世界幸福度ランキングと言うのがあります。デンマークと言う国は、フィンランドやスウェーデンなんかと毎年、1,2位を争っています。国民が「わが国で生きているのが一番幸せ」と言う人が最も多いと言うことです。そんなデンマークからやって来た「ガール・ウィズ・ニードル」と言う作品。時は第一次世界大戦後のコペンハーゲンの貧民街、そこで懸命に生きる一人の女性。彼女は戦争へ行って戻ってこない夫を工場でお針子(裁縫仕事)ををやりながら一日千秋の思いで待っています。そんな彼女が運命と間の悪さに揺れ動きながら必死で生きて行こうとします。そんな彼女が一人の中年女性と出会います。その出会いがより彼女を奈落の外に落としていくことになります。「幸せの国デンマーク」そんな国もこんな不遇の時代があったんだと言うことをこの作品から紐解くことができます。しかし暗い、ホンマに暗い映画です。
第一次世界大戦後のコペンハーゲン。工場でお針子として働きながら戦争に行った夫を待つカロリーネは、その日とうとう家賃が払えず家主からアパートを追い出される。途方に暮れ、夫を待つことに疲れ果てたカロリーネは遂に工場の社長と恋仲になってしまい、彼の子を宿す。強引に結婚を迫り、社長夫人の座を掴みかけたかに見えたが、そんな時、夫が帰ってくる。だが夫のペーターは顔に仮面をつけるほどの無残な傷を負っていた。幸せを摑みかけているカロリーネは夫を追い出してしまう。だが社長は御曹司。母の意向には逆らえず、猛反対に会い、別れさせられたばかりか仕事まで失う羽目になる。身重になったまま絶望の淵に立たされたカロリーネは公衆浴場で自らの子を堕ろそうとして失敗し血まみれになったところをイレーネと言う少女を連れたダウマと言う中年女性に助けられる。ダウマは「子供をが出来て困ったならここへ来て」と「ダウマ菓子店」と言う袋を渡す。
後日、身重のまま重労働をし、職場で子供を産み落としたカロリーネは「ダウマ菓子店」を訪ねる。ダウマは菓子店を営む傍ら闇で養子縁組の斡旋所をやっていた。カロリーネは赤ん坊を託したが、やはり罪悪感にとらわれ後日、赤ん坊を返してほしいと頼みに行ったが赤ん坊は里親に引き取られた後だった。里親を教えてほしいと言ったが里親の名は明かさないでくれと言われていると言う。家も何もかも失ったカロリーネはダウマの元で働かせてほしいと懇願した。そして乳母として住み込みで働くことになった。ダウマの元には次から次へと養子縁組を希望する訳ありの女性たちがやってくる。だがカロリーネには決して里親は明かさない。ある日、カロリーネは赤ん坊を連れて里親の元へ行くダウマの後をつけた。そしてそこで驚愕の真実を目の当たりにすることになる。
もう、結末はわかってしまうけど本作に登場するダウマ・オウアビューは実在した人物。第一次世界大戦が終わったのは1918年。このダウマ・オウマビューが養子斡旋と称し紹介料をとり、生まれた子供を育てることの出来なかった戦争未亡人や若い夫婦、なさぬ仲から生まれてしまった子供を引き取り「始末」してしまった事件はまさに1920年代末期から始まる「世界大恐慌」の前夜。世界はここからまさに暗黒の時代に突入していきます。世界中でこういうことは起こっていたそう。今でこそキャリアウーマンやシングルマザーだのと言う言葉が闊歩していますがこの時代の女性は働こうにもろくな仕事はありません。この物語のヒロインのように「お針子」なんてろくな給金はもらえません。ちょっと容姿のいい女性は経営者なんかの一部の富裕層から手を付けられ子供ができると捨てられ...なんてことはざらにあったんでしょうね。大竹しのぶの主演した「あゝ野麦峠」もそんなことがいやと言うほど描かれています。実際、日本でも堕胎は違法とそれた時代、1900年代初頭に「貰い子殺人」が多発していたようです。気がめいりますね。
本作ではカロリーネから家を追い出された夫が自分の醜い顔をさらけ出してサーカスの見世物小屋で働くシーンがあります。それをみかけたカロリーヌが舞台に上がってその顔を触って...こういう悍ましいシーンは「エレファントマン」を彷彿とさせます。かたや軍服などを作って戦争特需で儲けた企業一家が戦争も行かずぬくぬくと暮らしている。戦争へ行って悲惨な目に会った者たちとの間にある不条理や矛盾に観ているものはやるせなさを感じます。デンマークは第一次世界大戦には参加していませんが先の「デンマーク戦争」でドイツに敗れ多くの人民がドイツ政府に兵役に駆り出されたそうです。カロリーネの夫もそんな一人なんやろね。
第二次世界大戦が終わるまでは世界の至る所でこんな不遇の時を過ごしていた庶民が多かったんでしよう。このダウマ・オウマビューの事件はそんな時代の歪に生まれた事件だと思います。戦後80年が経ち世界は平和で人権が尊重される世の中にはなりましたが、それでも北欧や中東の一部、中国では人権を蹂躙される人々はいます。一部の狂った権力者や我が物顔の富裕層が存在する限り、今もどこかで絶望感に打ちひしがれる人々はいる。これは人類の永遠の課題です。