虚と虚映画「乱れ雲」に見る人と別れるということ
ふたつの心の虚(うろ)がある。
ひとつは得たものを失った虚である。もうひとつは元々あるはずのものを失った虚である。
得ていながら失ったものは愛情を共有していた夫である。元々あって失ったものは、自分の存在の根幹に関わる、あるいは生きてゆく上で必要だった論理の基層に関わるものである。人を死なせたという事実、その人の可能性を全否定してしまったという現実が人間性のある部分を失わせたのである。
その虚が発生した段階から夫を失った女は被害者と言われ、存在の根幹を失った男は加害者と言われるようになる。
そして、被害者とだけしか見られなくなり、加害者とだけしか見られなくなり、さらにそれを演じそれを生きることを強いられる。
被害者である女にとってその虚を埋めるのは加害者を憎悪することであり、他に術がない。加害者の虚を埋めるのは被害者の女が幸せになることである。
女は加害者を憎みきれない。事故が不可抗力であり男が誠意を示そうとするから憎みきれない。それは女にとって辛い。女は事故を、加害者を、あるいは自分の過去を、忘れたいと思う…幸福の記憶は時として害毒であるからだ。
男は被害者に幸せが訪れるとはけして思っていない。なぜなら死んだ人間が復活することがないことを知っているからだ。
女と男は孤独の中で呻吟する。
周囲が自分の問題で、自分を度外視して進行させるという群れの中にある深い孤独である。
賠償金のやりとりや、偶然の逢遇を重ねる内にお互いだけが虚を持っていることに気づいてゆく。その虚同士がぶつかり激しい言葉に繋がっていく。しかし、お互いの虚に気づいているという状態が共感になっていく。
喫茶店で忘れたライターを渡すシーンがある。
何も忘れたライターを渡す必然はないことを前提としている。そこでふたりは微かに笑いあう。
もう一生心から笑うことなどないと確信していたふたりが、お互いの情の“交換”の中で笑う。見ているものは胸が締め付けられる。このふたりの情の“交感”はけして幸福をもたらさないことを知っているからだ。
男は交感や共感がある特定の感情に変異していることに気づく。映画ではそれは示されない。
海外転勤という別れが確実になったときに、加害者はある決意を持って被害者に会いに行く。ある決意があるため努めて明るく振る舞う。ごく普通の関係を築くことができ、そのスタートに立てるのではないかという淡い願望のためである。ごく普通に世間にいくらでもある平凡でつまらない男女の出会いがあるのではいか、と思うのである。思いたいのである。
私は「原点」という。
このふたりには事故という原点がある。この原点はふたりが出会う契機となったものであるが、このふたりがけして相容れない関係になったものでもある。何かにつけ必ずこの原点に帰らねばならない。だからこのふたりにけして安楽はないのだ。
男は胸に秘める苦しさに耐えられず心情を表明する。しかし、それは原点に還る行為でもあるのだ。なぜなら女は男に夫の姿を投影しているからだ。そこにはふたつの意味がある。夫を失うことの原因となった加害者の姿と、同じ男性という加害者の姿である。しかし夫との生活には誰も否定できない希望と愛の生活があったのだ。
このふたりに、けして未来はない。それはこのふたりも分かっている。男は別れの言葉を吐き、女は背負っているものの重さに涙を流す。背負っているもの、それは思い出だ。そして哀しみだ。
ある詩人はこう言う。
かなしみは重量
だから
かなしみは空を飛べない
(木村まき「かなしみは」1984)
女は夫の幻影と被害者としてしか見られないこと、そして肯定すべきではない自らの心情の変化の苦しさから、夢を見る権利を追求する権利というはなはだささやかな冒険をしようと思い立つ。冒険と言えないならば、居場所の無いことへの救いを求める。
なぜなら救いは全ての忘却か、新しい舞台しかないからだ…無論全ての忘却があり得ないことは知っている。知っているもののそれしか術がない運命も悟っている。それは袋小路であり、けして達成されない課題でもある。
被害者は加害者に会いに行く。
そして、階段の上と下でお互いを見る。そのカットの美しさを誰が否定できよう。その美しさはけして幸福や安楽が存在しないことを前提としている美しさなのだ。その行為にほんの僅かな希望を見出したいという女の心情を誰が批判できようか?誰にもできない。なぜなら人には人として生きる権利が厳然としてあるからだ。
なぜ「原点」というのか?
なにかにつけ還らなければならないからだ。
女は夫への愛を忘れられない。夫からの愛を忘れられない。愛情の共感が忘れられない。さらに、その愛の上に、見ぬうちに失った子どもがいる。失った家庭が、失った住居がある。
男はある人の可能性を全て、またその人の周囲の人の夢や希望や笑いを奪ってしまったという罪科を忘れることはできない。逆に忘れることは自分の人間としての存在の根幹をさらに失うことであるからだ。
ふたりに原点を越える力は無い。
ふたりに原点を越える乱暴さはない。
女は夫の存在を、男は女の幸せを遺棄できないからだ。
ならばどんな道が残されているのか?
男は罪科にわだかまり続けることを誠意の表現とし、女は感情を殺して無為な生活を浪費することが被害者の生き方だと悟る。
汽車は走り、湖は静寂を保っている。
深く静謐な悲しみだけが胸に残る。
2009.5.28
「乱れ雲」東宝 1967.11.18封切り
監督:成瀬巳喜男、脚本:山田信夫、音楽:武満徹、出演:加山雄三、司葉子
備考
私が20代の半ば並木座で偶然観た時、終映とともに多くの人のため息をきいたことを覚えている。なぜ偶然だったのか?それは加山雄三だったからである。彼に対し批判的だったからだ。しかしそれが私の偏見だったことは上映が開始しすぐに気づいた。逆に加山雄三という人は幸せな人である。「乱れる」「乱れ雲」(ともに成瀬)「赤ひげ」(黒澤)に出ているからだ。司葉子はたいへん美しい。あの表情の雄弁さは成瀬の力なのだろうか…そういえば2003年イタリア映画祭出品作の「無邪気な妖精たち」(Le fate ignorant:監督・原案・脚本フェルザン・オズペテク)にテーマが似ている。こちらは亡き夫の面影を追っていくと夫の「愛人」と出会い、その「愛人」にノスタルジーを感じるというものだった。「愛人」への憎しみと夫が愛した対象へのノスタルジーという複雑な感情表現をマルガリータ・ブイが好演している佳作である。この作品でも女と「愛人」の間に特殊な感情が芽生える。