大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。
読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。
(2)円融法皇との攻防
①摂政の権限の大きさ
この頃の兼家がどのような権力を持っていたかを窺わせる記述が『小右記』にあるので見ていきましょう
永延二年(988年)二月二十七日の除目で藤原誠信が蔵人頭と右近衛中将の功労によって、大臣らと共に朝議に参加する「参議」に任じられました。この時小野宮家の実資は、「自分よりも勤務年数が短い誠信が自分より先に参議になるのは道理に合わない」と二月二十八日の日記に記しています。(実資は通算8年、誠信は4年)このころ参議に限らず官職の勤務年数というのは、昇進させるかどうかのポイントの一つでした。藤原誠信は兼家の異母弟・為光の長男で斉信の兄。ただし、その昇叙(より上級の官位や位階を授けられること)のほとんどが父親から譲られたものであることが『公卿補任』に見えています。この時の参議昇進も右大臣となっていた為光が兼家に泣きついてのことと言われています。それを補強するのが実資の日記です。為光が「誠信の任官が叶うなら右大臣の職を辞してもいい」
と兼家に泣きついたこと(永延二年正月二十九日)や、自分の悪口を兼家に吹き込んだ
(永延二年二月二十八日)ことを記して、朝議や慣例が軽んじられている
と激怒&嘆いているのです。人事に関して、摂政である兼家が強い権限を持っていたことが分かります。
しかし公卿等の不参は続きます。兼家は公卿や官僚に対して、見合った勤めをしていないので月に十日は勤務せよと命じる(永延二年三月二十一日)など綱紀粛正に努めています。
三月二十五日に兼家の六十の算賀(祝宴)が開かれ、一条天皇も出御(出席)し御杯を兼家に贈ります。まさに絶頂とも言えるのですが、実は少しずつ兼家にも陰りが見えてくるのがこの時期でもあるのです。
(2)ー②に続きます