10.9から30年 その2 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

そんな頃、Uインターの山崎一夫が突如離脱し、新日本に参戦する。これは本当に青天の霹靂であり、当時は本人から詳しい理由も明かされなかったため、ファンにとっては正直意味の分からないものであった。まだ外敵な存在とは言え、それでももちろん元々は新日本にルーツを持ち、実質的には出戻りでもある訳だから、新鮮味もそれほどある訳でもないし、当時はひたすら謎でしか無かったのだ。

 

そして武藤敬司のスランプ欠場ギミックから、IWGP獲得さらにG1まで制覇と、露骨なまでの武藤推しで95年の新日本は進んでいくのであるが、そのG1の中継に突然流れたテロップがファンを仰天させる事になる。まだネットがなく、専門誌かテレビしかなかった時代、殆どのファンがそのテロップで知る事となったのが、そう、この新日本VSUインターの対抗戦だったのである。

 

プロレス界の歴史において、対抗戦というのは諸刃の剣であった。エース同士が戦えば、負けた方はその個人ではなく、その団体そのものが弱いとみなされ、完全に格下扱いされてしまう。もちろん、決着をつけようとも、ギリギリまで敗者に対して考慮をするのもそれまたプロレスだったのであるが、そんな経緯もあり男子では同じ格同士の団体の対抗戦というのはまずタブーであったのだ。

 

そんな現実もあり、ファンの中では誰が強い、例えば鶴田と前田ならどっちが強い、とか色々幻想が生まれていったのであるが、それも実際の対戦は絶対にない、という諦めと現実があったからこそだと思う。もちろん、地上波のある団体はそのしがらみもあったとは言え、それでも実際にやってしまったらもうその次はない、つまりはプロレスの衰退に繋がってしまう、だからやる訳にはいかなかった事を、馬場も猪木も十分承知だったのだろう。

 

それでも、1992年〜93年頃には新日とWARの対抗戦なども行われたが、この場合は天龍源一郎と言う、負けた所でブランド力が絶対に落ちない存在が居たのが大きかった。もちろん、新日側としても、同格の長州や藤波にしか負けさせなかったし、橋本真也などは何度挑戦してもなかなか勝たそうとはさせなかったから、最大限の配慮もしていた。挙句、94年の1.4にはアントニオ猪木にまで勝たせたのだ。

 

当時の猪木はまだ国会議員で、年齢もちょうど50だったから、まだまだ現役バリバリの天龍に負けさすのはさすがに無理があるし、また天龍が勝てば唯一馬場と猪木からフォール勝ちした男という、プロレス界にとって最大限の名誉を授ける事も出来る。結局、数年後にWARは興行停止にはなるのだけれども、新日本が対抗戦で相手を輝かした数少ない例が天龍源一郎だったかと思う。

 

まあそれは例外としても、基本的にそういう訳で対抗戦というのは最大のタブーのひとつであった。それがファンも分かっていたからこそ、まさかのUインターとの対抗戦にファンも大変な衝撃を受けたのだった。これは今の時代ではなかなか伝えるのも難しいだろう。それほどまでの大事件だったのだ。

 

この経緯は翌週の週刊誌でリポートされたのだが、記事を読んだだけでも緊迫感が伝わってくるものだった。長州力の「(ドームを)よし、押さえろ!」もけだし名言であり、大抵のファンはこれでドームが決まったと信じたものだ。実際、普通に考えたらそんな事でドームが押さえられる訳ないし、よくよく最初から交渉で決定されたもの、という事が判明するのであるが、当時は本当にこれだけでも大興奮したものだった。