映画『身も心も』 何かの残渣として… | leraのブログ

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映画『身も心も』 何かの残渣として…

 長田弘の詩『クリストファーよ、ぼくたちは何処にいるのか』の一節が読まれた時、ぞくっとした。

ぼくは既にして、誰も愛していない青年です。
そして、まだ一篇の詩も書いたことのない詩人です。
革命をただの一度も経験したことのない国で、
輝けるプロレタリアートとはいったい誰か、
ついに知ることさえできず、
しかも美しい革命をひとり夢みてきた、
ぼくは青年です。

 また、石川セリ、下田逸郎の歌う「SEXY」が効果的に使われる。
 これが切なくて、切なくて…

 この作品は永島暎子目当てで観に行ったのだが、映画作品として悪い作品ではなかった。

 50歳寸前の全共闘世代(私はこの言い方に違和感を覚える。なぜなら民青同盟も少なからずいたからだ)の残渣、しかも整理しきれない青春がテーマだ。

 ところがシーンは性愛シーンが多いのだが(後で成人指定だったと知る)、そのシーンに人生に性愛は重要だが性愛だけが目的ではないということが分かるのだ。

 つまり、性愛の前提には人間関係、あるいは思想があるということ。そこに激しく納得した。

 永島は当然として、かたせ梨乃もよかった。
 柄本明は党派の執行部に使われる不器用な人で刑務所に行く典型を表現していて切なかった。

 大学解体を訴えた者(奥田瑛二)が大学の教師になっていることを柄本は言う。奥田は器用サイドの人間だからだろう。「全共闘世代」の人の幾人かが、ちゃんと大学を卒業し公務員かなにかに就職していった事実を言っているような気もした。

「ゴダールはシナリオを用いなかった」と奥田は現在売れないシナリオライターをやっている柄本がかつて言った言葉を反復する。

 永島は「器用な人」の元カノで、かたせは「不器用な人」の元カノであった訳だ。ところがその四人がまともに話し合ったことがない。
 それは、革命思想や、共同幻想、共同体崩壊があったからだ。
 あの時代を反省できる人はいない。
 皆無だ。
 その挙句が内ゲバで、この作品では触れていない。

 「彼女」と「彼」は別の「相手」になって、過去を探る。
 その行為が必要だったときにできなかったからだ。

 あの時代、下働きで使い捨てにされた、あるいは自死したり、あるいは誤爆で亡くなったり、そういった人々へのレクイエムと思えた。

1997年
監督・脚本:荒井晴彦
原作:鈴木貞美
スクリプター:白鳥あかね

備考:脚本家荒井晴彦の初監督作品だが、自伝的作品。彼の脚本作品には『赫い髪の女』がある。また、『神聖喜劇』も脚本化している。
身も心も