10.9から30年 その1 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

先日、あの10.9の新日本VSUWFインターから30年を迎えた。

 

当時から30年前と言えば、ジャイアント馬場とフリッツフォンエリックが歴史的な名勝負を繰り広げた年である。そこから2年を遡ると、なんとまだ力道山が存命でもあった。つまり、今10.9を語ると言う事は、当時の人たちが馬場エリック戦や力道山を語るのと同じ時系列レベルと言う事になってしまう。そもそも、1995年の時点では日本にプロレスが定着してからまだ41年しか経っていない、つまり当時の大御所という評論家の人たちなどは、プロレスの歴史を最初から観ていた人たちなのである。

 

今でも70以上の人たちなら力道山を観ていたはずなので、リアルタイムで語れる人はまだまだ多くいるだろう。しかし、当然その人たちはその時代はまだ子供な訳であり、すでにマスコミとして接してきた人たちは皆無な訳だ。それを思うと、リアルタイムで取材していた人たちの話を直に読めた世代は幸せな事でもあった。

 

とりあえず当時の感覚としてはそんな感じだったのであるが、もちろん馬場・猪木も存命だっただけに、プロレスの裏側、いわゆるケーフェイは徹底的に守られていた時代でもあった。一応、1993年にUFCが誕生したり、その翌年にはヒクソンが選手として初来日を果たすなど、格闘技人気の下地は築かれてはいったのであるが、まだまだMMAはプロレスの興行人気には遠く及ばなかった。

 

何が言いたいのかというと、まだプロレスにもれっきとした勝負論があった時代なのである。つまり、大半のファンはプロレスを信じていたのだ。何故新日本VSUWFインターがここまで盛り上がったかと言うと、まずはそれに尽きるのである。ここがまず平成後期〜令和の今とは大きく異なる点だ。

 

何故Uインターが新日本の敵役となったのかは、ググれば色々出てくると思うのでいいだろう。ファン的な感情としては、Uインターは92〜93年の2年間はかなりファンの支持を得ていたかとは思う。少なくとも、当時U系と言われた中では最も盛り上がっていたのではないか。今思うと、昭和新日本、猪木・新間路線のスケールが小さい版としか言いようがないのであるが、それでもファンがプロレスラーに強さを求めていた時代の、一番の受け皿ではなかったかと思う。

 

絶対的エースな高田も、正直カリスマ性、熱狂的なファンの獲得という点では前田や船木に劣るものがあったのだが、それでも北尾を倒してからはTBSが取り上げて地上波放映されるなど、一般的な知名度をも獲得していったのが何より大きかった。ネットがなく、テレビが絶対的な娯楽の王者だった時代、テレビで取り上げられるという事は途方も無い事だったのだ。

 

そんな順風満帆に見えるかのようなUインターだったのだが、その反面、ベイダーの引き抜きなどで新日本との軋轢が生じていった。その前の92年などは、蝶野がゴングの誌面で「高田さんと闘いたい」と言ったのをUインター側が真に受けてしまい、宮戸らが挑戦状を出すという事にまで発展した事もあったのだが、当然そんな訳には行かず、永島・長州ラインが無理な要求を突きつけて無かった事になった。

 

そして、1994年の1億円トーナメント事件で、一気にファンの感情が悪化する事になる。プロレス界のしきたりを知らない鈴木健氏などは大真面目だったそうだが、そんなものは許せないというファンの怒りを買ってしまい、一気に支持を落とす事になってしまう。そして、年末には安生洋二のヒクソンへの道場破り失敗などもあり、ファン的には一気に「余計なことをしてプロレス界を掻き回すだけの団体」というイメージがついてしまったのだ。

 

そしてU系とは言いつつも、中身はどんどんプロレス化していってしまい、純粋に格闘技ライクを求めるファンはリングスやパンクラスへと流れ、これもファン離れに拍車をかける事となってしまった。そんな事が重なり、業績は火の車状態、自転車操業へと陥ってしまう。

 

しかし、基本的にプロレスマスコミは団体の経営悪化などには触れる事はないので、殆どのファンは詳しい実情は知らなかったかと思う。ただ、明らかに1995年頃は、Uインターのみではなく新日本も無理な北朝鮮興行などを行ったおかげで内情は火の車だったらしい。新日本でさえそうだったのだから、他の団体も厳しかった事はいうまでもないだろう。FMWからは一旦大仁田厚が引退という形で消え、そして全日本も固定メンバーのみのメインで集客に苦戦が見られ始めるなど、プロレス界全体に暗雲が立ち込めてきた頃でもあったのだ。