大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。
読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。
②「清少納言」という呼び名
さて、清原元輔の経歴を見て「ん?」となりましたよね
そうです、元輔は少納言になっていないのです。
当時の宮仕えする女房達の通り名は夫や家族の経歴から採られるものがほとんどで、元輔の娘がなぜ「清少納言」と呼ばれたのかについては確実な史料がないのです。確かなのは、
・清原元輔が高齢の時に生まれ(康保三年くらい)赴任先にも同行
・藤原斉信家司・橘則光と結婚して子どもが生まれたが離婚する(別れても仲は良かった)
・中宮になった定子に仕え、その時再び結婚した
くらいです。
それではこれまでの有力な説をご紹介したいと思います。
a. 藤原信義の妻説
“少納言”と呼ばれるからには必ず縁者にいるはずなので、則光と離縁したあと、父親の元輔が親しくしていた藤原元輔の子の信義(少納言)と一時結婚していたとする説
(角田文衛『王朝の明暗』「清少納言の女房名」、『平安の春』「紫女と清女」)
※信義との間に婚姻関係があったかは確実な史料がなく不明
b. 少納言・清原有雄説
藤原定家の娘は、先祖の長家にちなんで後鳥羽院から「民部卿」という女房名を賜った。このことから元輔娘も「少納言」だった有雄にちなみ名乗ったとする説
(榊原邦彦『名古屋大学国語国文学』第32巻「清少納言の名」)
※『続群書類従』内の豊後清原氏系図のみが”少納言”と記載
c. 橘則光の母親の呼び名説
①で触れたように 橘則光の母は花山天皇の乳母で、右近(右近尼)という。同じ花山天皇乳母に少納言という女性がいて、これが彼女の別名であり、元輔娘は義理の母にちなんで呼ばれたとする説
(枕草子研究会編集『枕草子大事典』)
※則光の母親が少納言と呼ばれていた人物と同じかどうかの確証がない
d. 定子サロンでの呼び名説
後世の書物に、定子のサロンに集った侍従・少弁・少納言のことを「下臈ながら中臈かけたる名」と評した一文があったことから、清原氏があまり高い位ではないことを承知で、定子やその周辺が例外的に呼んでいたとする説
(岸山慎二『清少納言伝記攷』)
※ほかの史料にはそれを補強するだけのものがまだない
『光る君へ』第十五回でのやり取りを考えると、dの説に寄った可能性が高いですね
そういえば初登場時に「せいしょう・なごん」ではなく「せい・しょうなごん」呼びでsnsを沸かせましたが、「清少納言」のことをを「清少」(せいしょう)と略す例が江戸時代に見られますから、そちらに引っ張られて伝えられた可能性があります。まあ書物を見れば分かると言えば分かりますけど、口伝えするうちに変化するのはよくあることです。
兎にも角にも、清少納言は中宮・定子のもとに出仕すると、その才気で定子や中関白家の人々と渡り合い、のちにその華やかな舞台を中心としたあれこれを、『枕草子』として著すことになるのです。