無邪気な妖精たち イタリア映画祭2003 過去ログ転載 | leraのブログ

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無邪気な妖精たち Le fate ignoranti 2003.5

嘘のゆくえ

 今回のイタリア映画祭のテーマは「家族」である。この作品での家族のテーマは、嘘である。

 性的にマイノリティーの人々は、家族を愛するが故に嘘をつき通す、と言う。それは性転換手術を行った人が、弟の結婚式に「男装」して出るという希望を述べた時に言う言葉である。その嘘は「守るため」の嘘であり、その対象を愛するが故の嘘であるのである。

 しかし、そうではない嘘がある。

 妻に知られずに7年間も愛人の居た夫。出張だと称しその愛人のアパートへ行っていた夫。さらに生活も全く未知の生活を送っていたことが判る。家では料理など作らなかったのに、そこでは皆と一緒に料理を作ったと言う…

 その嘘、その虚像は何だったのか?何かを守るためだったとすると、何を守るための「嘘」だったのか?

 その深い疑問は夫の亡き後、妻に大きくのしかかる…妻は「自分達の生活」に満足していたため、未知の夫の生活を知り、その対応に苦慮する。憎悪できれば容易なものの、憎悪の対象にならないことが本人を苦しめる。

 だからこそ、夫のもうひとつの生活、あるいは夫の嘘を知りたいと思う。しかし、その嘘が嘘でなかったとしたらそれは恐怖でしかないことを悟りつつ…

 その驚愕は人には語れないものかもしれない。亡き夫の愛人が男性だったのだ。妻は逡巡の繰り返しの中で、夫の愛人の生活圏に入って行く。そこには大家族の「家庭」があり、性的にマイノリティーの人々やトルコ移民の人々が共同生活しているという「共観」があり、それに心ならずも惹かれていく。

 その二人(妻と愛人)はあまりに多くの共有物がある。お互いひとりの人を愛し、その夫が妻にプレゼントしようとしたヒクメット(ナームズ・ヒクメット トルコの左翼系詩人)の詩集で知り合う前から結びついていた。

 二人は共通の詩を口ずさみ、共通の愛人の話をし、一緒に食事を作り、一緒に食事を食べる。食事の時に多くのそこの人々と同席するのだが、それは未知の夫の生活に他ならない。しかも、夫と同じ席に座っていると言われる。

 彼女の混乱を救えるものはない。

 さらに、彼女は他の人を愛そうとする愛人を批判的に見、愛人は体の不調(妊娠?)を正確に伝えない彼女に苛立つ。

 失ったものの大きさが唯一の共通のテーマである二人の複雑な心情は観る者を極めて苦しくする。

 反目しながらも「共通点」によって惹かれ合う二人、しかしあまりに境遇の違いすぎる二人…衝撃的なシーンがある。「失ったものの大きさ」に突然涙する彼を、妻が優しく抱擁する。そして二人で唇を重ねる。それは度重なる激しい口づけになる。胸が締め付けられる。ただただ哀しい。さらにその後にどうなるのか、全く予想のつかない「未来」に誰もが息を止める。

 二人は笑い出す。どちらからともなく笑いだす。寂しく笑う二人。愛する者を失った魂がふたつ融合する時間に思わず涙がこぼれた。その笑いの中に「安堵」の涙がこぼれた。その笑いの中に「安堵」の涙をこぼした。

 彼は共同生活している人々に、彼女に惹かれているのでは、という指摘に対しこう言う。

「ノスタルジアだ…」

 家族とは人を愛すること、または愛を感じること、それが家族だと実感させる。兄弟でも夫婦でも必ずしも家族ではない。愛し、愛を感じること、それが家族だということを確認させてくれる。

 しかし、家族以外に血族があり,血族とけして訣別できぬディレンマを「嘘」というかたちで表現している。

 血族・家族・家庭という一見連続するようなテーマが、実は脆弱な連続性でしかなく、人の心の中にその連続性を補完するものがある、ということを認識させてくれる。

 今回の作品は俳優に追うところが大きいかもしれない。その二人が居ないと困難だったかもしれない。

 昨年の「もうひとつの世界」にも出演したマルゲリータ・ブイが素晴らしい表情を見せる。長巻で表情を追うシーンの中でブイの表情が実に多くを語る。これは彼女の財産であろう。

 「無邪気な妖精たち」のタイトルのモチーフはマグリットの「無知な妖精」である。マグリットは暗い蝋燭の暗い光で女性の肖像を照らしている。愛人がそれを偽名に使ったのだ。

2001年106分

監督・原案・脚本 フェルザン・オズペテク

原案・脚本 ジャンニ・ロモリ

撮影 パスクワーレ・マーリ

美術 ブルーノ・チェザリ

出演 マルゲリータ・ブイ、ステファノ・アッコルシ