クメール幻想 消えた大使館を求めて 1998.3.20
麻布十番に近い飲み屋で飲んでいた時、大使館の話しになった。それはその近くに大使館が多くあるからである。そんな話しから私の脳裏に突然浮かんできた風景があったのだ。
私は高等学校の時、陸上競技をやっていたが、その合間によく絵を描いていた。
題材は人物か風景がほとんどで、風景は高速道路下が特に好きで、よく高速道路の下を徘徊していた。
学校を出てカトリック教会(聖カテドラルマリア大聖堂)との間の狭い坂道を音羽町の方へ下っていくと高速道路が上を走っている薄暗い道があり、その界隈が好きだったのだ。そんな時に迷い行ったのが、突然脳裏に浮かんできた風景であり建物なのだ。そこはすでに無人で、廃墟だった。
少し開けた敷地があり、その奥にその建物はあった。そして不自然な方向に入り口を見せていた。湾曲した壁面を持ち、ひさしのある車止めがあり、その両脇に背の高い椰子の木が1本ずつあった。
その建物は「クメール大使館」であった。
「クメール大使館」と縦書きされた木製のプレートがあり、その字の雰囲気までよく覚えているが、そのプレートがその湾曲した壁面を持つ建物にあった記憶は無い。敷地への入り口にあたる所にあったかもしれない。
ところが、その話しをした時に聞いていた人達から疑義が出された。
クメールという国家そのものに対する疑義と、大使館が東京にあったかどうかという疑義である。
私も漫然と記憶の中に「クメール大使館」があったものの、考えてみると確かにおかしな話しだった。クメール・ルージュの政府が東京に大使館をおく事は考えられなかったからだ。
そこで、家に帰りさっそく調べてみた。
そしてクメールという国名に行き当たるのにそれほど時間がかからなかった。シアヌークが国を追われた所から歴史は始まる。
1970.3.18
シアヌークの外遊中(フランス、ヨーロッパ)前首相ロン・ノルとシリク・マタクがクーデター。シアヌーク追放。シアヌーク中国へ亡命。
1970.5.3
カンボジア王国民族連合政府(シアヌーク、クメール・ルージュ、クメール・ベトミン)、カンプチア民族統一戦線北京で樹立。
1970.10.9
王政廃止。クメール共和国と改名。
1971.1.7
クメール共和国が正式国名であると国連に通告。
1971.1.22
ベトナム共産勢力プノンペン攻撃。
1971.1.
南ベトナム軍ラオス進攻
1973..
シアヌーク、クメール・ルージュの支配地域に入りポル・ポトと会う。結果農民の支持を受け、カンプチア民族統一戦線兵士が3,000人から60,000人に増加。
1973.8.
米軍によるネクルアン誤爆事件
1973.8.15
米軍議会の圧力によりカンボジア爆撃中止
1975.1.1
共産軍プノンペン包囲、攻撃。
1975.4.1
ロン・ノル出国、ハワイへ。
1975.4.12
米軍プノンペンより撤退。
1975.4.17
プノンペン陥落。
1976.4.14
民主カンプチア政権発足。ポル・ポト首相、キュー・サムパン議長。
1979.1.7
ヘン・サムリンによりプノンペン陥落。
1979.1.10
カンプチア人民共和国成立宣言
つまりロン・ノルの政府、1970年3月から1975年4月まで「共和国」があり、その国だったのだ。1970年私は高等部1年であるから時代的にも合致する。私はその徒花のような「共和国」に、そしてその大使館に深い興味を覚えた。
そこで、再度記憶に戻ると、おかしい点がいくつかある事に気づいた。
その場所は少なくとも私が高等部3年の時には公園に変わっているのだ。
柔道部との合同練習をやった記憶があるし、芝生の看板を設置するのを手伝った記憶もあるからである。また、共和国成立時点ですぐに大使館がおかれるかどうかも疑問に感じたのだ。私の頭の中の風景は1970年から1972年春までということになる。
さらにその場所について地図で調べた事があり、確かにクメール大使館という文字を地図上で見た記憶があるのだ。
