生き方だと悟る。
汽車は走り、湖は静寂を保っている。
深く静謐な悲しみだけが胸に残る。
2009.5.28
「乱れ雲」東宝 1967.11.18封切り
監督:成瀬巳喜男、脚本:山田信夫、音楽:武満徹、出演:加山雄三、司葉子
備考
私が20代の半ば並木座で偶然観た時、終映とともに多くの人のため息をきいたことを覚えている。なぜ偶然だったのか?それは加山雄三だったからである。彼に対し批判的だったからだ。しかしそれが私の偏見だったことは上映が開始しすぐに気づいた。逆に加山雄三という人は幸せな人である。「乱れる」「乱れ雲」(ともに成瀬)「赤ひげ」(黒澤)に出ているからだ。司葉子はたいへん美しい。あの表情の雄弁さは成瀬の力なのだろうか…そういえば2003年イタリア映画祭出品作の「無邪気な妖精たち」(Le fate ignorant:監督・原案・脚本フェルザン・オズペテク)にテーマが似ている。こちらは亡き夫の面影を追っていくと夫の「愛人」と出会い、その「愛人」にノスタルジーを感じるというものだった。「愛人」への憎しみと夫が愛した対象へのノスタルジーという複雑な感情表現をマルガリータ・ブイが好演している佳作である。この作品でも女と「愛人」の間に特殊な感情が芽生える。