浮名横櫛紀行(木更津、川崎、川口の旅) その2 2010.12.18-19
かつては路線バスの旅が好きだった。
津軽、青森、下北半島、小金湯(札幌郊外)など懐かしい。地元の人たちが乗っては降りてゆく、その会話や挨拶のひとつひとつが懐かしく感じるのだ。新幹線の整備計画で、JRの長距離の急行も全くと言っていいほど無くなってしまった。それは旅にたいする困難さも増大させた。まず金額が高くなった。そして目的地をちゃんと決めなければならなくなった。旅の環境はますます悪化する。
青森に行く場合奥羽本線回りの「急行津軽」が13時間、東北本線回りの「急行八甲田」が11時間だった。それぞれ上野発で1日に1本だった。好んで時間のかかる「津軽」に乗ったのは、そこに世界があったからだ。夜から始まり、朝があり、昼がある。北関東の人、日本海側の人、津軽の人、みんなが乗っては降りていく。挨拶をし、会話を交わす。葬式に行く人、病院に行く人、学校に行く人、帰省する人、それぞれの生活があり、人生があるような気がした。宮本常一があれほど旅にのめり込んだのは、そんな旅の魅力にあったのではないかと思う。
実際には、人は感情で動く動物である。人は感情で人を助ける。人は感情で人の哀れを感じる。だから惻隠の情が生まれるのだ。急行の廃止は感情の住む余地を減少させるような、人間存在の全てを企業ベースに乗せるような、そんな気がする。人々を孤立させ、連帯を喪失させ、差別し差別される社会をつくるのが、我々の目的ではなかったはずだ。
そのバスの途中停車は1箇所のみ。暗黒の平原のような一本道を通り、アクアラインへと入る。川崎を素通りし、なんと40分で品川駅東口についてしまった。津軽や下北の雪景色を思い出したりしていたので、飲み物を飲みきる前に着いてしまった。品川駅は雑踏。それが現実。
翌日は川口へと向かった。
混声合唱団コール・ソレイユの第36回定期演奏会が、川口総合文化センター・リリアメインホールで開かれるからだ。
若い頃、声楽やオペラやコーラスが嫌いだった。今それが好きなのだから人生は面白い。なぜ嫌いだったのか…理解できる年齢に達していなかったとしか言いようがない。しかしコーラスに関しては、バッハ生誕何年祭の時に、フランス・ブリュッヘン指揮のロ短調ミサ曲を聴いたのがきっかけだと思う。魂がゆすぶられるような神秘(笑)体験をしたのだ。それからアマチュアや学校行事のコーラスを盛んに聴くようになった。NHKの音楽コンクールも楽しみにするほどになった。
コーラスの素晴らしさは、音声によるハーモニーの素晴らしさに尽きる。本当に魂に直接響くのだ。これは人の声だからこその効果なのだ。そして、歳のせいか美しいハーモニーに接すると涙が出るようになった。
コール・ソレイユは大学生で編成されているが、実に完成度の高い演奏が聴けた。ただコーラスに関しては本稿の目的ではないので、省略する。
以前川口に来たことがある。
7,8年前に、友人二人に誘われて川口へ行ったことがある。その理由は「いい屋台がある」ということだった。その屋台は西口の駅前の歩道橋の下にあった。ひとりの女性がやっていて、色々な手料理を小鉢で出す屋台で、味がとてもよかった。客も常連ばかり。静かに会話している人たちばかりで雰囲気もとてもいい。私もすっかり気に入って、遠方ながら何回か、通った。ある雨の日に行ったときは店が出なかった。
その場所に行こうとしたが、街そのものが様変わりしていた。ほとんどが大きな商業ビルとなって、クリスマスが近いのかイルミネーションがきらびやかである。私にとって電気によるイルミネーションは冷たく軽薄な印象しか与えない。屋台のあるはずの所に行くと、そこは大手スーパーマーケットの前だった。以前来た時は銀行の閉まったシャッターの前だった。
当然、屋台はなかった。
全く別の街だ。
