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自らの文章のアーカイブと考えている

堀切への旅 その4 大黒屋 2011.1


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 あの時代、便宜的に「アルバイト時代」と名づける。

 その時、私はアルバイト仲間のバンドに加わっていた。控えのベーシストというポジションだった。そのバンドはグランドファンクレイレロード(GFR)のコピーバンドで、月に1,2回四谷スタジオで練習をするのだが、それは練習ではなく「公演」であった。

 つまり、事前にGFRのアルバムを決め、その全曲を演奏するのである。時として聴衆もいた。
 そんな関係で車の中では常にGFRを聴いていた。歌詞とベースのフレーズを覚えるためである。

 そのバンドのベーシストが、あるライブで聞いたと言う日本の女性シンガーの録音を聴かせてくれた。透明感のあるハイノートにとても魅力を感じた。その時代性もあるのか、日本語の歌というものに接する機会が少なかった。だから新鮮だったのかもしれない。
 モップスはライブハウスで聴いていた。

 しばらくすると、そのシンガーがアルバムを出したというので、カセットをもらった。それを車で聴くようになって、GFRは聴かなくなってしまった。だから夜とその曲が連動するのである。

 小島屋のカウンターでハイボールを呑みながらぼんやり相撲を見ているときに、突然その中の一曲が脳裏を占めたのである。おそらく聴かなくなってから30年は経っていると思う。
 その歌と歌詞が頭から離れなくなってしまったのだ。しかし、アルバムタイトルも曲名もわからない。

 堀切の沿線上に住んでいる同級生のところに行こうと思いたった。
 彼はそのバンドとの接点は全く無かったのだが、ある時期同じ「音楽生活」をおくったことがあったからだ。

 結論は簡単。
 彼は全く知らなかった。そして、二人で「大黒屋」で呑んだ。

 実はこの「大黒屋」に関しては曰くがある。

 2009年12月30日に同級生の家に遊びに行った時に、同級生夫妻が「いい店を見つけた」と言う。
 「どんな店?」と聞くと、「さくら湯の近くのホッピーという看板のある店」と言う。なんと正確な場所も店名も分からないし、入ってもいない。「外見がいい」というだけの話。

 すごく気になって、翌日大晦日に「さくら湯」というキーワードだけで探しに行った。長年の培ったカンはたいへんするどく、すぐに見つけた。確かにいい店だ。いい店のはずだ。暖簾は出していないものの、中に人がいたので聞いてみたが今日はやっていないとのこと。つまり入ってはいない。

 その店に1年かけてようやく到達した。とんだ長旅である。







堀切への旅 終章 過去の時点への焦燥


 大黒屋からの旅を終え、ある過去の時点で毎晩聴いていた音源を探す旅に出た。かなり長い時間がかかったものの、自宅の400本近いカセットテープのコレクションの中にあった。

 その歌はこういう歌だ。

だれも知らないこの町のなかで
だれにもあわず ひとり
見るものはすべて今
あわく むなしい

だれもいない この部屋のなかで
なにもいわず ひとり
ものおもいに沈むとき
目をとじる わたしは

だれでもいいからすぐに来て
だれかがそばにいてほしい
だれでもいいからすぐに来て
だれかがそばにいてほしい

だれもいない

だれもいないこの部屋のなかで
なにもいわず ひとり
ものおもいに沈むとき
目をとじる わたしは

だれでもいいからすぐに来て
だれかがそばにいてほしい
だれでもいいからすぐに来て
だれかがそばにいてほしい

だれもいない

だれもいない

 ある過去の時点に対し、突然激しく思慕の念が生ずる時がある。
 その時にはなかったものである。
 その意味について考えさせられる、なぜなのか、と…

 ひとつには、その当時には気付かなかった価値に気付くことである。
 過ぎ去ってみれば、彼女との関係は実に素晴らしい関係だった。恋愛関係とは全く別の次元だったとは思うが、有意義で濃密で安らぎさえ覚える関係だったと思う。

 もうひとつには、その過去の時点における自らの可能性を感じるからだ。
 それがその当時気づかないからこそ、過去の時点の自分について激しい焦燥を感じるという、単純なアンタゴニズムではない自己内葛藤が生ずるからだ。

 所詮人生なんて、後悔と慚愧が98パーセントで、残りの2パーセントが自己愛…らしいから。
堀切への旅 その3 堀切菖蒲園 2011.1

 堀切菖蒲園の縁起は諸説あってかなり面白い。もともと綾瀬川に沿った低湿地で花菖蒲の栽培の適地だったと言う。

 一説には
 「室町時代からこの美しい花に魅せられた地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼(あさかぬま)から種子を持って来て自邸に培養を始めた」とあり、

