大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”〜第十四回(3)ー②巡礼僧の役割 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

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②巡礼僧の役割

永延元年(987年)二月、宋で作らせた釈迦如来像と経典、珍しい品々を携えて、奝然は都に入ります。『小右記』には、一切経と釈迦像を北野の蓮台寺に運ぶ際に、人々が縁を結ぶべく道にあふれたことが記録されています本

宋の宮中に安置されていた釈迦瑞像を見る機会を得た奝然は、これを模して作ることを決意、985年に天台山にある開元寺でその造立を行います。これが清凉寺にある釈迦如来像です。実は宋の宮中で見た釈迦瑞像は、経典に”最上の白檀で作られた五尺になる釈迦”と記された貴重なものでした。のちに中国ではこの釈迦像は失われてしまい、清凉寺の釈迦如来像は当時の中国仏教を知ることのできる貴重な一体でもあるのです。

①で紹介した寂照はその後宋に留まります。彼の弟子の念救は、長和二年(1013年)に帰国した際に、道長に『白氏文集』と天台山図を贈り、延暦寺には天台山国清寺の貴重な品々を送っています。(念救はこの二年後に宋へ戻る)このことから、巡礼の僧たちは自分の仏教的な目的の達成と政治的な交渉だけでなく、貴族たちの唐物への欲求を果たすという複合的な意味で特別に出国を許可されていたと考えられます。

唐物の需要は単に珍しいものだからという理由にとどまらず、知識欲を満たすためメガネハレの日を彩るため雛人形権威を示すために必要なものでもありました。しかし、宋に正式な使節(官人)を向かわせれば朝貢と捉えられてしまう可能性が大です。中華思想を取り入れた日本の朝廷にとって、それだけはできなかったのです。だから巡礼目的の僧というのは、ワンクッション置くためにも貴重な存在であったのです。天皇、皇族、貴族たちは、こうやって限られたルートを駆使して唐物を手に入れていたのです。

ただし、こうした正式な国同士のやり取りを拒む消極的な姿勢は、この時期の東アジア情勢についての理解がぼやけてしまうことにもつながったのです。