
挽歌
憎めることの安楽さ
未見の作品の中で観たかった作品が「挽歌」と「女であること」であった。残念ながら「女であること」は観られなかった。
「挽歌」の森は生真面目な妻帯者を演じている。しかし、表情に大変陰影がある。久我美子の横顔や眉がたいへん印象に残る映像となっている。カメラは女優を撮るのではなく、被写体にせりふ以外の方法で語らせるのである。それが映画である。
兵頭怜子(久我)はかなり冒険的な生活を送っている。その冒険性は若さ特有の向こう見ずさであるし、左腕に障がいがあるせいかもしれないし、中途半端な存在、独身・女性・無職・親がかりといった中途半端な存在が原因かもしれない。
その「冒険性」は自己表現の屈曲したあらわれ方であるかもしれないし、自分の存在に対し制御できない焦りのせいかもしれない。
その不安定さと、冒険的存在が彼女に魅力を与えている。その魅力を一言で説明するなら「自由」だ。
ならば桂木(森)の役割とはなんだろう?
彼女の今までの環境にない存在であるがために屈曲や焦りを緩和できる可能性を感じる存在となるのである。彼女が自分の行動に脅威を感じるのは、恋をするからだ。これはけして自らではコントロールできない唯一の感情であり、コントロールできない感情を恋と言うのだ。
そして恋した男の妻に対する思慕の念が、より一層脅威になる。なぜなら憎悪できれば話は簡単だからだ…
恋した男に最も近い存在としての妻に興味を持つことは普遍的な心理である。対象の持ち物や、居住空間に対する関心に近いものがあるだろう。しかしモノではない。しかも憎めない対象である。
憎しみほど分かりやすい心情はない。
人に憎しみを持てることは実に単純で分かりやすい。しかしそれほど単純な現象は稀有である。
怜子は憎悪からも見棄てられる。
すると偽悪的にならざるをえない。終末を求めるしかなくなるのだ。彼女らにとって肉体的な関係など意味を持たない。偽悪的な段階を確認したり、自らの感情を拘束する手段でしかない。なぜなら、恋だからだ…
思春期以外の恋ほど始末の悪いものはない。
思春期の恋だったらセックスというステージで大きな転換を迎えられるが、思春期以外の恋ではほんの少し、関係性を確認する程度の行為でしかないからだ。
憎むこともできない、憎まれることもできない、しかし恋の心情は終わりを迎えない。どうしよう…
私たちは生きることによって夢を見ているのであろうか?
あるいは夢を見るために生きているのであろうか?夢とは自分の存在を確認する瞬間である。
怜子はリンゴ1個を夜汽車の車窓に乗せ、札幌へと向かう。
その心情を思ったとき、切なくて、切なくて耐えられなかった。滂沱たる涙が流れた。
なんでだろう…
なんでだろう…
人の行動の哀れさだろうか?人は自分を規定するために行動を伴う場合がある。その哀れさ、悲しさだろうか…
桂木は怜子が遠ざかる機会を作ったのではないか?阿寒でロッテで。彼も自分の恋と闘ってきたのだろうか?
自分の恋と闘わねばならないことほど残酷なことはない。だから思春期の恋が一番いい。
挽歌 1957年歌舞伎座
原作:原田康子
監督:五所平之助
脚本:八住利雄、由紀しげ子
撮影:瀬川順一
美術:久保一雄
備考:ラストが原作と異なる。それも決定的な違いである。比較はナンセンスであろう。 また、50年代初めの釧路、阿寒、札幌のロケーションは貴重である。
2009年02月09日