コーラスの後に呑みたいと思っていたので、呑める店を探した。チェーン店ではないところ、安直なものを出さないところ、それらは外観でわかる。派手な看板がなく、古びた外観ながら掃除が行き届いているところだ。間違ってもホームページなど開設していないところだ。そういった店は足で探すか、口コミ情報しかないが、出会った時の感慨はひとしおだ。そんな出会いの記憶ばかりが残り、放浪してしまうのかもしれない。無論失敗も数多くあったが、それも旅だった。
帰りの電車に乗った。
時代は移ろい、時間は流れるのだ、人の感情など遺棄し変遷を続け留まることを知らないのだ…あたりまえのことなのだ。
家に帰りついてから「与話情浮名横櫛」のことを調べたら、なかなか面白いことが分かった。戸板康二の解説には「主人公の与三郎は、弘化頃にいた芳村伊三郎という長唄の師匠をモデルにしたもの」(『名作歌舞伎全集 第16巻』)と書かれている。別の資料では彼は四代目で「幼名大吉」となっているので、光明寺の説明板はそれほど現実離れしているとは言えない。この「芳村」は九代目から「杵屋」になる。墓の雨露をしのぐ屋根小屋は、市村羽左衛門が与三郎を演じた記念に寄進したもの。
ところが「墓」がもうひとつあることがわかった。
千葉県東金市にある「最福寺」である。そこの縁起にはこう記されている。
「四代目伊三郎は、このお寺から南西4キロの清名幸谷の紺屋の中村家の二男として寛政12年(1800年)に生まれました。名を中村大吉といい若い頃から長唄に親しみ、その美声と男ぶりは近隣でも有名だったようです。大吉は長じて木更津で型付職人として腕を磨き、年季が明けて清名幸谷に帰り兄の紺屋を手伝けしておりました。根が好きな長唄を唄うために家から1キロほどの東金と大網の中程の新堀の茶屋に足しげく通っておりました。そこで見そめたのが茂原生まれのきち(お富のモデル)でした。
しかし、きちには近くの堀畑の親分山本源太左衛門という旦那がいたのです。美男美女の間柄はすぐに親分に知られました。若い二人は勝手知った木更津に逃げましたが、子分達に追われ大吉は切り刻まれむしろに巻かれて海に投げ込まれました。しかし、奇跡的に江戸の漁師に助け上げられたのでした。一方きちは連れもどされ、すぐに江戸に売られてしまいました。後年江戸へ出て唄方となった大吉は、4代目伊三郎を襲名しましたが、若い日の仕打ちで受けた顔から身体中の数十の疵が8代目団十郎の目にとまり、鶴屋南北の門下、三世瀬川如皐に伊三郎、おきちをモデルに人物名、地名などを含め、その筋書きも、おもしろおかしく善玉、悪玉を誇張して書きあげさせました。」
中心の場所は東金、大網と言ったところで逃げたところが木更津となる。
8代目団十郎は1853年に与三郎を演じ、翌年大坂で32歳で自殺している。
ところで光明寺の先の撰択寺(せんちゃくじ)には「蝙蝠安」の墓もある。「本名を山口瀧蔵といい、文化5年、木更津五平町の油屋「紀の国屋」の次男で、生粋の木更津児。美声の持ち主で常盤津を得意とし、花柳界の寵児と言われるほどの人物で、同じ美声家の大吉(与三郎)と親しかったようです。毎夜ふらふらと飛び回るので、こうもり安の異名をとりました。芝居の中では、与三郎とともにお富の館にゆすりに行くなどと書かれていますが、あくまでも脚色上のこと。実際の彼はそのような人柄ではなく、劇中の人物像に心曇らせたとか。芝居で右ほほにある蝙蝠の刺青は左の太ももにあったと言われています。選擇寺にある先祖代々の墓碑には、慶応4年4月5日進岳浄精信士と刻まれています。」と言う。
蝙蝠安のモデルになった山口瀧蔵氏にとっては、たいへん迷惑なことだったろう。方や常磐津の美声が売り物の遊び人、もう一方はケチな「ゆすり・たかり」をする小悪党。しかし、この小悪党が歌舞伎には欠かせない人物となっているのだから、歌舞伎ファンは山口瀧蔵氏に深く感謝しなくてはならないだろう。
