自分へ…自分へ 風の痛み Brucio nel vento 2003.4.28
壮絶な愛の軌跡である。
生地を離れざるを得ない少年が亡命先で大人となる。他国では人間関係は存在しない。彼はそれを生まれた土地に遺棄してきたのだ。
その遺棄には深い血の物語がある。人々に白眼視される母親と憎悪の対象でしかない父親…その間の血の物語。彼は生地を棄てることで、自らの「関係」を調和のない空白とする。他国での自分は架空の存在でしかないのだ。
工場労働者としての単調な生活。それは彼に自分が何者であるのかを考えさせる余地を与えない。彼は身近な女性と架空の生活を「時々」おくる…
彼が棄てたものに再会する契機がある。外国人労働者で犯罪を犯した者の裁判所での通訳を依頼されるのだ。それは彼が棄てたはずの生地の言語であった。(映画ではチェコ語、原作ではハンガリー語かもしれない。映画では生地を明示しない)
その通訳をすることにより、母国語を話す人々との「関係」が発生する。それは彼が棄てざるを得なかった言葉であり、棄てることのできなかった言葉である。そこでひとつの「関係」が生まれる。移入外国人労働者達と亡命者である彼とはかなり立場が違う。経済的にも異なるし、関係性も全く異なる。そしてかなりカンタンに死んでいく「外国人」労働者達。かなりカンタンに離別してゆく彼ら…
その中で彼は「生地」にのめりこんでいく…そして、架空の関係を結んでいた女性と疎遠になっていく…
その中で…出逢うべくして出逢う…
あるいは出逢うはずの全くないものに出逢うことになる。
異母妹である。彼女は父の象徴であり、母の思い出であり、生まれた土地への絆であった。彼女は父親が自分と同じだとは知らないので、特殊な事情のある少年と思っている。母親が、物乞いで、泥棒で、売春をしている…その女性の息子という存在として…
その少年には、その異母妹はあこがれであり、思い出であり、懐かしさであり、父母を想起するものであり、生地を象徴するものであった。よって激しくのめりこんでいく。
彼女に愛を激しく感じる。彼女に夫と子供があるため、その愛は壮絶にならざるを得ない。
彼女の後をつけ、双眼鏡で家を見る。その壮絶さは観る者の胸をしめつける。その愛は実は彼が自分自身へ向けた感情に他ならないことを悟るからである。彼が否定してきたもの、彼が隠し続けてきたもの、彼が棄ててきたもの…そのすべてが再帰してしまったのだ。
自分への「愛」は妥協を知らない。それは悲劇しか生まない。予定された悲劇が展開される。ところがエピローグは原作と異なるという。
シルヴィオ・ソルディーニは「少なくとも前に進める可能性を与えたかった」と言っている。原題が「私は風の中で燃える」であるから、その意図は伝えているのかもしれない。
ルカ・ヴィガッツィのキャメラは美しい…
数多くの肉体を伴わない感情の交差を経て、職場の中で激しい接吻を重ねるシーンがある。その光景はひどく切ない。結局自分を棄てることなどできぬことを自覚させられるからで、それは悲劇しか生まぬことも暗示しているからだ。
その哀しさに絶対的に幸福になれない運命に胸が痛くなるのだ…
けして棄てられぬ自分、しかしけして理解できぬ自分、その中で喘ぎ苦悩する魂に観る者は胸をしめつけられるのである。そして、報われぬ若さにも圧死するのである。
原作はハンガリーからスイスである。
エピローグは全く違うらしいし、映画でのエピローグは南イタリアであるので、全く別のものと思うこともできる。
エンドロールで流れるフォルクローレが実に胸に沁みる。お前は何者なのだ?と問われ続けるように、胸に沁みる。結局どこへ行ってもよそ者であることを悟るのだ。生まれた土地に認められぬ者はどこへ行っても、誰になってもよそ者でしかないのだ。
さらに帰るところのない者は、自分が自分であるのかさえ不確かなのだ。だから他者に自分を見ようとし、自分が恋した自分の心に自分を見ようとするのだ。彼がまるで子供時代の逃亡をマネて氷を割りながら歩くシーンがある。自分を知りたいのだ。「自分」を感じたいのだ。あの逃亡から自分を見失ったからだ…
私たちは自らの言語集団の中で生きている。この原作者が母国語ではない言語で小説を書くことに深い意味を持たせているような気がする。それはよそ者の確認であり、実は彼独自の…よそ者独特の言語なのかもしれない。太宰が「共通語」で人間失格を書いたように…
東欧の暗さを描くキャメラが美しい。ビールとワインとジャガイモとソーセージの暗さが美しい。その美しさが人を描く。人の生きんとす時間、人が流される時間、人の無意味な時間を表現する。
ラストに展開される南イタリアと思われる陽光…それに救われたのは私ばかりではないだろう…変な話だがスタッフも救われたのではないだろうか?
なぜ救われたのか?そこに愛があったからだ…無私の愛があったからだ…
2001年118分
監督・脚本 シルヴィオ・ソルディーニ
原作 アゴダ・クリストフ
脚本 ドリアーナ・ビガッツィ
撮影監督 ルカ・ビガッツィ
音楽 ジョヴァンニ・ヴェノスタ
2003.4.28 鑑賞