そこは住所で言えば文京区関口であり、その公園は関口台公園である。
まず文京区役所にあたってみる事にした。
文京区役所には行政情報センターという部署があり、そこで調べられると思ったのだ。カウンターに行き「1970年代の文京区の地図」が見たいと言ってみたが、そこには無かった。直近の住宅地図しかおいていなかった。しかし、そこの人が親切な人で、根拠を尋ねられたので、かつてあったクメール共和国大使館の話しをすると、現在公園になっているなら公園課に聞いてみようと内線電話で聞いてくれた。その結果は予想もしないものだった。
公園になる前は「マレーシア大使館」だったと言うのである。
その公園課の人はあくまでも自分の記憶であると断ったが、私には驚くべき事でありすんなり信用できるものではなかった。するとそのセンターの人が、公園課では権利関係が分からないから、権利関係の分かる部署を紹介しよう、と言ってくれた。
かなりの時間あちこちへインターホーンをしてくれた結果、その部署が文京区役所総務部契約管財課である事がわかった。私はセンターの人の紹介を受けた形でそこへ向かった。
管財課へ行くとすぐにカウンターの中へ通された。そこで待っていてくれたのは係長ともうひとりだった。テーブルにつくなり係長はこう言った。
「きょうかいの件ですか?」
私は「きょうかい」という言葉がすぐには理解できず、カトリック教会の事かと思いこう言った。
「いいえ、教会ではなく大使館についてなんですが・・・」
「ええ、それは伺っておりますが、きょうかいの件が問題なのですか?」
「その、きょうかいというのが分からないのですが?」
「土地と土地の境界の件です。」
「ああ……分かりましたが、それとは全く関係ありません。」
「では、目的はなんですか?」
なぜかガードが堅いのである。私はかつて自分が文京区関口にある学校に通っていて、その時の記憶を確認したいと包隠さず話した。すると係長は手元の資料を見せてくれた。それは青焼きの古い登記簿謄本だった。その謄本の内容は私を驚かすに十分だった。
その謄本は公園になるまでの所有権者が分かるものだった。
1967年に一部が高速道路公団に所有権移転されているが、公団へ地所を売ったのは、なんとマレーシア大使館なのである。そして69年に公園用地として文京区へその地所の総てが所有権移転している。さらに公園は71年に完成したと言う。
私はしばらく二の句がつげなかった。土地所有者がマレーシア大使館であった事と、71年つまり私が高等部2年の時にはもう公園となっていたのだ。すると私の記憶は70年から71年までのほんの少しの期間になるのである。
私は茫然としつつも、自信が揺らぐ事はなかった。その大使館の記憶は実に鮮明であるし、「クメール」という字句も鮮明だからである。さらにクメールという字句を見たときに「どこの国だろう?」という疑問を感じなかった事も記憶しているのだ。つまりクメールという国名に対しても知見があったことは間違いがないのだ。
今度は逆に係長が興味を示し、それについて分かる事があったら教えてほしいと名刺をもらった。
家に帰りビデオライブラリーにあった、かつてNHKが放送した海外ドキュメンタリーの「ベトナム戦争」の中の「ラオスとカンボジア」というビデオも見てみたが手掛かりは掴めなかった。
次に図書館へ行く事にした。本郷三丁目から坂を下った所に真砂図書館があり、そこへ行く途中に文京区ふるさと歴史館がありそこでも何か分かるかもしれないと思った。予想にたがわずふるさと資料館には古地図はあるものの、70年代の地図はなかった。受付の人が事務所にインターホンを入れてくれて、小石川図書館に「その時代」の地図がある事を教えてくれた。
すぐ近くにある真砂図書館で、実際に小石川図書館に「その時代」の地図がある事を確認し、本郷3丁目から地下鉄丸ノ内線で茗荷谷へ行った。
小石川図書館は高校生の時に女性とデートした以来だった。
