leraのブログ -50ページ目

leraのブログ

自らの文章のアーカイブと考えている



ぼくの瞳の光 Luce dei miei occhi 2003.5

失えないもの…

 ピッチョーニの描くメインの人物たちは常に優しい。その優しさは、人を好きになったことから生じていることを示す。そして、この感情は全く制御できないことも示してくれる。

 女は女手ひとつで娘を育てる小商店主で、種々の支払いに辛苦している。その女に惹かれる若い運転手。女は他者に好かれることを許容しない。それが自分の借金や生活苦や娘へ対する愛情に無関係だと思っているからだ。

 しかし青年はそれを許さない。愛が代償を求めぬことをあたかも証明するような行為に出る。その行動が結果的に弱者(外国人労働者)から搾取することになることに、その作品に関わった人々、観客を含めた多くの人が胸を痛める。その青年の無私的行為に影をさすことに胸を痛めるのだ…

 「人」を愛する青年は当然のなりゆきどおり、その搾取的な行為と訣別し、全てを失う。女も養育権争いで負け唯一の希望である娘を失う。

 彼女は、娘との面会の日に、その青年に車を出してもらうことを依頼する。ラストシーンは後部座席に娘が座っている。

 私たちは何のために生きるのか、何のために生きようとするのか、という解決不能でいながら原初的であり普遍的であるテーマを何度も何度も反芻さねばならないのかも知れない。

 大切なもの、大事なもの、それが実は自分ではないことを確認するのだ。その確認は美しくそしてすさまじい…また恐れを放逐できるときだ…

 人は自分から相手へ、相手から他へ、と感情の対象を時間的に変えてゆく。それは誰にも止められない。

 幼児期は「自」、つまり「自分」の幸福を追求する。青年期は相手の幸福を志向する。成人期は自分以外の幸福を追求する。その時間的な流れは千差万別であり、さらに逆行する場合ですらある。人間は弱いのだ…人間はひどく弱い生き物なのだ…しかし、唯一強くなれるときがある。それは無私になる時だ…

 ピッチョーニの描くその優しい青年はその強さを体現している。その強さの前には誰も抗うことができない。

 愛は強いのだ…

 愛は強いのだ…

 赤面せずに「愛」という単語を言ってみよう…別の世界が拡がることがある。誰もが押し殺していた真情を露吐できる数少ない瞬間でもあるのだ。正直に生きれば生き易い事を知っていながら、正直に生きることに多大な勇気が必要なことを悟る大変惨酷な時でもある。

 寂しく夕食をファストフード店で青年が食べている時、その女と娘がやってくる。彼はそのテーブルに寄り同席したいと言う。あの強さ、あの強さは実に美しい。あの強さは実に美しい。あの美しさを否定できるものはこの世にない。

 その店の帰り、彼女が走らせるバイクに青年の車が近づきしばらく伴走する。彼と彼女と彼女の娘の三人の表情が和む。その和みも実に美しい。

 求めるモノが搾取を対象としていないことの美しさだろうし、人の心が伝ってくることの温かさだったと思う。夜のローマの道路に人々の温かさが伝わるシーンだった。それはピッチョーニの優しさに他ならない。

 使い古されているとは思うが、優しさは美しいのだ。人の心の優しさに勝るものはないのだ…優しさを持ちたい、全人格的な、無私的な、真情的な、虚飾を伴わない優しさを持ちたい。

 この作品のラストシーンにそれを見た。

2001年120分

監督・脚本 ジュゼッペ・ピッチョーニ

脚本 ウンベルト・コンタレッロ、リンダ・フェッリ

撮影監督 アルナルド・カティナーリ

音楽 ルドヴィゴ・エイナウディ

出演 サンドラ・チェッカレッリ、ルイジ・ロ・カーショ

追伸2014.8.8 本作品はDVD化された



無邪気な妖精たち Le fate ignoranti 2003.5

嘘のゆくえ

 今回のイタリア映画祭のテーマは「家族」である。この作品での家族のテーマは、嘘である。

 性的にマイノリティーの人々は、家族を愛するが故に嘘をつき通す、と言う。それは性転換手術を行った人が、弟の結婚式に「男装」して出るという希望を述べた時に言う言葉である。その嘘は「守るため」の嘘であり、その対象を愛するが故の嘘であるのである。

 しかし、そうではない嘘がある。

 妻に知られずに7年間も愛人の居た夫。出張だと称しその愛人のアパートへ行っていた夫。さらに生活も全く未知の生活を送っていたことが判る。家では料理など作らなかったのに、そこでは皆と一緒に料理を作ったと言う…

 その嘘、その虚像は何だったのか?何かを守るためだったとすると、何を守るための「嘘」だったのか?

