
母の微笑 (原題:宗教の時間)L’ora di religione 2003.5
存在の根拠
まず最初に言ってしまうと例のごとくマルコ・ベロッキオの作品は「難解」である。ポケットの握りこぶしで見せた難解さであると思うが、その難解さが作品の魅力を軽減していないことが特徴でもある。言い方を変えれば魅力ある、つい惹き込まれてしまう作品を作るのが巧みなのだ。その巧みさのひとつとして「緊張感」が挙げられると思う。
今回の作品がベロッキオらしく「難解」だとしても、ひとつ違う点がある。それは「滑稽さ」である。彼の表現は常に「宗教」と「母」というモチーフで構成されているが、この作品の主人公を「無神論者」にすることで、この類稀な「滑稽さ」が醸成されたのだろう。
彼は自らの「思想」を具現すべく息子に洗礼もしていない。そんな彼の亡くなった母が聖列候補に入ることから、観客はサゲ(オチ)のない「滑稽さ」に遭遇することになる。彼の血族(ここでは「家族」という言葉は使わない)は聖列を最大のチャンスと認識し、一丸となって「工作」を開始するのだが、その工作も実に滑稽に描かれる。その工作の中で長年生活保護を受けるために仮病になっていた兄弟が「母の奇跡によって治癒」したことにしたり、死んだ時の状況を粉飾したり、様々な虚偽と「罪」が重ねられていく。
主人公はまともに戸惑う。
イタリアで無神論を主張し、バチカンを批判する行動がどういう「人物像」を表現するのかはおそらく想像がつかないと思う。よってイタリア人の観るこの作品はあきらかに異質なものであろう。
彼の体験する滑稽さは、老貴族と決闘したり、息子の偽者の宗教の先生に恋をしたり…その行為の中で、「母の遺産」を確認する。その遺産は「微笑」である。彼は気づかずに母と同じ微笑をしているのだが、その微笑は他の人々には「嘲笑」に映りそれが原因で本来なら生じないはずの齟齬が生じる。それが滑稽の源泉である。
老貴族との決闘が滑稽なのは、その老人がバチカン支配を批判し王政復古を唱え、バチカン批判に関しては彼と同質であるからだ。カトリック側に立つことも、アンチカトリック側に立つことも滑稽であることを意味している。
その滑稽さの中で、彼は無神論の根拠を自分に示さなければならない。今までは「科学的な」無神論で済んでいたが、母の聖列に巻き込まれては積極的に自分の無神論の根拠を自分に示す必要に迫られたのだ。
それが突然の恋に転化した。無意味な恋に転化せざるを得なかったのだ。
彼には「家族」がどんどん遠くなる。そして母の微笑だけが意図せず残っただけなのである。
2002年102分
監督・原案・脚本 マルコ・ベロッキオ
撮影 パスクワーレ・マーリ
美術 マルコ・デンティチ
