映画『処女の泉』 | leraのブログ

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映画『処女の泉』

 ベルイマンは映画を語ろうとする人間には必修科目の感がある。
 ただ私はあまり得意ではなかった。

 10月11日からユーロスペースでスウェーデン映画祭が開かれることと関係があるかどうかは分らないが、続けてベルイマンの作品が同所で上映されている。

 初めにやったときに観客の支持を受けたので、第二回を7月26日から二週間の期間で始めた。
 そこで二本目に観たのが『処女の泉』で初めてであった。一本目は『夏の遊び』

 私のベルイマンとの印象とかなり違ってちゃんとしたストーリー性のあるものだった。
 それというのも北欧のバラッズから持ってきたものだからだ。
 さらにキリスト教と対比させるためかオーディン神の信仰者も出てくる。オーディン神は『ニーベルンゲンの指輪』のヴォータンと同一視していいと思う。

 ストーリーを要約すると以下になる。
 主人公(マックス・フォン・シドー)は、敬虔な(おそらく)カトリックの富裕層の農夫。
 愛しているひとり娘が教会に蝋燭を奉納しにいく途中で強かんされ殺害される。
 その犯人が偶然シドー家に一泊を乞う。
 犯人が殺した娘の着ていた服を売ろうとして犯罪が発覚し、シドーが復讐するというストーリーである。

 シドーは神の沈黙をかなり激しく糾弾する。
 娘が殺されるときになぜ黙っていたのか?自分が復讐という罪を犯す時もなぜ黙っていたのか?と…これは遠藤周作の『沈黙』と通底する「宗教的」あるいは「神的」問題だ。
 しかも全く共通性の無いベルイマンの『沈黙』も連想してしまう。

 そしてシドーは、自らの罪を贖うためにここに教会を建てると誓う。
 ここのところは新約聖書マタイ16章18節後段の
「我この磐(いわ)の上に我が教会を建てん」
 をすぐ連想させる。
 この一節は無教会派の人たちから「捏造疑惑」の強いところだ。

 1960年の作品で、アカデミー、ゴールデングローブを受賞しキネ旬では一位になっている。
 モノクロームの美しさやカメラの美しさがある。
丁寧な映画作りに好感が持てる作品でもある。
 黒澤の『羅生門』に感銘を受けて作られたというが、私としてはテーマがよく見えない気がした。
それはラストで湧きいずる泉の意味が解らないかもしれない。

 この泉をヨハネ傳の第四章に求めると
「わが与ふる水は彼の中(うち)にて泉となり、永遠(とこしえ)の生命の水湧きいづべし」(14-)
から
「霊と真とをもて父を拝するとき来たらん、今すでに来たれり。父はかくのごとく拝する者を求めたまふ。神は霊なれば、拝する者も霊と真とをもて拝すべきなり」(23-)
 に繋がるメタファーなのだろうか…

Jungfrukällan(1960年スウェーデン)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:ウッラー・イーサクソン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト