大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”~第十回(3)ー④道隆の最期 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。



 

④道隆の最期

伊周への随身支給についての一条天皇の決定を、その日のうちに俊賢は道隆、次に詮子に伝えています。随身問題は女院である詮子の耳にも届いていたのです。ついに「左右近衛番長各一人、近衛各三人を宜しく内大臣の随身と為すべし」との宣旨が下ります。摂政関白に与えられる随身は「府生・番長各二人、近衛六人」の十人ですから数が減っています。それでも随身を賜ったことが嬉しかったのか、伊周は詮子の元に行ってお礼を述べています。それを知った実資は「顎が外れるほど笑った」ゲラゲラと日記に記しています。俊賢が詮子の元を訪れた意味について深く考えていなかったようで、やはり伊周は人間関係がよく理解できていなかったのでしょう。

一連の一条天皇による伊周の関白任命拒否については、

・あまりにも強引な伊周と中関白家の態度に心証が悪くなった説

・詮子らが兄弟順での関白就任を望んでいたのを汲んだ説

があります。源俊賢・藤原斉信の動きを見ると、一条天皇は道隆だけでなく詮子ともコンタクトを取り、両者それぞれの意向を取り入れて自分で判断しているようです。内覧の件でも随身の件でも、道隆側はどうにかして伊周を一気に関白としようとするのを、一条天皇は断固として「道隆が病気で政務が滞る間に仮の人間が必要なだけ」という考ええではねつけます。『小右記』ではよく一条天皇の考えを「主上の御気色」と表すことがありますが、御気色の強さによって主体的に判断していると言ってもいいと思います。

時代が下って後三条天皇の時代には天皇の意向が強く出て有無を言わせないものがあり、それと比べれば一条天皇の政権運営はぬるく感じてしまいがちです。しかし、摂政関白や公卿層の意見が強い状況で冷静に物事を判断してバランスを取る姿は、その若さでどうやって身につけたのかと思うほどです。

長徳元年四月六日の早朝、実資の元に「道隆薨去」の報がもたらされます。実資の調べでは午前三時~五時に出家したようで、この日の夕方に定子と原子が内裏を退出することになったことが『小右記』に記されています。四月十日、ついに道隆は43歳で亡くなります。そして伊周の「関白病間」での内覧の条件は消えてしまったのですショック