長崎 原爆の日、報道比較
長崎原爆の日式典において、長崎市長田上富久氏が集団的自衛権行使容認の閣議決定を批判するスピーチをするとのことで関心を持っていた。
市長の平和宣言では、「日本国憲法に込められた、戦争をしないという誓いは、被爆国日本の原点」と述べ、集団的自衛権に関しては「平和国家としての安全保障のあり方について様々な意見…」と直接的な批判ではなかった。
そして、福島第一原発にも言及し、(避難している人たちの)復興を願い、支援を続けると述べた。
被爆者代表の方の「平和への誓い」はかなり踏み込んだ集団的自衛権批判だった。
「集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか」
と述べ、さらに原発問題についてはこう述べた。
「放射能汚染で故郷に帰れず(略)小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。(略)原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数(略)早急に廃炉を含め検討すべき」
それに引き換え安倍首相のあいさつは半分が昨年のあいさつのコピペ。
これらの文字化されたものを読もうと各新聞に目を通していたら面白いことに気付いた。
まず各紙の対応を見てみる。
東京新聞9日夕刊
1面で「長崎、集団的自衛権に怒り」「憲法踏みにじる暴挙」の大見出しで誓い全文掲載。
4面に宣言全文、首相あいさつ全文掲載。首相あいさつに関しては「首相またコピペ」「被爆者軽視変えず」の見出し。
7面、8面、9面に関連記事。
10日朝刊
1面に被爆者代表の平和の誓いの抜粋を写真入で掲載し「集団的自衛権「憲法踏みにじる暴挙」」の見出し。2面に安倍首相あいさつ文全文を示しその中のコピペ部分を明示し「「ずさんすぎる」怒り」の見出し。4面に平和宣言、平和への誓いの全文掲載。
朝日新聞10日朝刊
1面に、市長・被爆者 集団的自衛権に言及の見出しで、「憲法を踏みにじった暴挙」と記載。
36面に、平和宣言と首相あいさつの全文掲載。
毎日新聞9日夕刊
1面で「憲法を踏みにじった暴挙」と記述。2面に平和宣言要旨。
7面で写真入で「日本の平和を武力で守ろうと言うのですか」「憲法を踏みにじった暴挙」と記述。
読売新聞9日夕刊
被爆者代表の方の写真入記事があるものの、「憲法を踏みにじった暴挙」と原発に対する言及には触れず。
10日朝刊
36面に関連記事と平和宣言要旨、首相あいさつ要旨。
産経新聞10日朝刊
28面に写真入爆心地公園の記事。本文で市長の言葉として「平和の原点が揺らいでいるのではないか(略)」
ところが東京新聞の全文には「平和の原点が揺らいでいるのでは」というくだりは無い。
日本経済新聞9日夕刊
被爆者代表の方の写真入記事があるものの、「憲法を踏みにじった暴挙」と原発に対する言及には触れず。
被爆者代表の方の「平和への誓い」の全文が載ったのは東京新聞だけ。また原発に言及したことは全文掲載以外は触れられていない。
読んでいて思わず引き込まれる説得力に富んだ内容なのに残念。
それとも被爆者はそんなに軽視されるものなのかという疑問もわく。
ところで原発についての記載がないのは偶然なのだろうか?
検察の犯罪、証拠をめぐって
冤罪事件の多くが自白によるものだが、証拠によるものも少なくない。
証拠による「冤罪の作り方」には三つのケースがある。
ひとつは証拠の「捏造」
狭山事件や野田事件を代表として多々ある。
二つ目は証拠の不検討
これは無罪証拠を検討しないことで、例えば氷見事件の場合は犯行現場に足跡が残されていたが、冤罪被害者とサイズが全く違っていた。また犯行時間に冤罪被害者が電話をしていたが、それも検討されなかった。
国賠審で捜査担当警察官は「(電話の件は)知っていたが、検討しなかった」と証言した。
三つ目は証拠の「隠蔽」
松川事件の「諏訪メモ」があまりに有名であるが、時として無罪証拠を隠してしまう場合がある。
小松川事件で、真犯人の血液型はB型と分かっているのに犯人とされた青年の血液型は「不明」のままである。血液型を調べないはずはなく、おそらく隠蔽されたものと思われる。両親の血液型から青年の血液型がB型ではないことが分かっている。本人は死刑執行されてしまったので完全に隠蔽されたと言えるだろう。
目撃証言も時として隠蔽される。
布川事件の男性目撃や、足利事件の自転車の男や、恵庭OL事件の車輌目撃などだ。
そして今回の袴田事件のネガフィルムだ。
再審弁護団が、味噌漬け衣類のカラー写真の色調が不自然なため開示を求めていたネガフィルムだ。それは弁護団の実証実験のものと比べると、1年2ヶ月も味噌に漬かっていたとは思えない色調だったからだ。弁護団としては「捏造」の可能性を感じたのだ。
そのネガフィルムを検察は不存在と言っていた。
今回の抗告審で、検察は味噌漬け衣類の色調の不自然さをクリアするために検察に有利な証拠として出してきたのだ。46年隠していたことになる。
その「弁解」が噴飯ものだ。
「再審開始決定後、警察が倉庫を整理していて偶然ネガを見つけた。故意に隠したのではない」
責任転嫁された警察も哀れだが、これは重大な問題である。
被告は死刑が確定しているからだ。
死刑確定囚はいつ執行されるか分からないからだ。
証拠は誰のもの?
