タケワリ異聞 「謎」の遊びを求めて 1995.7.20
本年3回目の北海道旅行の時に千歳市の図書館に行く機会を得た。もともと北海道先住民の歴史に興味があり、何度か足を運んでいたが、今回は別の目的がもうひとつあった。
6月に東大阪市で開かれた遊戯史学会に参加した時にU.I氏(世界各地の将棋や伝承遊戯の研究者)から、ウタリの人々の室内遊戯について問われたのだ。彼は私が北海道に良く行く事を知っていたし、昨年夏の松浦武四郎記念館訪問により私がアイヌ史を調べている事も知っていたからだが、私にはまともな返事ができなかった。(拙著「西方紀行」参照)
昨年末に札幌マリア院のシスターMのご紹介で札幌の「ウタリ協会」を訪ねた時に、資料である「沙流川アイヌ子供の遊び」というビデオを見せてもらったので、春から夏にかけての屋外遊戯なら知っていたのだが、室内遊戯についての知識は全くなかった。
また、知人の北海道立北方民族博物館(網走)の学芸員であるS.T氏が、ある出版社から来年出る予定の「世界民族遊戯辞典」でアイヌの部を担当することになり、それについての助言を求められてもいたからだ。
イヌイト、アリュートをはじめとして北方民族に室内遊戯の類はあまり無い。
長く寒い冬を想像するとこれは不自然に思え、宗教的な側面もあるのでは、と憶測したぐらいである。また、アイヌのように歴史的に抑圧された民族に「遊戯」が伝承されにくいのは悲しい事実でもある。
私の図書館探検はそんな出発点を持っていたのだ。
最初は「シコッ」から「千歳」への地名変更の由来、時期、その時の番屋の現状などを調べた。(これらはここのテーマと異なるので別に述べる。)
次に「遊戯」の方を調べたのだが、やはりほとんど知っている屋外遊戯がほとんどであった。
ところが、ある新しい写真資料中心の本で、何人かの子供達がチセ(家)の中で「手遊び」している写真を見つけたのだ。 (巻末資料参照) 片手に4本から5本の竹の棒(竹片)を両手に持ち、持ち変えたり、投げた物を手の甲で受けたり、と見えるのである。
正直言って激しく興奮した。
ウタリの人達のそんな遊びを聞いた事も、文献等で読んだことも無かったし、アイヌに限らずその手の遊びは私の知識には無かったのである。朝鮮半島で遊ばれている「ユンノリ」に形態は近いと思ったが、ユンノリはダイスの代わりに4本の木の棒を用いるレースゲーム(パチーシ)であり、明かに竹の棒がメインの手遊びであるこれとは異なるのである。
興奮のなかでもうひとつ気がついた事があった。その写真について何ら説明がないのである。仕方なくその写真のコピーを撮り、図書館の人にも聞いてみたが「わからない」との事だった。
夕方に知人と待ち合わせてあったので、後ろ髪を引かれる思いで図書館を後にした。(市内在住、在勤じゃないと借りられないのだ。また、郷土史コーナーというのがあって、これは資料の宝庫ともいえる。当然東京で同じ質・量を求めるのは困難である。)
しかし、すぐに知人に聞く事にした。例の「十勝日誌菓子箱事件」の二の舞を踏まないためだ。
「十勝日誌菓子箱事件」と言うのは、私が松浦武四郎の足跡を追っている時に(拙著「松浦武四郎の簡単なパンフレット」参照)偶然出会ったもので、表に「十勝日誌」と書かれた箱である。十勝日誌は武四郎の紀行文の中でも著名なものだが、それを題にとったその箱が何に使われたものであるか分からなかったのだ。(その箱はある女性が裁縫箱として使っていた紙製のものである。)
随分長い時間が経過し、たまたま三重県の三雲町に松浦武四郎記念館ができたので、そこへ行く過程で分かるかもしれないと思ったが結果としてなにも分からなかった。(拙著「伊勢紀行」参照)その伊勢の旅から帰郷した時に、それこそなにげなく北海道の友人に聞いたら、彼女は何と知っていたのだった。
その時の衝撃は大きい。
何箇月も分からなかった箱の存在があきらかになったのだから…それは北海道のメーカーが出している詰合わせ菓子だったのである。
それが最初から「食い物」と分かっていれば…
タクシーの中で早速友人に聞くと(名称も分からないので、写真を説明した。)なんと、またまた彼女は知っていたのだ!
