ヘルマン・ヘッセ翻訳の謎『クヌルプ』 鹿のゐる水車小屋?
クヌルプはロートフースの奥さんとの「危険な関係」を予想し旅に出ようとする。そして、シュヴァルツヴァルトを横断することは雪が深いからまだ無理で谷に沿って小さな町をたどって行こうと考える。そこで、
植村敏夫訳「(下の川に沼(ママ)うて四時間もゆくと、)あの鹿のゐる水車小屋につく。あすこはここからいって最初の安全な休息所だが、あすこでなら天気がわるくても一日や二日泊めてもらへるであろう」と考える。
この「鹿のゐる水車小屋」が分からない。
泊めてもらへると言うのだから人がいて管理しているように思える。
それにしてもなぜ鹿なのか、野生の鹿が周りを飛び回っているのか、それともペットか客寄せで飼っているのか?まさかメルヒェンじゃあるまいし鹿の主人が出てくるはずはなかろう。蛇足ながら「あそこ」のことを「あすこ」というのは東京弁ではなかろうか?
ヘッセのものにも、他のワルツ(放浪あるいは遍歴職人)の話にも水車小屋はよく出てくる。
旅の途中の無料の宿泊場所としてだ。むろん無人である。現代でも減っているとはいえワルツはいて、時として野宿をすると言う。彼らは決められた服装と帽子を被っているので外見ですぐ分かると言う。
その鹿のところを他の訳で見てみよう。
相良守峯訳「(同)ヒルシェンミューレがあるが、彼処は最初の安全な休み場だし、天気都合が悪ければ、一、二日泊めても貰へよう」
相良守峯訳はレーバーシュパッツェン同様ヒルシェンミューレと逃げている。訳していないのと同じだ。ただしここでは建築物として存在しているようなニュアンスがあり、固有名詞の可能性を示している。
芳賀壇訳「(同)ヒルシェンミューレに出る。これこそ差し當り先ずとっつきの安全な休養地なのだ。あすこなら、いざ天気が悪いといふ場合、一日や二日位泊めてくれる所はいくらでもある」
芳賀壇訳では地名の扱いである。その地へ行けば泊めてくれる所はいくらでもある、としている。芳賀壇訳も「あすこ」と言っている。
高橋健二訳「(同)ヒルシュミューレが最初の安全な休み場だった。天気が悪ければ、そこに一日二日泊めてもらえるだろう」
ヒルシュミューレと他の訳と少し違う。ここでは施設名の印象を持つ。
日本ヘルマン・ヘッセ友の会研究会全集「(同)ヒルシェンミューレが最初の確実な休み場だ。あそこなら天気が悪いときに彼を二、三日間面倒見てくれる人がいるだろう」
ここではあきらかに人がいる施設として訳している。しかしヒルシェンミューレと逃げているし訳注もないので、読者はヒルシェンミューレが何だか分からない。分からないのが私ひとりではないことを願うが…
原文を見てみよう。
Die Hirschenmühle,vier Stunden weiter unten am Fluß,war der erste sichere Rastort,dort würde man ihn bei schlechtem Wetter ein ,zwei Tage behalten
直訳「下流沿って4時間行くと Die Hirschenmühle がある。一番最初の確実な休憩場所だ。あそこだったら天気が悪くなっても1,2日は滞在できる」(behaltenに「滞在」の語を当てたが保ち続けるという意味があるので、全集のように面倒を見るという訳の方が相応しいかもしれない。また全集では二、三日となっているが原文ではein ,zwei Tageとなっているので1,2日なのだが慣習的にそう訳すのかも知れない。例えば最初の夜がゼロ日と数えるように)
ヒルシェンミューレには定冠詞のDieがついているではないか、固有名詞だ。
Hirsch, Hirscheはまさしく「鹿」のことだし、mühleは製粉機のことであるがそれだけでも水車小屋を表す。だから「鹿の水車小屋」と訳すことはできるのだ。