証拠は国民のものであって、検察・弁護両者が対等にアクセスできなければならない。旧刑事訴訟法は裁判所管理になっていて、検察・弁護両者が対等にアクセスできる余地があったが、新刑事訴訟法から検察の占有物になった。
証拠開示の難しさは、検察がどんな証拠を持っているか弁護側が分からないからだ。
本来なら収集した証拠を全て開示し、その中から検察・弁護双方が採用か不採用かを吟味し、真実に接近すべきなのだ。
検察は勝ち負けが大事?
日本の有罪率は99.99%と異常に高い。起訴されたらほとんどの場合有罪なのである。
検察はそれを勝ち負けで判断する。有罪だったら勝ち。
つまり勝つためには手段を選ばない「場合」があるということだ。
これは冤罪や犯罪ばかりではない。
国の不作為による被害の場合も証拠が開示されない場合が多い。
ネガフィルムに関しては、該当画像の前後も重要である。
つまりどんな状況で、どんな日時に撮られたか分かるからである。
今回検察が開示するネガフィルムが該当部分だけ切り取って出されるか、フィルムロールで出されるか注目される。
ただ過去にはネガフィルムが捏造されたケースもあるが、そんな子供だましは現在では通用しないだろう。
刑事裁判の最も大きな目的は、真実に迫ることである。
真摯な態度で臨んでもらいたいと思う。
冤罪事件の多くが自白によるものだが、証拠によるものも少なくない。
証拠による「冤罪の作り方」には三つのケースがある。
ひとつは証拠の「捏造」
狭山事件や野田事件を代表として多々ある。
二つ目は証拠の不検討
これは無罪証拠を検討しないことで、例えば氷見事件の場合は犯行現場に足跡が残されていたが、冤罪被害者とサイズが全く違っていた。また犯行時間に冤罪被害者が電話をしていたが、それも検討されなかった。
国賠審で捜査担当警察官は「(電話の件は)知っていたが、検討しなかった」と証言した。
三つ目は証拠の「隠蔽」
松川事件の「諏訪メモ」があまりに有名であるが、時として無罪証拠を隠してしまう場合がある。
小松川事件で、真犯人の血液型はB型と分かっているのに犯人とされた青年の血液型は「不明」のままである。血液型を調べないはずはなく、おそらく隠蔽されたものと思われる。両親の血液型から青年の血液型がB型ではないことが分かっている。本人は死刑執行されてしまったので完全に隠蔽されたと言えるだろう。
目撃証言も時として隠蔽される。
布川事件の男性目撃や、足利事件の自転車の男や、恵庭OL事件の車輌目撃などだ。
そして今回の袴田事件のネガフィルムだ。
再審弁護団が、味噌漬け衣類のカラー写真の色調が不自然なため開示を求めていたネガフィルムだ。それは弁護団の実証実験のものと比べると、1年2ヶ月も味噌に漬かっていたとは思えない色調だったからだ。弁護団としては「捏造」の可能性を感じたのだ。
そのネガフィルムを検察は不存在と言っていた。
今回の抗告審で、検察は味噌漬け衣類の色調の不自然さをクリアするために検察に有利な証拠として出してきたのだ。46年隠していたことになる。
その「弁解」が噴飯ものだ。
「再審開始決定後、警察が倉庫を整理していて偶然ネガを見つけた。故意に隠したのではない」
責任転嫁された警察も哀れだが、これは重大な問題である。
被告は死刑が確定しているからだ。
死刑確定囚はいつ執行されるか分からないからだ。
証拠は誰のもの?
