大河ドラマ『光る君へ』”勝手に解説”~第七回(1)ー③一条朝初期の政策 | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。




③一条朝初期の政策

こうして波乱の中でのスタートとなった兼家が主導する新政権の最初の政策は「服御・常膳等を減じる」(七月二十五日の詔)という、いわゆる日常生活における倹約Tシャツでした。ただし(1)ー②で触れたように、兼家の一族のあからさまな昇進に不満イラッを持つ公卿は多く、花山天皇在位中から続く不参は多いままでした。

その後も兼家の子息の昇進は続き、

八月 十五日 道長 少納言(蔵人と兼任)

十月 十五日 道綱 右近衛中将

       道兼 従三位、権中納言 

       道長 左近衛少将

十一月十八日 道長 従四位

  二十二日 道兼 正三位

にまで昇った。この間、兼家は准三宮の詔(八月二十五日)や、一座宣旨を受けて地盤を強固なものにしようとしていることは押さえておきたい手

※第六回(2)ー①、(3)参照※


一条朝初期(兼家主導による)の政策は、調庸の未進や荘園整理に関することが多い。また、兼家は寛仁年間に二度目の停止となった梅宮祭を復活させ、翌永延元年(987年)には北野祭(はじめて北野社に天満宮天神の勅号を定める)吉田祭祭を行うことを決めるなど、神祇祭祀を整えていることも特徴的とされています。

”国母”詮子の方は表立って政治には関与せず、新天皇である懐仁の世話に終始しています。即位後の大嘗会や各行幸の際には一条天皇と同じ輿に載ったという記述があり、母として幼い天皇の側について行動していたことが窺えます。

永延元年(987年)二月十九日、8歳になった一条天皇はそれまでの住まいだった凝華舎から清涼殿へと移りました。はじめて詮子と離れ、天皇としての「場」に立つことになったのですが、環境の変化なのかプレッシャーからなのか、二十八日には体調を崩して絶望兼家が急いで参内したことを『小右記』は伝えています。元々病弱だったのもありますが、この後も一条天皇の「御悩」(体の不調)は各史料に表れ、詮子を伴った神社行幸も頻繁に行われます。こうした一条天皇の様子からか、兼家は娘の綏子(母:藤原国章の娘)を居貞親王の尚侍とするという手を打っています。また、一条天皇の即位前後から疫病や旱(ひでり)晴れなどの災厄も続いており、世の中の不安は拭いきれないものがありました。


右矢印(2)ー①に続きます口笛