
小川紳介没後10年 2002年1月
小川紳介のスゴイところは、そこに住んでしまうことである。
映像表現の最高のカタチがドキュメンタリーだと常々思ってきたし、言って来た。映像という表現が求められているのは、「何を撮るか」ではなく「どう撮るか」にあるからだ。
表現は意思の発露であり、感情を理論的に構成することであり、眼差しを向ける行為であるからだ。だからドキュメンタリーが映像表現の、表現の、映画の、最高形態だと思う訳である。
ドキュメンタリーを撮る姿勢は、内に入ること、情況の中に入ることに他ならない。小川紳介も「現認報告書-羽田闘争の記録」の製作ノートでこう言っている。
「権力との衝突の際に(キャメラは)決して警察権力と学生との間に、横位置に、居るべきではなかった」
小川の製作プロセスは撮り逃げではなく、そこに住んでしまうことであった。住むことによって初めてキャメラは横位置にならないことを証明したのだと思う。 住んでしまうこと、生活を「現場」に移すこと、それがどれほど深い意味があるか、小川の作品に接すると誰もが瞬時にして感得することであろう。「中」に入ることによって、人々が本当の言葉で話し始めるのだ。本当の言葉を聞くには、本当の言葉を聞く耳を準備しなくてはならない。それが「中」に入ることなのだ。
しかし、外から「中」に入るのではない。「中」に入って初めて元々「中」に居た事を知るのである。その発見が言葉を見出し、顔を見出し、映像を紡ぎだすのだ。
2002年1月25日から2月15日まで アテネ・フランセ文化センター
