ハルク・ホーガン・その3 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

レッスルマニアの日本語版ビデオは10まで発売されていた。うち、最初に触れたように私が見たのは6,7,8のみである。もちろん、初期のも置いていたはずであるが、そこまで熱心なファンでもなかったので、近年のにとどめた訳だ。うち、最初に観たのは6と7なのであるが、ほぼ同時期なのでどっちが最初だったのかは記憶が曖昧である。

 

しかし、印象的なのはどう考えても1991年の7だ。こちらは当時勃発していた湾岸戦争をモチーフとしたものであり、愛国者だったはずのサージャント・スローターが突如アメリカを裏切り、イラクに魂を売るというストーリーだった。ロイヤルランブルでなんとアルティメット・ウォリアーを破りWWE王者に輝き、レッスルマニア7でホーガンを迎え撃つという分かりやすい話だったのだが、当時まだプロレスの裏側に触れる事はタブーであり、子供のファンが多かったWWEはプロレスの枠を超えた本気の憎悪を集めてしまい、戦争を商売に利用したWWEは世間からバッシングされる羽目になってしまった。

 

最初、この事を知ったのはゴング増刊であり、レッスルマニアの歴史もそれで学んだ。そして、実際にビデオを借りてみたのであるが、アンダーテイカーのWMデビューや、そして何より今なお語り継がれるサベージVSウォリアーの試合などもあったりして、全体的に非常に満足度の高い大会だった。

 

そして、メインのホーガン戦である。試合の流れ自体は完全に勧善懲悪のストーリーであり、リアルアメリカンヒーローのホーガンが、血を流し苦戦しながらも、最後はハルクアップからのレッグドロップで叩きのめすという流れは、見ていて非常にスカッとし、これこそプロレスだな、と思ったものである。

 

また、この大会と8は、全日本プロレス中継でお馴染みだった倉持隆夫元日テレアナと、週プロ編集長としてこの世の春を謳歌していたターザン山本氏がそれぞれ実況と解説を担当していた。それだけでも昔ながらのファンには耳心地が良かったものだが、なかでもホーガンがタンクトップを破った際に倉持アナが放った「これが、プロレスラーの肉体だ!!」が今でも印象深い。

 

もうひとつ、同時期に観た6に関して言うと、こちらのメインはホーガンとウォリアーと言う、完全にベビーフェイス同士のスーパースター対決である。ウォリアーは日本では木偶の坊、見た目だけな扱いをされていたが、プロレスラーとしては圧倒的なカリスマ性と人気を誇っていた。当然、子供のファンも非常に多く、それは2014年に死去した際、Wrestling Legend Died, my childhood heroと言う見出しが溢れたことからも良く分かる。

 

なので、初のWWE王座からすでに6年、ホーガンも全盛期を過ぎ、長期休養の噂もささやかれる中、ビンスも本格的に世代交代を考えていた時期なのかと思う。レッスルマニアのメインでホーガンからベルト奪取と言う、レスラーとしては最高の栄誉を授けられた訳だから、おおよそその線はあってるかと思う。しかし、その後の歴史が示すように、ウォリアーがホーガンの後継者となりえる事はなかった。ホーガン以上のカリスマ性を持つレスラーなどありえないのもあるし、それ以上に素行自体が悪かったとも言われ、実際にその後解雇もされている。

 

8は、WCWでシッド・ビシャスの名前で活躍していたシッド・ジャスティスがメインの相手だったが、いかんせんホーガンの相手としては格下感は否めなかった。だからかどうかは知らないが、試合自体も名勝負とは程遠く、決着も反則だったと思う。試合後にウォリアーが颯爽と現れてファンの留飲を下げたのだが、ホーガン的には面白くもない結果だっただろう。そのせいではないかと思うが、しばらくの間リングから姿を消していった。

 

その後は先述したように、新日本にも復帰しかつWCW移籍と相成るのであるが、やはりアメリカン・プロレスのヒーローであるハルク・ホーガンと言えばこの長期休養ぐらいまでだっただろう。その後、NWOで再度大ブレイクを果たし、私自身もNWOの日本語版ビデオを何度も観たほどであるが、やはり今でもホーガンと言えば、黄色と赤のコスチュームに、リアル・アメリカンに乗り星条旗を振り回すリアルアメリカン・ヒーローのホーガンだ。