ネットなどを見ると確かに宿泊施設の名称だが、ドイツで発達しているユースホステルとは違う。しかし、詳しいことは分からない。
映画『鬼火』
同タイトルの映画作品で有名なのはルイ・マルが監督したもので、私も外国語映画のオールタイムベストテンに入る好きな作品だ。
これはそれとは違う。
併映用の小品である。
かつて映画産業の隆盛期、日本には五社の映画会社があって週に1本の新作が封切られていた。そしてそれに伴う作品(併映作品)も作っていたので、週に2本の新作が作られていた。だから年間500本の新作が作られていたのだ。
映画会社の体力差もあるが、併映作品は40分程度の小品が多かったが、その多くは埋もれてしまい今ではデータしか残っていないものも少なくない。
ガス集金人が江戸川近くの場所に配置換えになり、そこでガス料金をためている一軒家を訪れる。
そこは脊髄カリエスで寝たきりの夫と看病する妻の二人暮しで、たいへん貧しげである。
ガスを止めると薬が煎じられないと懇願する妻に、止めないために内金を立て替えることを条件に肉体関係を迫る。
それには伏線があり、同僚の集金人に「そういういい目を見た」という話を聞いたからだ。
集金人役の加東大介が秀逸。
下卑て、小さな権力をかざし、それでいて純情な面も小心なところもあるという役を演じている。
妻役は津島恵子、薄幸さが滲み出ていた。
集金人の脅迫に応じ、夫から帯を借りて、彼の下宿を訪れる。
集金人は寿司をとって待っている。
しかし、結局は逃げるようにして帰ってしまう。
そして、翌日抗議の意思を持って再訪問をするが、夫婦は心中しているという痛ましいストーリーである。
1956年作品。
原作:吉屋信子、監督:千葉泰樹、脚本:菊島隆三
集金人が銭湯で妻が尋ねてくることを想像するシーンがあるのだが、フィルムが逆焼きなのだ。
なぜだか見当もつかない。
風呂の鏡に映ったということだろうか…
同タイトルの映画作品で有名なのはルイ・マルが監督したもので、私も外国語映画のオールタイムベストテンに入る好きな作品だ。
これはそれとは違う。
併映用の小品である。
かつて映画産業の隆盛期、日本には五社の映画会社があって週に1本の新作が封切られていた。そしてそれに伴う作品(併映作品)も作っていたので、週に2本の新作が作られていた。だから年間500本の新作が作られていたのだ。
映画会社の体力差もあるが、併映作品は40分程度の小品が多かったが、その多くは埋もれてしまい今ではデータしか残っていないものも少なくない。
ガス集金人が江戸川近くの場所に配置換えになり、そこでガス料金をためている一軒家を訪れる。
そこは脊髄カリエスで寝たきりの夫と看病する妻の二人暮しで、たいへん貧しげである。
ガスを止めると薬が煎じられないと懇願する妻に、止めないために内金を立て替えることを条件に肉体関係を迫る。
それには伏線があり、同僚の集金人に「そういういい目を見た」という話を聞いたからだ。
集金人役の加東大介が秀逸。
下卑て、小さな権力をかざし、それでいて純情な面も小心なところもあるという役を演じている。
妻役は津島恵子、薄幸さが滲み出ていた。
集金人の脅迫に応じ、夫から帯を借りて、彼の下宿を訪れる。
集金人は寿司をとって待っている。
しかし、結局は逃げるようにして帰ってしまう。
そして、翌日抗議の意思を持って再訪問をするが、夫婦は心中しているという痛ましいストーリーである。
1956年作品。
原作:吉屋信子、監督:千葉泰樹、脚本:菊島隆三
集金人が銭湯で妻が尋ねてくることを想像するシーンがあるのだが、フィルムが逆焼きなのだ。
なぜだか見当もつかない。
風呂の鏡に映ったということだろうか…
劇団ダダン2014年度卒業公演『スゥィートホームソースゥィート』
この劇団を見始めてから7年ぐらいになる。
おそらく全ての定期公演と、不定期公演を見ていると思う。
役者が成長していくというメタ的な面白さも知った。
