浮名横櫛紀行(木更津、川崎、川口の旅) その2 過去ログ転載 | leraのブログ

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浮名横櫛紀行(木更津、川崎、川口の旅) その2 2010.12.18-19


 かつては路線バスの旅が好きだった。

 津軽、青森、下北半島、小金湯(札幌郊外)など懐かしい。地元の人たちが乗っては降りてゆく、その会話や挨拶のひとつひとつが懐かしく感じるのだ。新幹線の整備計画で、JRの長距離の急行も全くと言っていいほど無くなってしまった。それは旅にたいする困難さも増大させた。まず金額が高くなった。そして目的地をちゃんと決めなければならなくなった。旅の環境はますます悪化する。

 青森に行く場合奥羽本線回りの「急行津軽」が13時間、東北本線回りの「急行八甲田」が11時間だった。それぞれ上野発で1日に1本だった。好んで時間のかかる「津軽」に乗ったのは、そこに世界があったからだ。夜から始まり、朝があり、昼がある。北関東の人、日本海側の人、津軽の人、みんなが乗っては降りていく。挨拶をし、会話を交わす。葬式に行く人、病院に行く人、学校に行く人、帰省する人、それぞれの生活があり、人生があるような気がした。宮本常一があれほど旅にのめり込んだのは、そんな旅の魅力にあったのではないかと思う。

 実際には、人は感情で動く動物である。人は感情で人を助ける。人は感情で人の哀れを感じる。だから惻隠の情が生まれるのだ。急行の廃止は感情の住む余地を減少させるような、人間存在の全てを企業ベースに乗せるような、そんな気がする。人々を孤立させ、連帯を喪失させ、差別し差別される社会をつくるのが、我々の目的ではなかったはずだ。

 そのバスの途中停車は1箇所のみ。暗黒の平原のような一本道を通り、アクアラインへと入る。川崎を素通りし、なんと40分で品川駅東口についてしまった。津軽や下北の雪景色を思い出したりしていたので、飲み物を飲みきる前に着いてしまった。品川駅は雑踏。それが現実。

 翌日は川口へと向かった。

 混声合唱団コール・ソレイユの第36回定期演奏会が、川口総合文化センター・リリアメインホールで開かれるからだ。

 若い頃、声楽やオペラやコーラスが嫌いだった。今それが好きなのだから人生は面白い。なぜ嫌いだったのか…理解できる年齢に達していなかったとしか言いようがない。しかしコーラスに関しては、バッハ生誕何年祭の時に、フランス・ブリュッヘン指揮のロ短調ミサ曲を聴いたのがきっかけだと思う。魂がゆすぶられるような神秘(笑)体験をしたのだ。それからアマチュアや学校行事のコーラスを盛んに聴くようになった。NHKの音楽コンクールも楽しみにするほどになった。

 コーラスの素晴らしさは、音声によるハーモニーの素晴らしさに尽きる。本当に魂に直接響くのだ。これは人の声だからこその効果なのだ。そして、歳のせいか美しいハーモニーに接すると涙が出るようになった。

 コール・ソレイユは大学生で編成されているが、実に完成度の高い演奏が聴けた。ただコーラスに関しては本稿の目的ではないので、省略する。

 以前川口に来たことがある。

 7,8年前に、友人二人に誘われて川口へ行ったことがある。その理由は「いい屋台がある」ということだった。その屋台は西口の駅前の歩道橋の下にあった。ひとりの女性がやっていて、色々な手料理を小鉢で出す屋台で、味がとてもよかった。客も常連ばかり。静かに会話している人たちばかりで雰囲気もとてもいい。私もすっかり気に入って、遠方ながら何回か、通った。ある雨の日に行ったときは店が出なかった。

 その場所に行こうとしたが、街そのものが様変わりしていた。ほとんどが大きな商業ビルとなって、クリスマスが近いのかイルミネーションがきらびやかである。私にとって電気によるイルミネーションは冷たく軽薄な印象しか与えない。屋台のあるはずの所に行くと、そこは大手スーパーマーケットの前だった。以前来た時は銀行の閉まったシャッターの前だった。

 当然、屋台はなかった。

 全く別の街だ。

 コーラスの後に呑みたいと思っていたので、呑める店を探した。チェーン店ではないところ、安直なものを出さないところ、それらは外観でわかる。派手な看板がなく、古びた外観ながら掃除が行き届いているところだ。間違ってもホームページなど開設していないところだ。そういった店は足で探すか、口コミ情報しかないが、出会った時の感慨はひとしおだ。そんな出会いの記憶ばかりが残り、放浪してしまうのかもしれない。無論失敗も数多くあったが、それも旅だった。