 もう一説は
 「寛文・延宝(1661~1680)、堀切村の小高伊左衛門が全国各地の花菖蒲を収集し、庭に植えたのが始めで、享和年間(1801-03)花菖蒲の収集家として知られた松平左金吾(菖翁)から秘蔵の「羽衣」「立田川」などの品種を譲りうけ、更に本所の旗本万年録三郎から当時の逸品として知られた「十二一単」をはじめ、相模、土佐から十数種類を集め、天保末には名花が咲き競った」  とある。

 また、菖蒲園はここだけではなく、小高園(江戸末-1942年)、武蔵園(明治初期-昭和初期)、吉野園(1887年-昭和15年前後)、堀切園(明治後期-現在)、観花園(明治後期-大正初期)、四ツ木園(大正初期-昭和初期)とありその中の堀切園のみが残ったと言う。

 磯貝家が旅館を営みながら再興の時を待ち、1953年に観光旅館を兼ねる形で再開したものの、度重なる水害で磯貝家の手を離れ、60年に東京都の公園化にともない「都立堀切菖蒲園」が開園となった。現在は葛飾区に移管されている。

 竹内誠(『江戸社会史の研究』弘文堂)は、未曽有の2世紀余続いた平和(島原の乱から維新)と、身分差を越えた自由な雰囲気(日常生活の場では武士は特別扱いされなかった)、で文化がとても発達したと分析している。

 俳諧や川柳や滑稽・黄表紙などは町人と武士、時として旗本が一緒に創作活動していることは珍しくない。

 収集や保存には多大なエネルギーが必要であったと思われる。
 そんなことを思いながらすっかり夕闇に包まれた園を後にし、今度は別の道を通って駅の方へと向かった。


小島屋

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horikiri06 駅に戻る道を外れ、青木書店に戻り少し背文字を眺めた。ジャンルカテゴライズも特徴があるし、本一冊一冊に整理番号が入っていたり、古書好きだったら好感を持つだろう店だった。

 目録やエッセイで知っていた古書店に偶然出会うという楽しみに浸った。是非通いたい店である。古書店の楽しみ方の大原則は「通う」ことにある。探書しているなら別だが、通常の古書店との付き合いは「通う」ことである。

 古書店を出て、上を線路が走っているガード沿いに駅に向かって歩いていると、ガードを線路をくぐるように狭いガードトンネルがあいていた。ガードトンネルというとつげ義春の「夢の散歩」をすぐ連想した。また、路地や地下道があると入ってしまう「習性」のため、そこをくぐった。

 向こう側に出てみると、やけに暗く寂しい。
 少し歩くと、店の明かりが目に入った。そこが「小島屋」だった。テントに「元祖ハイボール」とあった。その一言だけで暖簾をくぐった。

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私の知る限り「元祖ハイボール、元祖チューハイ」とうたっていたのは押上の「百尺」と曳舟の「三裕酒場」である。

 東京の下町における焼酎文化について語ることはなかなか難しい。
 元々美味しい焼酎というものがなく、ただ安価で酔えるという存在だった焼酎をどうすれば呑みやすくなるかという工夫が「焼酎ハイボール」「チューハイ」という存在であった。

 それ以前に「ウメ割」があった。
 ウメの濃縮シロップを焼酎に入れるものであるが、焼酎ばかりのところにわずかにそれを入れるというもので、現在でも中野「四文半」や北千住「大はし」でやっている。

 焼酎に炭酸を用いるようになって「ハイボール」が生まれる。その時に「割もの」を用いたのである。その「割もの」を独自に作っていた店が「元祖」と名乗ったと思う。  百尺の場合は独自に作ったものを焼酎と混合し一升瓶に入れておき、タンブラーに 瓶入りの炭酸を全部入れ、残った部分にそれを入れる。そして、4分の1に切ったレモンスラスイを浮かべる。氷は入れない。炭酸の王冠が会計のカウンターになる。

 小島屋はカウンターだけの見るからにいい店と思わせる風情がある。
 座ると同時に「ハイボール」を依頼する。
 見ていると、ポットに焼酎と割ものが入っていて、炭酸を入れた後にそれを入れる。飲んでみるととても淡い味わいであって、自己主張するタイプではない。確かに「呑みやすくする」という当初の目的は完全に全うしている。ただ、やや寂しい。

 お店のテレビでは相撲をやっていた。
 私以外に二人ほどお客が入ってきて、静かに飲んでいる。
 煮込みも平均以上。
 呑みながらぼんやりと堀切の夜を思っていた。
 あの時、車である女性を送ってきた時、車から降りることは無かったので、この街に彷徨いいることもなかった。

 すると、突然頭にある音楽がよみがえった。