 その深い疑問は夫の亡き後、妻に大きくのしかかる…妻は「自分達の生活」に満足していたため、未知の夫の生活を知り、その対応に苦慮する。憎悪できれば容易なものの、憎悪の対象にならないことが本人を苦しめる。

 だからこそ、夫のもうひとつの生活、あるいは夫の嘘を知りたいと思う。しかし、その嘘が嘘でなかったとしたらそれは恐怖でしかないことを悟りつつ…

 その驚愕は人には語れないものかもしれない。亡き夫の愛人が男性だったのだ。妻は逡巡の繰り返しの中で、夫の愛人の生活圏に入って行く。そこには大家族の「家庭」があり、性的にマイノリティーの人々やトルコ移民の人々が共同生活しているという「共観」があり、それに心ならずも惹かれていく。

 その二人(妻と愛人)はあまりに多くの共有物がある。お互いひとりの人を愛し、その夫が妻にプレゼントしようとしたヒクメット(ナームズ・ヒクメット トルコの左翼系詩人)の詩集で知り合う前から結びついていた。

 二人は共通の詩を口ずさみ、共通の愛人の話をし、一緒に食事を作り、一緒に食事を食べる。食事の時に多くのそこの人々と同席するのだが、それは未知の夫の生活に他ならない。しかも、夫と同じ席に座っていると言われる。

 彼女の混乱を救えるものはない。

 さらに、彼女は他の人を愛そうとする愛人を批判的に見、愛人は体の不調(妊娠?)を正確に伝えない彼女に苛立つ。

 失ったものの大きさが唯一の共通のテーマである二人の複雑な心情は観る者を極めて苦しくする。

 反目しながらも「共通点」によって惹かれ合う二人、しかしあまりに境遇の違いすぎる二人…衝撃的なシーンがある。「失ったものの大きさ」に突然涙する彼を、妻が優しく抱擁する。そして二人で唇を重ねる。それは度重なる激しい口づけになる。胸が締め付けられる。ただただ哀しい。さらにその後にどうなるのか、全く予想のつかない「未来」に誰もが息を止める。

 二人は笑い出す。どちらからともなく笑いだす。寂しく笑う二人。愛する者を失った魂がふたつ融合する時間に思わず涙がこぼれた。その笑いの中に「安堵」の涙がこぼれた。その笑いの中に「安堵」の涙をこぼした。

 彼は共同生活している人々に、彼女に惹かれているのでは、という指摘に対しこう言う。

「ノスタルジアだ…」

 家族とは人を愛すること、または愛を感じること、それが家族だと実感させる。兄弟でも夫婦でも必ずしも家族ではない。愛し、愛を感じること、それが家族だということを確認させてくれる。

 しかし、家族以外に血族があり,血族とけして訣別できぬディレンマを「嘘」というかたちで表現している。

 血族・家族・家庭という一見連続するようなテーマが、実は脆弱な連続性でしかなく、人の心の中にその連続性を補完するものがある、ということを認識させてくれる。

 今回の作品は俳優に追うところが大きいかもしれない。その二人が居ないと困難だったかもしれない。

 昨年の「もうひとつの世界」にも出演したマルゲリータ・ブイが素晴らしい表情を見せる。長巻で表情を追うシーンの中でブイの表情が実に多くを語る。これは彼女の財産であろう。

 「無邪気な妖精たち」のタイトルのモチーフはマグリットの「無知な妖精」である。マグリットは暗い蝋燭の暗い光で女性の肖像を照らしている。愛人がそれを偽名に使ったのだ。

2001年106分

監督・原案・脚本 フェルザン・オズペテク

原案・脚本 ジャンニ・ロモリ

撮影 パスクワーレ・マーリ

美術 ブルーノ・チェザリ

出演 マルゲリータ・ブイ、ステファノ・アッコルシ


自分へ…自分へ 風の痛み Brucio nel vento 2003.4.28

壮絶な愛の軌跡である。

 生地を離れざるを得ない少年が亡命先で大人となる。他国では人間関係は存在しない。彼はそれを生まれた土地に遺棄してきたのだ。

 その遺棄には深い血の物語がある。人々に白眼視される母親と憎悪の対象でしかない父親…その間の血の物語。彼は生地を棄てることで、自らの「関係」を調和のない空白とする。他国での自分は架空の存在でしかないのだ。