 帰りの電車に乗った。

 時代は移ろい、時間は流れるのだ、人の感情など遺棄し変遷を続け留まることを知らないのだ…あたりまえのことなのだ。

 家に帰りついてから「与話情浮名横櫛」のことを調べたら、なかなか面白いことが分かった。戸板康二の解説には「主人公の与三郎は、弘化頃にいた芳村伊三郎という長唄の師匠をモデルにしたもの」(『名作歌舞伎全集 第16巻』)と書かれている。別の資料では彼は四代目で「幼名大吉」となっているので、光明寺の説明板はそれほど現実離れしているとは言えない。この「芳村」は九代目から「杵屋」になる。墓の雨露をしのぐ屋根小屋は、市村羽左衛門が与三郎を演じた記念に寄進したもの。

 ところが「墓」がもうひとつあることがわかった。

 千葉県東金市にある「最福寺」である。そこの縁起にはこう記されている。

 「四代目伊三郎は、このお寺から南西4キロの清名幸谷の紺屋の中村家の二男として寛政12年(1800年)に生まれました。名を中村大吉といい若い頃から長唄に親しみ、その美声と男ぶりは近隣でも有名だったようです。大吉は長じて木更津で型付職人として腕を磨き、年季が明けて清名幸谷に帰り兄の紺屋を手伝けしておりました。根が好きな長唄を唄うために家から1キロほどの東金と大網の中程の新堀の茶屋に足しげく通っておりました。そこで見そめたのが茂原生まれのきち(お富のモデル)でした。

 しかし、きちには近くの堀畑の親分山本源太左衛門という旦那がいたのです。美男美女の間柄はすぐに親分に知られました。若い二人は勝手知った木更津に逃げましたが、子分達に追われ大吉は切り刻まれむしろに巻かれて海に投げ込まれました。しかし、奇跡的に江戸の漁師に助け上げられたのでした。一方きちは連れもどされ、すぐに江戸に売られてしまいました。後年江戸へ出て唄方となった大吉は、4代目伊三郎を襲名しましたが、若い日の仕打ちで受けた顔から身体中の数十の疵が8代目団十郎の目にとまり、鶴屋南北の門下、三世瀬川如皐に伊三郎、おきちをモデルに人物名、地名などを含め、その筋書きも、おもしろおかしく善玉、悪玉を誇張して書きあげさせました。」

 中心の場所は東金、大網と言ったところで逃げたところが木更津となる。

 8代目団十郎は1853年に与三郎を演じ、翌年大坂で32歳で自殺している。

 ところで光明寺の先の撰択寺(せんちゃくじ)には「蝙蝠安」の墓もある。「本名を山口瀧蔵といい、文化5年、木更津五平町の油屋「紀の国屋」の次男で、生粋の木更津児。美声の持ち主で常盤津を得意とし、花柳界の寵児と言われるほどの人物で、同じ美声家の大吉(与三郎)と親しかったようです。毎夜ふらふらと飛び回るので、こうもり安の異名をとりました。芝居の中では、与三郎とともにお富の館にゆすりに行くなどと書かれていますが、あくまでも脚色上のこと。実際の彼はそのような人柄ではなく、劇中の人物像に心曇らせたとか。芝居で右ほほにある蝙蝠の刺青は左の太ももにあったと言われています。選擇寺にある先祖代々の墓碑には、慶応4年4月5日進岳浄精信士と刻まれています。」と言う。

 蝙蝠安のモデルになった山口瀧蔵氏にとっては、たいへん迷惑なことだったろう。方や常磐津の美声が売り物の遊び人、もう一方はケチな「ゆすり・たかり」をする小悪党。しかし、この小悪党が歌舞伎には欠かせない人物となっているのだから、歌舞伎ファンは山口瀧蔵氏に深く感謝しなくてはならないだろう。

 そうすると、本当に墓参しなければならないのは、山口瀧蔵氏の墓ということになる。今度はZigZag訪問と、山口瀧蔵氏墓参目的に木更津に行ってみようか…

 ますます「与話情浮名横櫛」が見たくなった。

 もちろん片岡市蔵の蝙蝠安でだ。

 与三郎はだれがいいか…仁左衛門だったら「もっけのせぇうぇ」だが、愛之助もいい(2008年浅草公会堂で演じている)。

 木更津、歌舞伎、ジャズ、コーラス、屋台の旅だった。

 おもしろい旅だった。

 また、こんな旅が待っているのだろうか…2010.12.18-19 

 おわり

浮名横櫛08