証拠は国民のものであって、検察・弁護両者が対等にアクセスできなければならない。旧刑事訴訟法は裁判所管理になっていて、検察・弁護両者が対等にアクセスできる余地があったが、新刑事訴訟法から検察の占有物になった。
証拠開示の難しさは、検察がどんな証拠を持っているか弁護側が分からないからだ。
本来なら収集した証拠を全て開示し、その中から検察・弁護双方が採用か不採用かを吟味し、真実に接近すべきなのだ。
検察は勝ち負けが大事?
日本の有罪率は99.99%と異常に高い。起訴されたらほとんどの場合有罪なのである。
検察はそれを勝ち負けで判断する。有罪だったら勝ち。
つまり勝つためには手段を選ばない「場合」があるということだ。
これは冤罪や犯罪ばかりではない。
国の不作為による被害の場合も証拠が開示されない場合が多い。
ネガフィルムに関しては、該当画像の前後も重要である。
つまりどんな状況で、どんな日時に撮られたか分かるからである。
今回検察が開示するネガフィルムが該当部分だけ切り取って出されるか、フィルムロールで出されるか注目される。
ただ過去にはネガフィルムが捏造されたケースもあるが、そんな子供だましは現在では通用しないだろう。
刑事裁判の最も大きな目的は、真実に迫ることである。
真摯な態度で臨んでもらいたいと思う。

母の微笑 (原題:宗教の時間)L’ora di religione 2003.5
存在の根拠
まず最初に言ってしまうと例のごとくマルコ・ベロッキオの作品は「難解」である。ポケットの握りこぶしで見せた難解さであると思うが、その難解さが作品の魅力を軽減していないことが特徴でもある。言い方を変えれば魅力ある、つい惹き込まれてしまう作品を作るのが巧みなのだ。その巧みさのひとつとして「緊張感」が挙げられると思う。
今回の作品がベロッキオらしく「難解」だとしても、ひとつ違う点がある。それは「滑稽さ」である。彼の表現は常に「宗教」と「母」というモチーフで構成されているが、この作品の主人公を「無神論者」にすることで、この類稀な「滑稽さ」が醸成されたのだろう。
彼は自らの「思想」を具現すべく息子に洗礼もしていない。そんな彼の亡くなった母が聖列候補に入ることから、観客はサゲ(オチ)のない「滑稽さ」に遭遇することになる。彼の血族(ここでは「家族」という言葉は使わない)は聖列を最大のチャンスと認識し、一丸となって「工作」を開始するのだが、その工作も実に滑稽に描かれる。その工作の中で長年生活保護を受けるために仮病になっていた兄弟が「母の奇跡によって治癒」したことにしたり、死んだ時の状況を粉飾したり、様々な虚偽と「罪」が重ねられていく。
主人公はまともに戸惑う。
イタリアで無神論を主張し、バチカンを批判する行動がどういう「人物像」を表現するのかはおそらく想像がつかないと思う。よってイタリア人の観るこの作品はあきらかに異質なものであろう。
彼の体験する滑稽さは、老貴族と決闘したり、息子の偽者の宗教の先生に恋をしたり…その行為の中で、「母の遺産」を確認する。その遺産は「微笑」である。彼は気づかずに母と同じ微笑をしているのだが、その微笑は他の人々には「嘲笑」に映りそれが原因で本来なら生じないはずの齟齬が生じる。それが滑稽の源泉である。
老貴族との決闘が滑稽なのは、その老人がバチカン支配を批判し王政復古を唱え、バチカン批判に関しては彼と同質であるからだ。カトリック側に立つことも、アンチカトリック側に立つことも滑稽であることを意味している。
その滑稽さの中で、彼は無神論の根拠を自分に示さなければならない。今までは「科学的な」無神論で済んでいたが、母の聖列に巻き込まれては積極的に自分の無神論の根拠を自分に示す必要に迫られたのだ。
それが突然の恋に転化した。無意味な恋に転化せざるを得なかったのだ。
彼には「家族」がどんどん遠くなる。そして母の微笑だけが意図せず残っただけなのである。
2002年102分
監督・原案・脚本 マルコ・ベロッキオ
撮影 パスクワーレ・マーリ
美術 マルコ・デンティチ