そうすると、本当に墓参しなければならないのは、山口瀧蔵氏の墓ということになる。今度はZigZag訪問と、山口瀧蔵氏墓参目的に木更津に行ってみようか…
ますます「与話情浮名横櫛」が見たくなった。
もちろん片岡市蔵の蝙蝠安でだ。
与三郎はだれがいいか…仁左衛門だったら「もっけのせぇうぇ」だが、愛之助もいい(2008年浅草公会堂で演じている)。
木更津、歌舞伎、ジャズ、コーラス、屋台の旅だった。
おもしろい旅だった。
また、こんな旅が待っているのだろうか…2010.12.18-19
おわり
浮名横櫛紀行(木更津、川崎、川口の旅) その1 2010.12.18-19
木更津に呼ばれた。
未知の土地に行く時、必ず早めに行って散策することが好きだ。その日も2時間以上早めに着き、散策しようと思った。
木更津駅に着いて、改札口を出たところで地図を見る。なにか目標を見出すためだ。すると「切られ与三郎の墓」という表示があった。予想もしないものに出会ったという思いだった。切られ与三と言えば歌舞伎の「与話情浮名横櫛」(よはなさけうきなのよこぐし)の与三郎に違いない。
私が好きな歌舞伎役者のひとりに片岡市蔵がいる。
やや険のある顔で、セリフが鋭い。彼が本当に嫌味があって、色悪の朋輩のような役がすごく上手い。例えば「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)の釣鐘権八や、「与話情浮名横櫛」の蝙蝠安などである。是非、「盟三五大切」(かみかけてさんごたいせつ)のごろつき勘九郎など観たいのだが、市蔵の弟の亀蔵は演じている。市蔵が演じたことがあるのかどうなのか知らないが、もし演じることがあるなら是非観たい演目のひとつである。
「与話情浮名横櫛」は色悪がいて、朋輩がいて、訳あり美人がいる、というなんとも歌舞伎らしい仕掛けに満ちている。ところがその色悪である「与三郎」は、木更津で九死に一生を得て、日本橋へ戻るのである。セリフにいわく
しがねぇ恋の情けが仇(あだ)
命の綱の切れたのを
どう取り留めてか 木更津から
めぐる月日も三年(みとせ)越し
江戸の親にやぁ勘当うけ
拠所(よんどころ)なく鎌倉の
谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても
面(つら)に受けたる看板の
疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに
切られ与三と異名を取り
押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより
慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)
その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に
格子造りの囲いもの
死んだと思ったお富たぁ
お釈迦さまでも気がつくめぇ
よくまぁおぬしぁ 達者でいたなぁ
安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ
帰(けぇ)られめぇじゃねぇか。
途中で省略しようと思ったが、あまりの名文句に止められなかった(笑)
つまり、木更津で刀で滅多切りにされ、簀巻きにされて海に放り投げられたのだが、奇跡的に助かり日本橋に戻るのである。だから木更津に墓があるのはどうしてもおかしいのである。
まさか「自分を殺そうとした人」がたくさんいる木更津にわざわざ殺されに戻ったとは考えにくい。ところがそれ以前に問題があることに気付くのに時間がかかったが、与三郎は実在の人物なのだろうか?