今回は「開かずの間説話」と金融資本主義の所産である疎外と孤独をミックスにし、それを濃い目のキャラ立てで解決するというコメディであったが、なかなか脚本と演出がよかった。
「開かずの間説話」に引きこもった金融資本主義の権化である娘をどう部屋から出すかが最大のテーマなのだが、「天の岩戸」よろしく外部でパフォーマンスが展開されるのだが、なぜその娘を救う(表面上の理由は職場放棄の矯正)のかという動機が極めて薄弱なところが面白かった。
ところがその戦争と名づけられたパフォーマンスは予定どおり功を奏さない。
そこで唐突に出てくるのが「とり憑」で、ホワイトナイトなのだ。
キャラ立てが濃く、ばかばかしいライトテイストのコメディーなのだが、長く見ている役者もいてその成長が見える分割り引かなきゃいけないと思うが、コメディーに弱い私でも結構楽しめた。
その時に笑いについて考えた。
落語と漫才の違いだが、漫才はその場で笑いをとるものであり、落語は終演後、あるいは何日か経って含み笑いをするものだと思う。
だからシェークスピアにしてもモリエールにしても、コメディーというと落語タイプか漫才タイプかという分類を自然としているから楽しめないのかも知れない。
また古くから「大宮デン助劇場」や「お笑い三人組」と言ったシチュエーションコメディーの土壌があるから、ヨーロッパ的なあるいはアメリカ的なコメディーがとっつきにくいのかもしれない。
しかしコメディーは本を書くのも、演出するのも難しい。
悲しみには普遍性があるが、笑いはそうではないからだ。
余談になるが鋭いエッセイを書く小谷野敦が著書『もてない男』の中で落語についてこう述べている。
「日本文化について何か言いたい人は、落語を聴かなければならない。落語を聴く習慣のない人物に日本文化を語る資格はない」(p.63)
脚本:清水美江、演出:対馬友希
この劇団を見始めてから7年ぐらいになる。
おそらく全ての定期公演と、不定期公演を見ていると思う。
役者が成長していくというメタ的な面白さも知った。
今回は「開かずの間説話」と金融資本主義の所産である疎外と孤独をミックスにし、それを濃い目のキャラ立てで解決するというコメディであったが、なかなか脚本と演出がよかった。
「開かずの間説話」に引きこもった金融資本主義の権化である娘をどう部屋から出すかが最大のテーマなのだが、「天の岩戸」よろしく外部でパフォーマンスが展開されるのだが、なぜその娘を救う(表面上の理由は職場放棄の矯正)のかという動機が極めて薄弱なところが面白かった。
ところがその戦争と名づけられたパフォーマンスは予定どおり功を奏さない。
そこで唐突に出てくるのが「とり憑」で、ホワイトナイトなのだ。
キャラ立てが濃く、ばかばかしいライトテイストのコメディーなのだが、長く見ている役者もいてその成長が見える分割り引かなきゃいけないと思うが、コメディーに弱い私でも結構楽しめた。
その時に笑いについて考えた。
落語と漫才の違いだが、漫才はその場で笑いをとるものであり、落語は終演後、あるいは何日か経って含み笑いをするものだと思う。
だからシェークスピアにしてもモリエールにしても、コメディーというと落語タイプか漫才タイプかという分類を自然としているから楽しめないのかも知れない。
また古くから「大宮デン助劇場」や「お笑い三人組」と言ったシチュエーションコメディーの土壌があるから、ヨーロッパ的なあるいはアメリカ的なコメディーがとっつきにくいのかもしれない。
しかしコメディーは本を書くのも、演出するのも難しい。
悲しみには普遍性があるが、笑いはそうではないからだ。
余談になるが鋭いエッセイを書く小谷野敦が著書『もてない男』の中で落語についてこう述べている。
「日本文化について何か言いたい人は、落語を聴かなければならない。落語を聴く習慣のない人物に日本文化を語る資格はない」(p.63)
脚本:清水美江、演出:対馬友希