受付の女性に来意を告げると、後に着いてきてくれと言われ、階段を走って昇る彼女の後に走って続いた。2階の資料室に通され、地図の入っている書架の鍵を開けてくれた。基本的には閲覧可なのだが、常時施鍵しているとの事だった。
もっとも「その時代」に近い地図は1969年のゼンリンの住宅地図であった。高鳴る胸を感じながらページを操っていくと、マレーシア大使館であった。毎年のものがある訳ではないが、その前後の地図を調べてみてもマラヤ大使館からマレーシア大使館というように国名表記が変化しているだけで、クメールの文字は全く出てこなかった。1973年の地図ではすでに「関口台公園」になっている。
ゼンリンの住宅地図は権利関係を中心にした地図なので、クメール大使館が一次的にマレーシア大使館に場所を借用している場合は、その地図では名前が出てこないと思った。そこで区分地図を見ようとしたが、区分地図は直近のものしか置いておらず、他の図書館にもないという事だった。
私は神保町の秦川堂へ行き、「その時代」の区分地図を探した。1968年のニッチの文京区の地図があったが、その場所にはマレーシア大使館としか書かれていなかった。
その後地図出版の大手である昭文社に電話をして、過去の東京区分地図の有無、あるいは閲覧できる資料室の有無を尋ねたが、どちらも無かった。
途方にくれた私は困ったときにいつも利用するデータベース、朝日新聞ニューメディアサービスに聞いてみる事にした。そこには四方田さんという女性がいて、いつも親切にデータを探してくれる。この時のキーワードは「日本あるいは東京にあったクメール大使館」である。
1時間も経たない内に彼女から返事があった。それは1975年5月5日の朝刊の記事で、見出しはこうだった。
「大使館数館を破壊 プノンペンの赤いクメール」
これは違う。私は再度「東京にあった…」という所を強調して探してもらったが1件もなかった。
しかし、その日の夕方彼女から電話があり、直接関係無いかもしれませんが…という前置きで1971年1月7日の記事を教えてくれた。それはこうである。
「クメール共和国が正式国名であると国連に通告。しかし朝日新聞は『カンボジア』と呼ぶ事を決める。」
これはそれほど無意味な記事ではないと判断した。つまりクメール共和国に対して日本の親米ではないマスコミは否定的に捉えているという事がわかったからだ。つまりクメール共和国大使館が広報活動しようとしても、記事にはならない事が多いだろうことを予想させた。新聞記事のデータベースからは「カンボジア」以外の国名が使われる事が少ないため、情報としてはほとんど無いということが分かった。
次に単刀直入すぎて好みではないのだが、現在は渋谷に移転しているマレーシア大使館に電話をしてみた。最初に電話に出た女性に事情を話すと、事務長に電話を回してくれた。
私は彼に「1970年代の一時期にクメール共和国の大使館が隣接していたか、あるいは同敷地内になかったか?」と尋ねた。彼はその時代には自分も居なかったのでと言い、古くからいる人に聞いてくれた。しかし収穫は無かった。
翌日、神保町にあるアジア関係書籍専門店である「アジア文庫」に行き、関連図書を調べた(立ち読み)。
ロン・ノルのクーデターがアメリカ主導ではなく、一般国民の不満の高まりが原動力となった、という事を知ったり別の意味での収穫はあったがクメール共和国の在東京大使館に関しては全く何もなかった。
その中で観光用の本があり、それに日本カンボジア友好協会というのがある事を知った。さっそく電話をしてみたが、そこでコペルニクス的展開があった。
その協会の人は全くそれに関しては知らなかったのだが、そういう事はカンボジア大使館の方がよく分かるのでは……と言ってくれたのだ。私は私の無知を恥じるはめになるのだが、カンボジア大使館は開設されていないと思っていたのだ。
なぜならカンボジア大使館のすぐ脇の「新坂」に面した所に知人が住んでいて、いつもそこへ行く度に廃墟となっているそれを見てきたからだ。そこで電話番号も教えてもらった。その後電話帳で調べてみると案の定掲載されていなかった。
