大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”〜第十四回(2)ー②来着者への対応 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。




②来着者への対応

八世紀~九世紀にかけて新羅は騒乱の中にあって、このため新羅から多くの人々が日本に漂着し、「帰化」を求めます。帰化を認めることは中華思想の理に適っているので、政府はこれらを許可します。しかし次第に多数の船が海上に現れて船夜には火が見える炎など、九州の海は不穏なものになっていきました。新羅内部が混乱しているなら影響が及ぶ可能性もあります。『光る君へ』第21回で道長が懸念していた「戦人」の可能性もあるわけです。このため承和年間の後半(840年~847年)になると「帰化」の申請についても厳しく対応するようになります。もちろん来着する人々の中には商人もいて、大宰府の官人の中には利権を得ようとする者も出てきます。そんな中で承和九年(842年)八月、帰化を求める者についても単なる漂着者と同じように、食料を与えた上で追放せよと命じます(「類聚三代格』)

しかし商人の往来を止めることは(地理的に考えても)不可能です。この点から「帰化」や「朝貢」というのは便利でもあった訳です。

さて、これを処理するのは窓口である大宰府の官人たちでした。彼らの中には

「やって来た人々が、実は商売を目的で帰化の意思もないなら、その場合は国内の統制が難しくなるから断固排除!!

という人もいれば、舶来品、いわゆる唐物を歓迎する理由から柔軟な対応をしたい人もいて、来着者の対応と管理の必要が増していきました。

延喜十一年(911年)に「中国商人の来航は、最低二年以上の間隔を空ける」という年紀制が採用され、これを基に審査が行われていくようになります。一方、大宰府や現地の商人ばかりが得をしないよう、蔵人所から唐物使という鑑定に優れた人を派遣、一時的に差し押さえて、朝廷に必要なものを確保して都に送るようになります。唐物使から送られてくると、天皇が実際に品物を見る儀式が行われます。つまり「これは朝貢品だ!」という形を取ります。そして儀式が終わると皇族や臣下に分配され、これが当時の貴族たちの唐物への憧れを満たす基本形式となりました。

右矢印(2)ー③に続きますイヒ