しかもタクシーの運転手さんも知っていた。
しかし、名称は「分からない」との事だった。
私はアイヌの遊戯が北海道において和人に伝播したのでは、と想像した。
友人の実家の人に聞くと、彼女の姉妹、母親、父親、祖母は知っていた。
そしてかろうじて祖母だけが名称を記憶していて、「タケワリ」あるいは「ガッキ」と言ったという。また、祖母はその時に歌う歌も記憶していて、聞かせてもらったがそれは完全な日本語の歌であった。また、父親からは自作の体験談を聞いたし、母親からは子供にそれを入れる奇麗な袋を作ったという話も聞けた。
私はここで疑問をいくつか持った。
北海道にはもともと真竹が少ないのになぜ竹の棒を用いるのか?(ムックリなどのウタリの人々に伝わる竹の道具はモウソウ竹などで作られている。)消滅した遊戯はたいてい「名称」が残っていて遊び方が分からないものがほとんどであるのに、何故名称が伝わらなかったのか?何故友人達の世代を最後に滅んでしまったのか…
友人の母親が貴重な報告をしてくれた。
旅行で行った「開拓なんとか館」に売っていた、というのだ。
これには私は狂気した。詳しい事が聞けると共に現物が入手できるのである。その「開拓なんとか館」の正式名称が分からなかったが、彼女の兄弟が調べてくれて電話で教えてくれ、それは野幌にある北海道立開拓記念館であった。
東京に戻りすぐに「開拓記念館」の電話番号を調べたが、これがなかなか見つからない。結局、北海道庁、観光課、開拓紀念館とたどった訳だが、これは武四郎記念館を探すのと似ていた。あの時は三重県庁(なんとここではその存在を知る人がいなかった。)次に生地である一志町(ここでも記念館の存在を知らなかった。しかし、ここで武四郎の生家は隣の三雲市にあると聞いた。)三雲町の産業課とたどってようやく場所が分かったのである。
開拓記念館は親切ですぐに現物を送ってくれる事になったが、「たけわり」の歴史的由来などは分からなかった。ただそこでは「たけわり」と呼ばれている事は分かった。
これらの件をS.T氏に照会すると、S.T氏は「レプニ」ではないか?と返信してきた。
レプニとはユカラを詠唱する時に炉ぶちを叩く木の棒である。
つまりS.T氏も知らなかったのである。
その瞬間から、この「たけわり」は、私とS.T氏との「期待」に変わった。
S.T氏と別の話の中で、私が彼に紹介した「沙流川アイヌ子供の遊び」のビデオを札幌のウタリ協会で見たと知らされたが、あれは「夏編」で「冬編」もあるとのことだった。ところが「冬編」は東京新宿の「民族文化映像研究所」が所有しているとの事だった。(もともとこれらの映像はウタリ協会は協力であって、製作は当研究所との事だった。)
そんな話の中で何度も見た「たけわり」の写真を再度見直すと、写真の下に「民族文化映像研究所提供」と記されているではないか!これはきっと「冬編」に収められている映像に違いない、と直感した。
すぐにその研究所に電話をすると、すでに「冬編」は上映会が終わっていて次は早くても1年後との事だった。(S.T氏の報告から札幌のウタリ協会に「冬編」がないことを知っていた。)
7月の半ばになって遊戯史関係者と会う機会があり「たけわり」についての質問をしてみた。
ひとりは遊戯史学会の会員のK氏、もうひとりは元日本アダルトゲーム協会会長のN氏である。
驚くべきことに二人とも知っていて、しかも体験者だった。
