大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。
読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。
④脩子内親王の誕生と長徳の変の結末
定子は十二月十六日に一条天皇の第一子である女子を産み後に脩子内親王と名付けられます。これについて『日本紀略』には「出家の後云々」「懐孕十二カ月」と注記があります。前者は定子が出家の後に出産したことへの非難、後者は伊周・隆家のごたごたが収まらない二月に懐妊したのではないかという憶測とされ、貴族層は概ねこの出産には冷ややかな空気
だったことが窺えます。
明けて長徳三年正月二日、一条天皇は土御門第の詮子の元を訪れますが、詮子の病状は回復の兆しがありません三月二十五日、詮子の病の平癒を願って大赦の詔が発せられます。このとき「ことごとく赦す」という文言があり、伊周と隆家の処遇が問題となります。四月五日、伊周と隆家にも大赦を適用すべきかどうか、適用した場合には都に召喚するかどうかを問う陣定が開かれます。議会は紛糾しますが、一条天皇は両者を赦して都に召喚することを決めます。この決定に、さっそく隆家は二十一日に入京
伊周はさすがに時間を置いて十二月に入京します。
しかし大赦が行われたにも関わらず、詮子の病は良くなりません。六月になり、一条天皇は詮子の平癒を願って祈祷を命じたり、土御門第への行幸(見舞い)を行います。その一方で、一条天皇は初めての自分の子どもである脩子内親王と定子への面会を強く希望していました。伊周・隆家の処遇も決まったこともあり、詮子を見舞って戻った六月二十二日の夜、脩子と定子の二人を職御曹司に迎えます。一条天皇の喜びはいかばかりかと思うものの、定子が出家した身で後宮に入ったことを受け入れられない者は多かったようです。実資は「天下、甘心(感心)せず」と書きつけ、続けて中宮周辺から「実は出家していなかったのだ」という弁明があったことを記し、「はなはだ稀有の事」
と断じるのでした。