劇団ダダン2014年度卒業公演『スゥィートホームソースゥィート』
この劇団を見始めてから7年ぐらいになる。
おそらく全ての定期公演と、不定期公演を見ていると思う。
役者が成長していくというメタ的な面白さも知った。
今回は「開かずの間説話」と金融資本主義の所産である疎外と孤独をミックスにし、それを濃い目のキャラ立てで解決するというコメディであったが、なかなか脚本と演出がよかった。
「開かずの間説話」に引きこもった金融資本主義の権化である娘をどう部屋から出すかが最大のテーマなのだが、「天の岩戸」よろしく外部でパフォーマンスが展開されるのだが、なぜその娘を救う(表面上の理由は職場放棄の矯正)のかという動機が極めて薄弱なところが面白かった。
ところがその戦争と名づけられたパフォーマンスは予定どおり功を奏さない。
そこで唐突に出てくるのが「とり憑」で、ホワイトナイトなのだ。
キャラ立てが濃く、ばかばかしいライトテイストのコメディーなのだが、長く見ている役者もいてその成長が見える分割り引かなきゃいけないと思うが、コメディーに弱い私でも結構楽しめた。
その時に笑いについて考えた。
落語と漫才の違いだが、漫才はその場で笑いをとるものであり、落語は終演後、あるいは何日か経って含み笑いをするものだと思う。
だからシェークスピアにしてもモリエールにしても、コメディーというと落語タイプか漫才タイプかという分類を自然としているから楽しめないのかも知れない。
また古くから「大宮デン助劇場」や「お笑い三人組」と言ったシチュエーションコメディーの土壌があるから、ヨーロッパ的なあるいはアメリカ的なコメディーがとっつきにくいのかもしれない。
しかしコメディーは本を書くのも、演出するのも難しい。
悲しみには普遍性があるが、笑いはそうではないからだ。
余談になるが鋭いエッセイを書く小谷野敦が著書『もてない男』の中で落語についてこう述べている。
「日本文化について何か言いたい人は、落語を聴かなければならない。落語を聴く習慣のない人物に日本文化を語る資格はない」(p.63)
脚本:清水美江、演出:対馬友希