大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”~第十回(1)-②疫病の蔓延 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。


 

②疫病の蔓延

正暦五年(994年)正月から疱瘡(天然痘)の流行が始まります。『日本紀略』正暦五年条ではこの時のことを

「正月より十二月に至るまで天下の疫癘(疫病のこと)最も盛んなり」と記し、それは鎮西(九州地方の別称)から始まり、瞬く間に七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)、つまり全国に広がったとまとめています。

四月二十四日の宣旨で京中の路頭の病人を収容させるよう命が下りますが、収容人数が病人の数に追いつきません。『光る君へ』第十六回でも描かれていますが、京中を歩く際には人々は「鼻をおおって」死者を通り過ぎ、カラスや犬に至っては食べるのにも飽きるほどで、「骸骨、巷を塞ぐ」ドクロというありさまだったといわれます。五月には検非違使に対して、京中の堀水の中の死人をかき流すよう命じることになったのでしたショボーン

そんな中、ある男の「油小路西にあった小井戸(涸れた井戸)の水を飲むと病を免れる」という噂が広まり、多くの人々が水を汲みに集まります。『光る君へ』第十六回で安倍晴明が「疫神が来る!」と言っていましたが、これは「六月十六日に疫神が横行する」という話が広まり、その日は公卿から庶民に至るまで門戸を閉じて出歩かない状況に陥ったことを踏まえてのことでしょう。

 

何だか、コロナ禍みたいですね(;゚Д゚)

 

同じ五月、一条天皇が伊周から夜が更けるまで漢詩の進講(講義)を受ける様子が『枕草子』に描かれています(「大納言殿参り給いて」)が、一条天皇と定子、伊周、清少納言ら女房たちの楽し気な雰囲気からは「外」の寒々しい状況は窺えず、それがいっそう冷えた感覚を呼び起こすようです。

 

右矢印(1)ー③に続きますショボーン