大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”〜第十四回(2)ー① 遣唐使廃止と対外姿勢の変化 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

※2024年6月10日21:45にタイトルとテーマ分類を変更しました

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。





(2)外交の基本姿勢

※ここからは『日本の歴史第05巻 律令国家の転換と「日本」(坂上康俊、講談社、20001年)も参考にしながら説明を加えていきます)

 

①遣唐使廃止と対外姿勢の変化

では、遣唐使廃止のころの動きをざっと見てみましょう。

第59代天皇・宇多天皇の御代、寛平六年(894年)八月、菅原道真は遣唐大使に任じられます。これは九世紀の平城・仁明天皇の際に実施された代替わりのための派遣という意味合いを持っていました。またこのころ「新羅海賊」の九州来襲にもたびたび悩まされていたこともあって、対外的権威を高めようとしていた面も持っていました。

しかし道真は遣唐使の派遣の是非を問う文書を提出メールその翌月に派遣は停止されます。奏上された文書には、当時中国に滞在していた僧からの報告が添えられており、そこには唐の衰退のほか、今遣唐使がやって来ても十分な接待が受けられない状況ガーンが記されていました。

寛平八年(896年)三月、宇多天皇は唐の商人を入京させて対面しますが、翌年にはこれを誤りとし、「天皇は外国人と面談するなら御簾越しで」真顔との訓戒を醍醐天皇に残します(「寛平御遺誡」、譲位にあたっての遺誡)ここにも道真のアドバイスがあったのではと思われます。

寛平九年(897年)七月の宇多天皇の退位、それから間もなくの延喜元年(901年)正月には昌泰の変(道真の左遷)と、政治的な変化が立て続けに起きたことも影響したのか、天皇は外国人とは(御簾越しであろうがなかろうが)対面することがなくなります。清浄を天皇に過剰に求める空気も相まって、天皇が外国人と接することを忌み嫌う姿勢が都を中心に強化されていったと考えられます。こうした姿勢は一見すると「鎖国的」とも取られがちですが、王は超越的な地位でなければならないという考え(超然主義)が強く影響していると考える方が自然です。何より大陸も半島も混乱した中で、自国の王権を強固なものにしておかなければなりません。つまり、外国に認められるのではなく、対外的にも自らが主導権を持つ必要に迫られていたのです。


右矢印(2)ー②に続きますニコ