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自らの文章のアーカイブと考えている

映画『イーダ』(IDA)におけるコルトレーンのNaima

 ポーランドの映画監督パヴェウ・パヴリコフスキ(Pawel Pawlikowski)の作品『イーダ』(IDA)で、ホテルのダンスルームで演奏していたコンボ(as,g,b,ds)がアフターアワーズでNaimaを演奏する。アルトサックスによるNaimaである。

 主人公の女性(イーダ)はそのコンボの演奏が気になり聞きに行く。
 そののち、バルコニーにいる二人が言葉を交わす。
「なんの音楽?」
「コルトレーン」
(スーパーインポーズ)

 その後、アルトを吹いていたプレイヤーともう誰もいないステージに戻る。
 するとプレイヤーはドーナツ盤のレコードをかける。
 それがコルトレーンの演奏するNaimaなのである。
 ふたりはダンスをする。
 彼女は素足である。

 さて、映画の設定は1962年である。
 私はその時期がやや気になった。かなり早いからだ。
 しかもドーナツ盤があったのかと思った。

 藤岡靖洋氏の著書『JOHN COLTRANE A Discography and Musical Biography』(英文377ページ)で調べた。
 最初のNaimaの録音は1959年4月1日ニューヨークであった。(本書p.130)
 驚く事に1959年12月2日のアトランティックのスタジオで録音されたNaimaがEP盤(ドーナツ)になっていて、そのレーベルの写真も掲載されている。(同p.139)パーソネルはウィントン・ケリー(p)、ポール・チェンバース(b)、ジミー・コブ(ds)である。

 このNaimaは以下のアルバム(LP)に収録されている。
John Coltrane/Giant Steps(Atl1311/SD1311)
John Coltrane/Odkaz(Supraphon(CS)1115 3286DZ)

備考 映画では他にEquinoxも演奏している。Coltraneに関する音曲の話になってしまったが、映画そのものもいい作品である。
IDA
映画『処女の泉』

 ベルイマンは映画を語ろうとする人間には必修科目の感がある。
 ただ私はあまり得意ではなかった。

 10月11日からユーロスペースでスウェーデン映画祭が開かれることと関係があるかどうかは分らないが、続けてベルイマンの作品が同所で上映されている。

 初めにやったときに観客の支持を受けたので、第二回を7月26日から二週間の期間で始めた。
 そこで二本目に観たのが『処女の泉』で初めてであった。一本目は『夏の遊び』

 私のベルイマンとの印象とかなり違ってちゃんとしたストーリー性のあるものだった。
 それというのも北欧のバラッズから持ってきたものだからだ。
 さらにキリスト教と対比させるためかオーディン神の信仰者も出てくる。オーディン神は『ニーベルンゲンの指輪』のヴォータンと同一視していいと思う。

 ストーリーを要約すると以下になる。
 主人公(マックス・フォン・シドー)は、敬虔な(おそらく)カトリックの富裕層の農夫。
 愛しているひとり娘が教会に蝋燭を奉納しにいく途中で強かんされ殺害される。
 その犯人が偶然シドー家に一泊を乞う。
 犯人が殺した娘の着ていた服を売ろうとして犯罪が発覚し、シドーが復讐するというストーリーである。

 シドーは神の沈黙をかなり激しく糾弾する。
 娘が殺されるときになぜ黙っていたのか?自分が復讐という罪を犯す時もなぜ黙っていたのか?と…これは遠藤周作の『沈黙』と通底する「宗教的」あるいは「神的」問題だ。
 しかも全く共通性の無いベルイマンの『沈黙』も連想してしまう。

 そしてシドーは、自らの罪を贖うためにここに教会を建てると誓う。
 ここのところは新約聖書マタイ16章18節後段の
「我この磐(いわ)の上に我が教会を建てん」
 をすぐ連想させる。
 この一節は無教会派の人たちから「捏造疑惑」の強いところだ。

 1960年の作品で、アカデミー、ゴールデングローブを受賞しキネ旬では一位になっている。
 モノクロームの美しさやカメラの美しさがある。
丁寧な映画作りに好感が持てる作品でもある。
 黒澤の『羅生門』に感銘を受けて作られたというが、私としてはテーマがよく見えない気がした。
それはラストで湧きいずる泉の意味が解らないかもしれない。

 この泉をヨハネ傳の第四章に求めると
「わが与ふる水は彼の中(うち)にて泉となり、永遠(とこしえ)の生命の水湧きいづべし」(14-)
から
「霊と真とをもて父を拝するとき来たらん、今すでに来たれり。父はかくのごとく拝する者を求めたまふ。神は霊なれば、拝する者も霊と真とをもて拝すべきなり」(23-)
 に繋がるメタファーなのだろうか…

Jungfrukällan(1960年スウェーデン)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:ウッラー・イーサクソン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
もうひとつの世界01


もうひとつの世界 Fuori dal mondo(1998年) 2002年5月

 2002年イタリア映画祭出品作

探すこと、求めること

こんな会話があった。

 神への愛は永遠だが、人への愛は限りがある。

 この言葉は次のようにも聞こえる

 幻想は自分で維持することができるが、現実のできごとは自分だけではどうしようもない…  

家族という形態を定義することは実に難しい。それが関係であるのか、形態であるのかさえ明確には判りにくい。現代のような高度に文明化した、あるいは機械化した社会では、それすら存在するかどうか疑わしい。

 しかし、この映画で探そうとしているものは、最も近い表現を使うと家族かもしれない。ところが誰も家族を知らない。突然に嬰児を抱くところから家族探しが始まるのだが、それは修道女のでも、クリーニング店店主のものでもない。

