大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”〜第十四回(3)-①巡礼の僧 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

 大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。



 

(3)巡礼僧と唐物

①巡礼の僧

対外的に強気に出るようになったとはいえ、人の流れは止められませんし、珍しい事物をもたらす海外への憧れも止められません。そこで頼りにされたのが巡礼僧と呼ばれる人々です。巡礼僧とはズバリ、中国仏教の聖地・五台山や天台山へ向かう僧のことです。文物同様、日本の仏教界でも中国への憧れラブは高まっていました。

巡礼僧の一例として、京都嵯峨野の清凉寺にある釈迦如来像を宋で彫らせて持ち帰った奝然(チョウネン)をご紹介します。

永観元年(983年)八月、東大寺の僧の奝然は宋の商船船に乗って入宋、天台山を経て首都に向かい、そこで太宗に朝見を許されます。奝然は翌年に五台山の巡礼を果たし、再び太宗に謁見、そこで法済大師号と大蔵経五千四十八巻を贈られます。

奝然は最初の謁見の時に太宗に対して、銅器十種、「職員令」「王年代紀」、中国では散逸された『孝経』と『孝経新義』を献じ、皇帝からの質問に答える形で日本の風土、王統譜、地理や人口まで述べています。奝然は入宋に際して「允許宣旨」、つまり朝廷直々の許可を賜っています。更に、太宗の質疑の様子からはこれが単なる巡礼ではなく、もっと公的な役割を政府から負わされていたとも考えられます。

少し時代が下って長保五年(1003年)に五台山巡礼を目指して入宋した寂照も、翌年

北宋の真宗に拝謁→仏像や経典などを進呈→日本についての質問に答える

というやり取りをしています。その際、寂照は円通大師号と紫衣を贈られ、五台山巡礼の道中の食料の便宜も許されます。

中国皇帝との謁見は、その内容から朝貢にも似ています。このことから、巡礼僧に出国を許すのには政治的役割も期待されていたのではと考えられるのです。実際『宋史』日本国伝のほとんどが奝然の入貢記事で、宋王朝が正式な使節ではないものの、彼の入国を朝貢の意味で捉えていたのではと推測されます。


右矢印(3)ー②に続きますキョロキョロ