 工場労働者としての単調な生活。それは彼に自分が何者であるのかを考えさせる余地を与えない。彼は身近な女性と架空の生活を「時々」おくる…

 彼が棄てたものに再会する契機がある。外国人労働者で犯罪を犯した者の裁判所での通訳を依頼されるのだ。それは彼が棄てたはずの生地の言語であった。(映画ではチェコ語、原作ではハンガリー語かもしれない。映画では生地を明示しない)

 その通訳をすることにより、母国語を話す人々との「関係」が発生する。それは彼が棄てざるを得なかった言葉であり、棄てることのできなかった言葉である。そこでひとつの「関係」が生まれる。移入外国人労働者達と亡命者である彼とはかなり立場が違う。経済的にも異なるし、関係性も全く異なる。そしてかなりカンタンに死んでいく「外国人」労働者達。かなりカンタンに離別してゆく彼ら…

 その中で彼は「生地」にのめりこんでいく…そして、架空の関係を結んでいた女性と疎遠になっていく…

 その中で…出逢うべくして出逢う…

 あるいは出逢うはずの全くないものに出逢うことになる。

 異母妹である。彼女は父の象徴であり、母の思い出であり、生まれた土地への絆であった。彼女は父親が自分と同じだとは知らないので、特殊な事情のある少年と思っている。母親が、物乞いで、泥棒で、売春をしている…その女性の息子という存在として…

 その少年には、その異母妹はあこがれであり、思い出であり、懐かしさであり、父母を想起するものであり、生地を象徴するものであった。よって激しくのめりこんでいく。

 彼女に愛を激しく感じる。彼女に夫と子供があるため、その愛は壮絶にならざるを得ない。

 彼女の後をつけ、双眼鏡で家を見る。その壮絶さは観る者の胸をしめつける。その愛は実は彼が自分自身へ向けた感情に他ならないことを悟るからである。彼が否定してきたもの、彼が隠し続けてきたもの、彼が棄ててきたもの…そのすべてが再帰してしまったのだ。

 自分への「愛」は妥協を知らない。それは悲劇しか生まない。予定された悲劇が展開される。ところがエピローグは原作と異なるという。

 シルヴィオ・ソルディーニは「少なくとも前に進める可能性を与えたかった」と言っている。原題が「私は風の中で燃える」であるから、その意図は伝えているのかもしれない。

 ルカ・ヴィガッツィのキャメラは美しい…

 数多くの肉体を伴わない感情の交差を経て、職場の中で激しい接吻を重ねるシーンがある。その光景はひどく切ない。結局自分を棄てることなどできぬことを自覚させられるからで、それは悲劇しか生まぬことも暗示しているからだ。

 その哀しさに絶対的に幸福になれない運命に胸が痛くなるのだ…

 けして棄てられぬ自分、しかしけして理解できぬ自分、その中で喘ぎ苦悩する魂に観る者は胸をしめつけられるのである。そして、報われぬ若さにも圧死するのである。

 原作はハンガリーからスイスである。

 エピローグは全く違うらしいし、映画でのエピローグは南イタリアであるので、全く別のものと思うこともできる。

 エンドロールで流れるフォルクローレが実に胸に沁みる。お前は何者なのだ?と問われ続けるように、胸に沁みる。結局どこへ行ってもよそ者であることを悟るのだ。生まれた土地に認められぬ者はどこへ行っても、誰になってもよそ者でしかないのだ。

 さらに帰るところのない者は、自分が自分であるのかさえ不確かなのだ。だから他者に自分を見ようとし、自分が恋した自分の心に自分を見ようとするのだ。彼がまるで子供時代の逃亡をマネて氷を割りながら歩くシーンがある。自分を知りたいのだ。「自分」を感じたいのだ。あの逃亡から自分を見失ったからだ…

 私たちは自らの言語集団の中で生きている。この原作者が母国語ではない言語で小説を書くことに深い意味を持たせているような気がする。それはよそ者の確認であり、実は彼独自の…よそ者独特の言語なのかもしれない。太宰が「共通語」で人間失格を書いたように…

 東欧の暗さを描くキャメラが美しい。ビールとワインとジャガイモとソーセージの暗さが美しい。その美しさが人を描く。人の生きんとす時間、人が流される時間、人の無意味な時間を表現する。

 ラストに展開される南イタリアと思われる陽光…それに救われたのは私ばかりではないだろう…変な話だがスタッフも救われたのではないだろうか?

 なぜ救われたのか?そこに愛があったからだ…無私の愛があったからだ…

2001年118分

監督・脚本 シルヴィオ・ソルディーニ

原作 アゴダ・クリストフ

脚本 ドリアーナ・ビガッツィ

撮影監督 ルカ・ビガッツィ

音楽 ジョヴァンニ・ヴェノスタ

2003.4.28 鑑賞