カンボジア大使館に電話すると、交換の人と代わって山本さんという人が電話に出てくれた。彼の話しはこうだった……
1970年に大使館が閉鎖になった時に、業務の代行をマレーシア大使館(!) とインドネシア大使館に依頼したことがある。しかし、どのような形態を取ったか、あるいは看板を掲げたかどうかは分からない。また、それに関する資料等も 全く存在しない。
私は興奮しながら何度も礼を言った。
はじめてクメール共和国とマレーシア大使館との接点が出てきたのだ。
とにかく地図上でそれを確認する事を目的とした。幸い南麻布の都立中央図書館には東京室というものがあって、東京に関する資料が蓄積されている。早速そこへ向かった。
都立中央図書館の東京室も実は小石川図書館とたいした差がなく、1970年代の区分地図は人文出版が1972年に出した「東京区分地図」一冊しかなかった。それがやや小さいものだったせいか、私が行っていた学校も大使館も公園も載っていなかった。
その図書館に相談員がいて、ある時期の大使館の存在について調べる方法を相談すると、まず電話帳をあたったらどうか、と助言された。彼女は書庫から1971年72年73年74年の電話帳を持ってきてくれた。そこには驚くくべき記述があった。
1971年 カンボヂア王国大使館 401-0191 赤坂8-6
72年 カンボヂア王国大使館 401-0191 赤坂8-6
73年 カンボヂア王国大使館 401-0191 赤坂8-6
74年 クメール共和国大使館 401-0191 赤坂8-6
カンボジア大使館は1970年に閉鎖されたはずある。ところが73年まで掲載されていて、74年にはクメール共和国大使館と表記が変わっているのである。しかも住所は文京区関口ではなく現カンボジア大使館のある場所にである。 私は困惑した。
有栖川公園に添った坂道を下りナショナルスーパーマーケットの向かいを右に入ると小さな路地があり、そこに煮込みとモツ焼きの店「ますや」がある。私はそこへ入り、ツケ台にすわりビールを飲んだ。煮込みと軟骨の塩焼きを前にして、途方にくれている自分に気づいた。もうどうしていいかわからなくなったのだ。それは出口の無い迷路のように思えた。
とにかくゴールを設定しようと思った。いままでも何か調べものがあると取敢ずのゴールを国立国会図書館においてきた。実際には国会図書館にも無いものが神保町の古書店に並んでいるのは珍しい事ではないのだが、国会図書館になかったら諦めるもつく。そう思うことにした。
帰路はドイツ大使館の坂道をテニスコートの方に抜け、本村から三の橋に抜ける昔懐かしい道をたどった。そのせいか、気持ちが沈んでしまったのだ……何故過去にこだわるのだろう?何故過去の記憶に執着するのだろうと……あの時代は私にとってはなんだったのか、そして私は何を見ていたのか……
翌日、とにかく国会図書館へ行き本館4階の地図室へまっすぐ向かった。
1970年から75年までの東京都区分地図あるいは文京区の地図を捜してもらうと、1枚物が3葉、区分地図が5冊出てきた。1枚物の中にマレーシア大使館と表示のあるものが1葉、区分地図の中に同じくマレーシア大使館と表示のあるものが1冊あったのみであった。
これをひとつのゴールにしようと思った… 1997.10.24
あとがき
私がこの「クメール幻想」の文章を著し、またそれに関して調べた事にはたいへん不純な動機があった。 きっかけとなった麻布十番近くの居酒屋で呑んでいた時にそれが話題になったのだが、その時に一緒に呑んでいた女性に恋をしていたのだ。彼女もこのテーマに興味を示したために、この問題を調べようとしたのだ。その経緯や結果が彼女と話したり会ったりするたいへん強力な材料になると思ったからだ。
その後、彼女に対する私の恋慕の情がひどく募ったため、調査を始めた頃とは随分状況が違ってしまったのだ。麻布十番で呑んでいた時は、楽しい恋心だったのだが、調べ終わる頃には苦しい恋慕の情になっていたのだ。
