大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。
読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。
②中関白家の不人気
年が明け、一条天皇はいつものように正月の挨拶のため詮子の在所である土御門第へ行幸を行おうとします(朝覲行幸)が、道隆は「夢見が悪い」ということで中止を提案します。病気が重くなっていたことも影響したのでしょう。しかし筆頭である道隆の夢見が悪くて中止という案に一条天皇は困ってしまいます。このことを詮子に伝えると、道隆が不参加なだけで行幸自体を止めることは許さないという返答で、結局道隆抜きで行幸は行われました。この時、大納言の朝光、済時、権大納言の道長も不参加だったと『小右記』には記されています。こちらは伊周が大臣になって追い越されたことへの不満を表したものとの見方が強いです。
またその日は中宮定子が大饗(宴会)を披いたのですが、左大臣の源重信と右大臣の道兼は行幸の後にさっさと帰ってしまい本来中宮大夫として仕切らなければならない道長も不参加というありさまでした。そして病が重くなった道隆は、その後行われた叙位の儀式や除目の場にも出られないほどになってしまいます。
さらにさらに大臣になったばかりの伊周は大臣大饗を行おうと準備していたのですが、九日に会場となる二条第の南家が焼けてしまいます何とか二十八日に東三条殿で行いますが、主賓は異母兄の道頼(権大納言)で、左右大臣などは参加しなかったのではと『小右記』から推測されます。
そんな中でも道隆は二女の原子を東宮居貞親王の元へ嫁がせ、権力の強化を図ります。またこのころの一条天皇と定子の仲睦まじい姿が『枕草子』に描かれているのですが、裏を返せば二人とも道隆らの「御子誕生」の期待、プレッシャーにさらされていたことを示すものでもあります。公卿たちがどのように道隆・一条天皇・定子を見ていたのかと思うと、暗い気持ちになってしまいます。
(3)ー①に続きます