大河ドラマ『光る君へ』”勝手に解説“~第七回(1)ー②官位の引き上げ | 愛しさのつれづれで。〜アリスターchのブログ

大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。

読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。



②官位の引き上げ

兼家の政権の一番の特徴は?と問われて真っ先に出てくるのが、『光る君へ』第十一回でも触れられているようにあからさまな子息や兄弟ら家族の昇進。なので、ここで寛和の変後の子息たちの昇進の様子を、神武朝~明治元年まで年ごとに公卿の氏名と官職歴を記した職員録『公卿補任』をもとに見ていきましょうウインク

まず寛和の変前の官位と役職は・・・

道隆(953年生まれ)従三位(非参議) 

          右近衛中将

          懐仁親王の春宮権大夫

道綱(955年生まれ)正五位下

          左近衛少将

道兼(961年生まれ)正五位下 

          左少弁

          蔵人

道長(966年生まれ)従五位下 

          右兵衛権佐

 

六月二十三日 花山天皇出家、退位

       皇太子(春宮)懐仁親王践祚

       兼家を新天皇の摂政とする

       (円融天皇の詔による)

       道兼 蔵人頭

       道綱 蔵人(五位蔵人)

 

七月  五日 詮子を皇太后

                  (天皇の母であることから

※頼忠娘の遵子を円融天皇の皇后、昌子内親王(冷泉天皇皇后、子女はなし)を太皇太后

       道隆 権中納言

          兼皇太后宮大夫

       道兼 従四位下

    九日 道隆 正三位

      (詮子の内裏参入の賞

 

   十六日 居貞親王立太子

       道隆 右近衛中将を辞任

       道兼 権右近衛中将

 

   二十日 兼家 右大臣を辞職

       道隆 権大納言

       道兼 参議

      (参議昇進により蔵人を辞職)

  二十二日 即位の儀

       道隆 従二位

      (新天皇の春宮時代の功労

       道綱 従四位下

  二十三日 道長 従五位上、蔵人 

※道隆妻の高階貴子の父・成忠が従三位

  二十七日 道隆 正二位

       道長 正五位下

 

上差しのように、兼家の子息たちはわずか一カ月のうちに目覚ましい飛躍を遂げたのです。特に道隆は、『光る君へ』で詮子に罵倒された非参議の立場から(特別に指名される)参議を経ずに権中納言→権大納言、従三位→正二位へと駆け上がっていますランニングただし!この時点で道隆は32歳、道兼は26歳で、年齢的に考えるとそれほど若い人間が昇進したとは言えないのです。その昇進スピードがあまりに急で目立ってしまっているだけで、これは円融・花山両天皇の関白となった頼忠や実資ら小野宮家の人々の昇進に抑え込まれた部分が大きいのです。

では、頼忠の長男(嫡子)の公任(966年生まれ)を場合はどうかと言うと…

15歳の時に清涼殿で円融天皇自らが加冠して元服、一気に正五位まで進むと、従四位下(982年)→左近衛権中将(983年)→二十歳で正四位下(985年)という特別待遇です。もしも花山天皇が退位しなければ参議以上にまで昇る勢いだったことを考えると、複雑なものがありますねショボーン

 

右矢印(1)ー③に続きます爆笑