とにかく与三郎の真実を求めて足を進めた。
西口のロータリーの右側をしばらく行くと「与三郎通り」という看板が目に入った。
その路地に足を進めるが、何も無い。不自然なくらい狭い道で、小さな呑み屋が何軒かあるだけだった。少し大きめの通りにぶつかったので、引き返す。すると往きは気づかなかったが、内山洋服店というお店のウィンドに気付いた。内山洋服店は昭和10年建築という。そのウィンドに何枚かの写真と以下の説明があった。
「この通りは戦後与三郎通りと名づけられました」与三郎通りと名づけられたのがそれほど古い時代ではないことがわかった。
写真の一枚は「芸者衆の与三郎の供養墓参り」であった。そしてその墓があるところが光明寺であることがわかったし、粋筋の信仰を集めていたこともわかった。それが供養墓であることが何となく分かった。
表通りに引き返し、右に進むとその「光明寺」はあり、入口にかなり年季の入った説明板があった。そこに「縁起」が書かれていた。
「切られ与三郎は本名を大吉といい、山辺郡(山武郡)増穂村から木更津に来て島屋という紺屋で働いていた。その頃、源次という網元のおもわれものでお富と言う女がいた。ある日与三郎とお富が仲片町の料亭であいびきをしている所を源次に見られ、与三郎が斬られ、お富は行方をくらました。
その後与三郎は江戸に出て長唄の大夫になり歌舞伎の下座をつとめていた。
そのうち総身にうけた傷あとが三世瀬川如皐の目にとまり、歌舞伎の名作「与話情浮名横櫛」が生まれたという。(木更津市刊行、木更津市史より)」
その説明の真偽は別にして、「切られ与三」が実話という思いは全く無かった。
お墓は小さな祠になっていた。姿の判然としない立像で、文字なども全く読めなかった。
そうこうしている内に時間になってしまい、木更津駅に引き返した。
しばらく待つと駅に迎えのバスが来た。バスから担当の女性が降りてきて、その女性に促されて乗った。そのバスは観光バスなのだが、しばらく待っていると多くの人が乗ってくる。どうやら別のところで集まった人々のようだった。
観光バスは、信号も少なく渋滞もない道を30分近くも走り、山の頂上に巨大な施設としてある「かずさアカデミア」に着いた。どうも研修施設のような施設だった。
そこで、女性総理大臣についてのトークがあり、パネリストとして招かれたのだ。ただテーマ的にあまり関知しないのだが、折角呼んでくれたこともあり、何か言わねばと無理やり発言したらトンチンカンな内容になってしまい顰蹙をかった。
そのイベントは6時には終わった。
ところが陸の孤島のようなところなので、自分だけさっと帰る訳にはいかない。実はその日、忘年ゲーム大会が目黒であったので、是非参加したかったのだ。なぜならそこで行われるゲームは、パーティーゲームで、いつも新しい趣向があり、実に楽しいのだ。私は25年ほど参加している。
ゲームには色々なタイプがあるが、パーティーゲームは電源不要、ボードやカードのような特定の道具不要、必要なのは人間と言葉というある意味究極のゲームだ。いつでもできないからこと参加したかった。
スタッフの人たちと食事することになった。弁当や飲み物など準備してくれていた。懇談をしたり、今年夏の参院選挙のネット使用について話すことを求められたり、国際会議の方法について討議したりした。
結局マイクロバスで木更津の駅に送ってくれた時は午後10時近かった。完全に忘年ゲーム大会参加は不可能だった。それは東京方面に帰る終電車に間に合う時間、とのことだった。
私は未知の土地に行く機会があるとき、必ずジャズ喫茶の情報もチェックしていく。その情報はジャズ関連の雑誌の「ジャズ喫茶特集」などからのものだが、例のジャスラック(日本著作権協会)がレコード演奏料をジャズ喫茶に求めたため、ジャズ喫茶は激減してしまった。(その文化破壊行動については別に記している)
よってその情報はほとんど有効ではないのだが、その跡地を訪ねるという自虐的訪問もペーソスがあって好きなのだ。
木更津には「インプレッションズ」という店と「Le Jazz」という店があることが分かった。「インプレッションズ」は店名としては、コルトレーンのアルバム「インプレッションズ」があるためたいへん惹かれたが、ライヴもあるということで厳密な意味でジャズ喫茶ではないようだった。
もうひとつの「Le Jazz」は、「50年代60年代のジャズを中心に…」となっていて、まさしく希望するジャズ喫茶像がそこにあった。
データで行くと「Le Jazz」は、木更津駅東口の三井銀行の先を入るとなっている。三井銀行は、現三井住友銀行のこと。雑誌発行当時は三井だったのだろう…それだけでもこの情報にペーソスがある。
あるだろう場所に近づくと、ジャズが聴こえてきた。
