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自らの文章のアーカイブと考えている

小川チケット
小川紳介没後10年 2002年1月

小川紳介のスゴイところは、そこに住んでしまうことである。

 映像表現の最高のカタチがドキュメンタリーだと常々思ってきたし、言って来た。映像という表現が求められているのは、「何を撮るか」ではなく「どう撮るか」にあるからだ。

 表現は意思の発露であり、感情を理論的に構成することであり、眼差しを向ける行為であるからだ。だからドキュメンタリーが映像表現の、表現の、映画の、最高形態だと思う訳である。

 ドキュメンタリーを撮る姿勢は、内に入ること、情況の中に入ることに他ならない。小川紳介も「現認報告書-羽田闘争の記録」の製作ノートでこう言っている。

「権力との衝突の際に(キャメラは)決して警察権力と学生との間に、横位置に、居るべきではなかった」

 小川の製作プロセスは撮り逃げではなく、そこに住んでしまうことであった。住むことによって初めてキャメラは横位置にならないことを証明したのだと思う。  住んでしまうこと、生活を「現場」に移すこと、それがどれほど深い意味があるか、小川の作品に接すると誰もが瞬時にして感得することであろう。「中」に入ることによって、人々が本当の言葉で話し始めるのだ。本当の言葉を聞くには、本当の言葉を聞く耳を準備しなくてはならない。それが「中」に入ることなのだ。

 しかし、外から「中」に入るのではない。「中」に入って初めて元々「中」に居た事を知るのである。その発見が言葉を見出し、顔を見出し、映像を紡ぎだすのだ。

2002年1月25日から2月15日まで アテネ・フランセ文化センター
小川しんすけ10年
分断された米国 不平等は必然ではない

ジョセフ・スティグリッツ(Joseph Eugene Stiglitzコロンビア大学教授、2001年ノーベル経済学賞受賞)がアメリカ合州国の不平等について分析している。

利益は私物化するのに損失(バブルやリーマンショック)は社会が負担するという、まがいものの資本主義によって、独占や寡占が進んだのは政策と政治の責任だと言う。

冷戦の終了によってイデオロギーと利害が非道な形で結び付き、ソビエトの逆相としての「小さな政府」へと振り子が振れ、企業関係者は規制撤廃を叫んだ。

よって企業助成は増え、貧困層の福祉は削減される。
製薬会社は何千億ドルも獲得したのに、メディケイド(低所得者向け医療制度)給付は制限される。

著しい不公正の代償を払ってきたのは米国経済であり、民主主義であり、社会である。
米国はなぜ若者の未来がこうもはっきりと親の所得や学歴で決まる先進国の一員になっているのか。正義の面でもおおきな隔たりがある。

米国の人口は世界の5%なのに、世界の全収監者の4分の1が米国人である。
正義は、ごく一部の人にしか手の入らない商品になった。
ウォール街の重役は08年危機で責任をとらないように報酬の高い弁護士を雇い、法制度を悪用し抵当権を行使し人々を強制退去させた。(私注:米国は居住権より抵当権者が強く、ローンや家賃の不払いがあるとすぐ警察権力によって立ち退かされる)
米国は平均寿命、健康状態、医療受診のいずれにおいても大きく分断された。

市場を市場らしく機能させ、利益誘導型の社会を終わらせなければならない。
不平等の問題は経済問題ではなく、政治問題。
富裕層の特権をなくし相応の税金を負担させることは現実的で公平。
教育や医療、インフラにもっとお金をかければ米国経済は今も、そして将来も力強さを増すだろう。

私見
 企業利益誘導型にシフトしようとしているアベノミクスを彷彿とする。
 法人税減税、消費税増税、福祉給付減額、子どもの貧困の増大など。

備考:6月29日付けNYタイムスに掲載されたものの抄訳が朝日新聞に掲載
映画『身も心も』 何かの残渣として…

 長田弘の詩『クリストファーよ、ぼくたちは何処にいるのか』の一節が読まれた時、ぞくっとした。

ぼくは既にして、誰も愛していない青年です。
そして、まだ一篇の詩も書いたことのない詩人です。
革命をただの一度も経験したことのない国で、
輝けるプロレタリアートとはいったい誰か、
ついに知ることさえできず、
しかも美しい革命をひとり夢みてきた、
ぼくは青年です。

 また、石川セリ、下田逸郎の歌う「SEXY」が効果的に使われる。
 これが切なくて、切なくて…

 この作品は永島暎子目当てで観に行ったのだが、映画作品として悪い作品ではなかった。

 50歳寸前の全共闘世代(私はこの言い方に違和感を覚える。なぜなら民青同盟も少なからずいたからだ)の残渣、しかも整理しきれない青春がテーマだ。

 ところがシーンは性愛シーンが多いのだが(後で成人指定だったと知る)、そのシーンに人生に性愛は重要だが性愛だけが目的ではないということが分かるのだ。

 つまり、性愛の前提には人間関係、あるいは思想があるということ。そこに激しく納得した。

 永島は当然として、かたせ梨乃もよかった。
 柄本明は党派の執行部に使われる不器用な人で刑務所に行く典型を表現していて切なかった。

 大学解体を訴えた者(奥田瑛二)が大学の教師になっていることを柄本は言う。奥田は器用サイドの人間だからだろう。「全共闘世代」の人の幾人かが、ちゃんと大学を卒業し公務員かなにかに就職していった事実を言っているような気もした。

「ゴダールはシナリオを用いなかった」と奥田は現在売れないシナリオライターをやっている柄本がかつて言った言葉を反復する。

 永島は「器用な人」の元カノで、かたせは「不器用な人」の元カノであった訳だ。ところがその四人がまともに話し合ったことがない。
 それは、革命思想や、共同幻想、共同体崩壊があったからだ。
 あの時代を反省できる人はいない。
 皆無だ。
 その挙句が内ゲバで、この作品では触れていない。

 「彼女」と「彼」は別の「相手」になって、過去を探る。
 その行為が必要だったときにできなかったからだ。

 あの時代、下働きで使い捨てにされた、あるいは自死したり、あるいは誤爆で亡くなったり、そういった人々へのレクイエムと思えた。

1997年
監督・脚本:荒井晴彦
原作:鈴木貞美
スクリプター:白鳥あかね

備考:脚本家荒井晴彦の初監督作品だが、自伝的作品。彼の脚本作品には『赫い髪の女』がある。また、『神聖喜劇』も脚本化している。
身も心も