調査し終わったすぐ後に彼女と会う事があった。
お掘りの見える二階の店で、街や水面が秋の夕暮れに染まっていく時間だった。私は調査の経緯を彼女に話した。彼女は楽しそうに聞いていた。話終わった頃、私は抜き差しならない状況に自分が陥っていることに気付き、ひどく切ない心情になっていたのだ。
私はクメール共和国の事を調べるに当たり、過去に遡及せねばならなかったが、それは私が望んだ事でもあったのだ。
私は自分が人を好きになった事に動揺し、それが過去に多くあった心情と全く違う事が理解できなかったのだ。だから少なくとも過去にあった自分の心情を再確認したいと思ったのだ。
クメール共和国の調査を終わりにした後に、自分の過去に遡及する作業に入った。
小学校3年の始業式からつけだした日記や、行動を詳しく綴った日記や、読んだ本の余白の書き込みや、人からもらった手紙などを調べていったのだ。
その中で明らかになってきた過去の心情が、現在の人を好きになった心情となぜに異質なのかについては朧げながら分かった事があった。要するに過去のその時季は発情期にあったのだ。
発情期の最大の目的は性的な接触であるため、相手の人間的問題よりその可能性のほうが重要視されていた。それでいて誰でもいいわけではなく、強いて言えば選別はかえって厳しかったと言えた。
どんな場合にもすぐに性的な接触ができるわけではない。
知り合い、二人きりで会い、手紙などのやりとり等意志の疎通をし、精神的な交感をし、手指などのスキンシップをし… という段階がある。
次の段階にどう進展するかが実に重要なのだが、その段階は機械操作のように進展したりはしない。時に逆行したり、時には警戒するほどの速さになったりする。
そんな中で、複数の相手とその段階のいくつかを経験することに必然的になる。可能性を追及するという行為がそうさせるのだ。
段階が進まぬ事を確認すると別の対象に転移いていくし、同じ段階に進展した複数の相手がいたらどちらかを選別した。それらはかなりな乱暴さを伴う事が多かったと思う。その段階のステップを踏んでいく行為や、その行為の中で出てくる相手の変更や、自分の心情の「変更」を、私は便宜上「リビドー的段階論」と諧謔的に名付けてみた。
しかし、自分へは思春期特有の誠実さで純粋な心情について自己弁護せねばならない。
日記やその他の文章や手紙を見ていくと、都合の悪い変心について全く触れなかったり、あるいは「不幸願望」と称して「好きだが離れる」と言った詭弁を弄したりしているのだ。
その時の相手である女性達の何人かも同じ状況下にあったと思う。
双方で「恋」のかけひきをしていたのだと思う。
それらは恋に目的がある事を示していた。思春期という名の発情期に、異性に対するある特定の感情を「恋」と表現するなら、それには性的な接触あるいはその段階を進めようとする明確な「目的」が存在するのだ。
それが今回の感情との決定的な違いだった。
やはり過去にこの感情はなかった。目的のない「恋」なのだ。だから自分でも制御の方法がないし、どうその感情に接していいかですらわからないのだ。つまり進展させたいと思う段階が存在しないし、自動的に進展する段階もない。段階そのもの、あるいはリビドー的なものが全く存在していないのだ。
私が彼女に性的な関心を全く抱いていなかったと言えるかを自問してみた。
意図的に性的な欲望を抑圧したのではないか、と思った。
彼女に性的な魅力が少なかったせいかもしれないが、私には性的な欲望が全くなかったと断言できる。
ならば身体的な接触を全く望まなかったか?それは否定できない。
「どうしたかった」のかを何度も分析しようとした。
それが困難だった。
本当に「目的」がなかった。
その時に目的のない行為がたいへん危険なものであることを初めて識ったのだ。
本当に辛かった…いつか改めてこの事については文章化したいと思っている。 1998.3.20