K氏は東京で、N氏は長崎で、共に小学校低学年の時にやった事があると言う。
K氏からは「たけおとし」と言う異名を教えてもらったし、N氏は実演までしてくれたのである。
私とS.T氏の期待は崩壊の危機に立たされていた。
ひょっとしたらある時期まで日本全国で普遍的に遊ばれていた「遊戯」である可能性が出てきたのだ。また、知り合いの60歳前半の女性も知っていた。彼女は福井県で子供の時にやったと言う。(但し、名称の記憶は無かった。)「鱒ずし」の樽に付いている竹片を代用にした事もある、という貴重な報告もあった。
次なる目標は幼稚園であった。
子供達によって普遍的に遊ばれていた「遊戯」なら、幼稚園の先生に尋ねるのが得策と思ったのだ。ところが情報は得られなかった。
私は最期の期待を胸にレラ・チセに行かねばならなくなった。
レラ・チセ(「風の家」という意味。)というのは、新宿の早稲田にあるウタリの人達でやっているアイヌ料理の店で、私は偶然設立の時から関わっている。(今年の5月で一周年を迎えた。)
7月19日の早い時間にレラ・チセに行った。
お客の少ない早い時間に行くと、色々話をしてくれるのだ。生ビールとキトピロとチェップとメフンを頼んで、早速例の写真のコピーを取り出し聞いてみた。料理も作っている舞踊家の広尾さんがそれを見てすぐこう言った。
「ああ、たけわり、ね…」
正直言ってがっかりした。
アイヌの言繁で「遊戯名」が出てくるのではと思ったからだ。
彼は他の女性達にきいてくれた。
ひとりのフチ(おばあさん)と言うにはまだ若い女性はこう言った。
「これ、たけわり。シャモの遊び!」
シャモとはシ・サム(隣人)が転靴した言葉で、少々侮蔑的な意味合いのある「日本人(和人)」という言葉である。これで決定的だった。その女性は記憶を辿ってくれた。
女性「ぼっこ(棒のこと)使った物っていうと、ユカラの時に持つぼっこがあったけど…」
私「それはレプニのことですね。」
女性「あなたのほうがよっぽど詳しい、アイヌと代わってよ。」
お店の人も、もうひと組いたお客さん達も、私も、皆で大声で笑った。
私は笑いながら複雑な心境であった。彼らの抑圧された歴史を肩代わりする事は私に絶対にできないからだ。私は少なくとも抑圧してきた、そして今でも抑圧している側に位置しているからだ。
私「室内での遊びにはどんなものがあったのですか?」
皆さん「遊びだなんて…電気の無いランプの暮らしでしょ、昼は農家の手伝いや家の手伝い、夜になれば早く寝ろっていわれるばかりだったし…だいたい道具を使った遊びってしなかった。」
私「道具を使った遊びが少ないのは宗教的理由ですか?」
皆さん「違うよ、貧乏だからよ。」
「電気の無い暮らし」と言った人は私と10歳しか違わないのだ。
それから先の会話は1時間半にも及んだが、重く濃密なものだった。
是非別の機会に述べたいと思っている。
私には野心があった。この「たけわり」を10月の遊戯史学会で発表しようと思っていたのだ。「日本先住民の室内遊戯について…」とかなんとか言って…この野心は潰えたし、S.T氏と共有していた期待も霧散してしまった。
つまり、私が尋ねた私以上の年令の人はほとんど知っていたのだ。
学会に発表するところではないのだ。
知らなかったのは「私」だげだったのだから…(ああ、恥ずかしい…)
しかし、また素晴らしい旅ができた。1995.7.20
補遺 奄美大島でも「シュルクル(白黒の意味)」として遊ばれている。