しかし、予想どおり「Le Jazz」という店は無い。そのブロックを一周回ったが、「Le Jazz」という文字はどこにもなかった。そこで、ジャズの聴こえてくる元に近づいて見ると、「coffee & bar ZigZag」という店であることが分かった。店名にjazzの文字は無いものの、聴こえてくるのはバップである。そこで2階への階段を上った。すると階段を上がったところに「本日貸切」とチョークで書かれたボード。
扉のガラスから中をのぞくと、カウンターとレコードの詰まったレコード棚が見えた。想像より広い店でお客もたくさん入っている。私が入口でうろうろしていたせいか、店の中からドキっとするような美しい女性が出てきた。私が「Le Jazzを探しているのだが」というと、その女性は「ここが以前そうでした」と言う。そして、中に戻ると男性を連れてきた。その男性が言うには5、6年くらい前に今の店名に変わったが、内装は全く変わっていないとのことだった。
するとその女性が「遠くから。探して来たんですって」と助け舟を出してくれた。この助け舟は嬉しくもあったが、そうでもなかった。つまりジャズ喫茶には特定の人間関係、あるいは特定の感情を持って入りたくないからだ。
その男性は貸切が終わり片付けが終わった11時ころには入れる、と言ってくれたが、私は礼を言って階段を下りた。木更津駅に戻り、東京に帰れる最終電車の時間を確認すると11時3分だと言う。ならばその店へは行かれない。しかし、それでいいのだ。一期一会でいいのだと思った。
駅前は意外に寂しく暗く、店もあまり無い。
バス停があり、品川東口行きとなっている。京浜急行の高速バスだと言う。運賃は1300円で、JRより100円以上安い。また、時間も1時間で、JRより40分ほど早い。しかし一番私の目を引いたのはアクアラインを通るということだった。旅で無意味なことはトンネルである。トンネルが長ければ長いほど旅は寂しい。しかし物を考えるには適している。それに憧れた。コンビニでビールとウィスキーソーダを買いバス旅行と決めた。
木更津に呼ばれた。
未知の土地に行く時、必ず早めに行って散策することが好きだ。その日も2時間以上早めに着き、散策しようと思った。
木更津駅に着いて、改札口を出たところで地図を見る。なにか目標を見出すためだ。すると「切られ与三郎の墓」という表示があった。予想もしないものに出会ったという思いだった。切られ与三と言えば歌舞伎の「与話情浮名横櫛」(よはなさけうきなのよこぐし)の与三郎に違いない。
私が好きな歌舞伎役者のひとりに片岡市蔵がいる。
やや険のある顔で、セリフが鋭い。彼が本当に嫌味があって、色悪の朋輩のような役がすごく上手い。例えば「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)の釣鐘権八や、「与話情浮名横櫛」の蝙蝠安などである。是非、「盟三五大切」(かみかけてさんごたいせつ)のごろつき勘九郎など観たいのだが、市蔵の弟の亀蔵は演じている。市蔵が演じたことがあるのかどうなのか知らないが、もし演じることがあるなら是非観たい演目のひとつである。
「与話情浮名横櫛」は色悪がいて、朋輩がいて、訳あり美人がいる、というなんとも歌舞伎らしい仕掛けに満ちている。ところがその色悪である「与三郎」は、木更津で九死に一生を得て、日本橋へ戻るのである。セリフにいわく
しがねぇ恋の情けが仇(あだ)
命の綱の切れたのを
どう取り留めてか 木更津から
めぐる月日も三年(みとせ)越し
江戸の親にやぁ勘当うけ
拠所(よんどころ)なく鎌倉の
谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても
面(つら)に受けたる看板の
疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに
切られ与三と異名を取り
押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより
慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)
その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に
格子造りの囲いもの
死んだと思ったお富たぁ
お釈迦さまでも気がつくめぇ
よくまぁおぬしぁ 達者でいたなぁ
安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ
帰(けぇ)られめぇじゃねぇか。
途中で省略しようと思ったが、あまりの名文句に止められなかった(笑)
つまり、木更津で刀で滅多切りにされ、簀巻きにされて海に放り投げられたのだが、奇跡的に助かり日本橋に戻るのである。だから木更津に墓があるのはどうしてもおかしいのである。
まさか「自分を殺そうとした人」がたくさんいる木更津にわざわざ殺されに戻ったとは考えにくい。ところがそれ以前に問題があることに気付くのに時間がかかったが、与三郎は実在の人物なのだろうか?