 嬰児のぬくもりと匂いが根源的な欲望をかき立てたとしても、その情動の行き先が家族を探したり、それを求めたりすることは違和感がある。なぜなら誰も家族を知らないからだ。もし家族が関係であるなら唯一嬰児のみがそれを留めているとも言えよう。彼から総てが始まるからだ。

 ファウストと判事から名付けられた捨て子の彼がいなかったら、この映画に登場してくる人々は誰も家族を探そうとしたり、求めようとしたりはけしてしない。なぜならそれが無い事が現代だと思っているからだ。  

 根源的な願望と自らが選んだはずの生き方に対する誠実さの間で修道女は悩む。そして自らへの忠誠心が自分の母親の深い孤独と損傷が土台になっていることも知るのである。

 誰も家族を知らない。誰も家族を探そうとしなかった。誰も家族を求めようとしなかった。誰も家族の存在を問おうとしなかったのだ。

 彼女の情動は彼女の裡にある規範を破壊する。それは見事に破壊される。その行為は、神に仕える生き方をけして否定するものではなく、遥かその上層にある行いであることを悟らせる。

 神への心情や行為は現代のものなのである。機械化され家族の存在を確認しようとしない現代でしか棲息できないシステム化された生き方なのだ。

 探すこと、求めること、それらの行為が実は自分の内面に向いていて、さらにそれらの行為が現代ではけしてあり得ないと感得した時に、修道女と店主は抱擁する。

 カメラはその二人の周りを回る。その映像はおそろしく寂しい。あたかも総ての終わりを表現しているかのようだ…そのシーンはクロード・ルルーシュの作品と対比させるために用いられたと思ったのは私の思い過ごしだろうか?…ルルーシュの男女は子供をきっかけにして知り合い性的な関係を結ぶ。ここでの二人は子供の存在だけで関係が発生し、その関係は男女の性的な関係を遥かに凌駕している。

 しかし、人は帰る。帰らねばならない。帰る所がなくても帰らねばならない。文明化された世界に、機械化された世界に、家族を探さぬ世界に、家族を求めぬ世界に、家族の存在そのものを思考せぬ世界に…

 店主は帰るまぎわに修道女に問う。自分以外でも同じ行為をしていたのか?と…その問いは初めて自分の存在に気付いたかのような問いであった。その問いそのものは実に切なく響く。つくり笑いをする二人が実に哀しい。

 修道女が車を降り、クリーニング店主はチョコレートを食べる。その行為は修道院の女性に教えられた気分の悪い時にする行為だ。彼は気分が悪かったのではない。修道院と修道女を、けして二度と会うことのない修道女を懐かしんでの行為なのだ。

 人はいつでも帰れる。残酷なほどに帰ることができるのだ…修道女が去っていく空間には胸がしめつけられるような哀しさを感じる。それは誰もが、映画の中の人物も、観ている我々も、誰も探すことも、求めることも成功しなかったからだ…

 スリルのあるシーンがある。修道女が嬰児を抱いて病院から出るシーンである。彼女が嬰児を連れ去ることを予感させるシーンである。彼女は嬰児を抱くことにより根源的な感情を持ってしまいその昇華方法が見えずにいて、それがその方法のように見えたのだろう。しかし、映画はハリウッドではない。市井の人々はハリウッド映画のように性的な衝動のために劇的な行為をしたりはしない。

 彼女は嬰児を抱いたまま病院に帰る。それが悲しい。それが実に辛いのだ。彼女の「論理的に」生きようとする姿勢が実に辛いのだ。前もって生き方を規定してしまった方法を辛く思うのだ。しかし、それは修道女という特殊な存在を必要としない。実は誰でも生き方を規定していて、自分の根源的な意思を否定しながら生きている事がわかるのだ…

 監督はシーンの中に記念写真のようなポートレートを挿入する。そのポートレートはあたかも映画とは関係性がないと主張しているように色調も甘い。

 クリーニング店の従業員と社長、出産した女性の仕事場の仲間、出産した女性のボーイフレンドの仕事仲間、修道院の人々…そのシーンは、結局誰もがひどく孤独なのだと確認させるためのシーンに見える。全く救いのない世界に生きているのだと悟らされるためのシーンに見えるのだ。

 しかし、映像は実に温かいぬくもりに満ちている。この優しさは人間の深い孤独に対する同情心であるのだろう。その映像の前で我々も救われる。とにかくどんなに孤独であろうと行き続けなければならないからだ…

 何もないのだ…探すものも、求めるものも、何もないのだ。ただ時として、人生の中で探すことや、求めることという一瞬だけ輝く時があるということだけなのかもしれない。

 音楽はその虚しさを巧みに追っていく。

 そして、あのラストシーン。何も起こらない予想どおりのラストシーン。あのラストシーンは胸が痛くなるラストだ…

 そしてテーマに戻ってくる。「もうひとつの世界」とは何なのか。孤独と疎外と空虚の世界ではない、もうひとつの世界とはどういう世界で、どこにあるのか?そのテーマは明るくなった客席に重くよどむ。それは常に幻想を必要としている文明人への諧謔であるのだ…

監督 ジョゼッペ・ピッチョーニ

撮影 ルカ・ビガッティ

音楽 ルドヴィゴ・エイナウディ

2014.8.3追伸
 主演はマルゲリータ・ブイ。岩波ホールで「ローマの学校で」が一盤公開される。

もうひとつの世界