大河ドラマ『光る君へ』“勝手に解説”~第九回(3)ー①清原元輔 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。



(3)清少納言の登場

のちに『枕草子』を著す清少納言が定子の女房として出仕したのが正暦四年の冬ごろと推測されています。

『光る君へ』では第五回で初登場。ファーストサマーウイカさん演じる清少納言の押しの強さに思わず笑ってしまいましたゲラゲラ

彼女についてはいろいろと不明な点も多いのですが、それもあわせてご紹介したいと思いますニコニコ

①清原元輔

清少納言は、この時代の高名な文人官僚である清原元輔の娘です。元輔は小倉百人一首の42番「ちぎりきな かたみに袖を・・・」という和歌で有名です。彼は908年(延喜八年)の生まれ。祖父(父とするものもある)の深養父は小倉百人一首36番の「夏の夜は まだ宵ながら・・・」で知られる歌人でもありました。この清原氏は舎人親王をルーツに持ち、政治家だけでなく学者や歌人を輩出しています。

951年(天暦五年)、村上天皇は勅撰和歌集の選定を命じ、作業を宮中の昭陽舎で行わせることになります。この選定する寄人(召人)五人の一人に元輔は選ばれます。(他に選ばれたのは大中臣能宣、源順、坂上望城、紀時文)昭陽舎には梨の木が植えられていたやしの木ので「梨壺」と呼ばれ、ここに集まった五人を「梨壺の五人」と言います。彼らは『後撰和歌集』の編纂のほか、『万葉集』の解読(訓点作業)などを行いました本後述するように元輔は昇進スピードが遅かったのですが、若い頃から歌人として名を知られていたので、儀礼用の歌を高位の貴族のために製作していたとされています。『光る君へ』では道隆から為時と共に招待されていますが、どちらかと言えば元輔は小野宮家の実頼・頼忠・実資らに多く提供しています。言わば「職業歌人」なんですね。

政治家としての元輔は昇進スピードが遅く、969年(安和二年)にようやく従五位下河内権守、974年に周防守(周防国は上国)となり、980年には従五位上となります。986年(寛和二年)元輔は79歳で肥後守に任じられ、地方赴任することになります。高齢での地方赴任については、彼の子息たちの昇進がはかばかしくなかったからとも言われています。また、清少納言の夫である橘則光の母(花山天皇乳母)の推薦が大きかったともいわれています。990年(永祚二年)83歳で赴任地で死去。

 

右矢印(3)ー②に続きますお茶