とにかく与三郎の真実を求めて足を進めた。
西口のロータリーの右側をしばらく行くと「与三郎通り」という看板が目に入った。
その路地に足を進めるが、何も無い。不自然なくらい狭い道で、小さな呑み屋が何軒かあるだけだった。少し大きめの通りにぶつかったので、引き返す。すると往きは気づかなかったが、内山洋服店というお店のウィンドに気付いた。内山洋服店は昭和10年建築という。そのウィンドに何枚かの写真と以下の説明があった。
「この通りは戦後与三郎通りと名づけられました」与三郎通りと名づけられたのがそれほど古い時代ではないことがわかった。
写真の一枚は「芸者衆の与三郎の供養墓参り」であった。そしてその墓があるところが光明寺であることがわかったし、粋筋の信仰を集めていたこともわかった。それが供養墓であることが何となく分かった。
表通りに引き返し、右に進むとその「光明寺」はあり、入口にかなり年季の入った説明板があった。そこに「縁起」が書かれていた。
「切られ与三郎は本名を大吉といい、山辺郡(山武郡)増穂村から木更津に来て島屋という紺屋で働いていた。その頃、源次という網元のおもわれものでお富と言う女がいた。ある日与三郎とお富が仲片町の料亭であいびきをしている所を源次に見られ、与三郎が斬られ、お富は行方をくらました。
その後与三郎は江戸に出て長唄の大夫になり歌舞伎の下座をつとめていた。
そのうち総身にうけた傷あとが三世瀬川如皐の目にとまり、歌舞伎の名作「与話情浮名横櫛」が生まれたという。(木更津市刊行、木更津市史より)」
その説明の真偽は別にして、「切られ与三」が実話という思いは全く無かった。
お墓は小さな祠になっていた。姿の判然としない立像で、文字なども全く読めなかった。
そうこうしている内に時間になってしまい、木更津駅に引き返した。
しばらく待つと駅に迎えのバスが来た。バスから担当の女性が降りてきて、その女性に促されて乗った。そのバスは観光バスなのだが、しばらく待っていると多くの人が乗ってくる。どうやら別のところで集まった人々のようだった。
観光バスは、信号も少なく渋滞もない道を30分近くも走り、山の頂上に巨大な施設としてある「かずさアカデミア」に着いた。どうも研修施設のような施設だった。
そこで、女性総理大臣についてのトークがあり、パネリストとして招かれたのだ。ただテーマ的にあまり関知しないのだが、折角呼んでくれたこともあり、何か言わねばと無理やり発言したらトンチンカンな内容になってしまい顰蹙をかった。
そのイベントは6時には終わった。
ところが陸の孤島のようなところなので、自分だけさっと帰る訳にはいかない。実はその日、忘年ゲーム大会が目黒であったので、是非参加したかったのだ。なぜならそこで行われるゲームは、パーティーゲームで、いつも新しい趣向があり、実に楽しいのだ。私は25年ほど参加している。
ゲームには色々なタイプがあるが、パーティーゲームは電源不要、ボードやカードのような特定の道具不要、必要なのは人間と言葉というある意味究極のゲームだ。いつでもできないからこと参加したかった。
スタッフの人たちと食事することになった。弁当や飲み物など準備してくれていた。懇談をしたり、今年夏の参院選挙のネット使用について話すことを求められたり、国際会議の方法について討議したりした。
結局マイクロバスで木更津の駅に送ってくれた時は午後10時近かった。完全に忘年ゲーム大会参加は不可能だった。それは東京方面に帰る終電車に間に合う時間、とのことだった。
私は未知の土地に行く機会があるとき、必ずジャズ喫茶の情報もチェックしていく。その情報はジャズ関連の雑誌の「ジャズ喫茶特集」などからのものだが、例のジャスラック(日本著作権協会)がレコード演奏料をジャズ喫茶に求めたため、ジャズ喫茶は激減してしまった。(その文化破壊行動については別に記している)
よってその情報はほとんど有効ではないのだが、その跡地を訪ねるという自虐的訪問もペーソスがあって好きなのだ。
木更津には「インプレッションズ」という店と「Le Jazz」という店があることが分かった。「インプレッションズ」は店名としては、コルトレーンのアルバム「インプレッションズ」があるためたいへん惹かれたが、ライヴもあるということで厳密な意味でジャズ喫茶ではないようだった。
もうひとつの「Le Jazz」は、「50年代60年代のジャズを中心に…」となっていて、まさしく希望するジャズ喫茶像がそこにあった。
データで行くと「Le Jazz」は、木更津駅東口の三井銀行の先を入るとなっている。三井銀行は、現三井住友銀行のこと。雑誌発行当時は三井だったのだろう…それだけでもこの情報にペーソスがある。
あるだろう場所に近づくと、ジャズが聴こえてきた。
しかし、予想どおり「Le Jazz」という店は無い。そのブロックを一周回ったが、「Le Jazz」という文字はどこにもなかった。そこで、ジャズの聴こえてくる元に近づいて見ると、「coffee & bar ZigZag」という店であることが分かった。店名にjazzの文字は無いものの、聴こえてくるのはバップである。そこで2階への階段を上った。すると階段を上がったところに「本日貸切」とチョークで書かれたボード。
扉のガラスから中をのぞくと、カウンターとレコードの詰まったレコード棚が見えた。想像より広い店でお客もたくさん入っている。私が入口でうろうろしていたせいか、店の中からドキっとするような美しい女性が出てきた。私が「Le Jazzを探しているのだが」というと、その女性は「ここが以前そうでした」と言う。そして、中に戻ると男性を連れてきた。その男性が言うには5、6年くらい前に今の店名に変わったが、内装は全く変わっていないとのことだった。
するとその女性が「遠くから。探して来たんですって」と助け舟を出してくれた。この助け舟は嬉しくもあったが、そうでもなかった。つまりジャズ喫茶には特定の人間関係、あるいは特定の感情を持って入りたくないからだ。
その男性は貸切が終わり片付けが終わった11時ころには入れる、と言ってくれたが、私は礼を言って階段を下りた。木更津駅に戻り、東京に帰れる最終電車の時間を確認すると11時3分だと言う。ならばその店へは行かれない。しかし、それでいいのだ。一期一会でいいのだと思った。
駅前は意外に寂しく暗く、店もあまり無い。
バス停があり、品川東口行きとなっている。京浜急行の高速バスだと言う。運賃は1300円で、JRより100円以上安い。また、時間も1時間で、JRより40分ほど早い。しかし一番私の目を引いたのはアクアラインを通るということだった。旅で無意味なことはトンネルである。トンネルが長ければ長いほど旅は寂しい。しかし物を考えるには適している。それに憧れた。コンビニでビールとウィスキーソーダを買いバス旅行と決めた。
てっけんサミット2014
入口案内はしょぼいが、全国から33以上の大学が集まり200人以上のスタッフ参加、明治大学のリバティータワーを7階から11階まで借り切って行われるかなり大がかりな鉄道研究会のイベント。
初日はクローズドのシンポジウム、二日目が一般も参加できるデモンストレーション日。
芝浦工業大学の修士1年のAさんの講演を聞いた。
テーマは「プラレールで大宮駅を表現してみた」
私も知らなかったのだが、プラレールの目的のひとつは「表現」なのだ。
今回はいかに「大宮駅」を表現できるかである。
「表現」であって、再現ではないところがミソ。
この表現が並大抵ではないのだ。
まず駅に繋がるレールを全部表現し、今度はそこを走る車輛。
車輛は数年しか運行しなかったものも登場する。
無論、改造あるいは製造しないとならない。
私の知らなかったことのもうひとつ。
レールはループである。
だから現実との乖離が生じるので、丁度「反対側で」調整レールが必要となる。
努力と研究はまさに見物だった。
運転会もあり、デジタルのNゲージを運転させてもらったが、これがスゴイ。
ディーゼル車が回転台を回転し、レールに乗り運行ししばらくしてからバックして引っ返しさらに回転台に乗る、という運転だった。
デジタルだからひとつのレールで、複数の車輛が運行できるのである。









